第五章「読めない女(マル対・澪)」
その夜、俺は眠れなかった。
原因は、はっきりしていた。一ノ瀬澪という女が、俺の頭から離れなかったからだ。
寝室は男女で分かれていて、男四人が二段ベッドの並ぶ部屋に押し込まれていた。氷室は下段でとっくに寝息を立てている。熊沢は歯磨きの途中で寝落ちして、廊下でスタッフに起こされていた。透はベッドの中で、ずっとスマホの光を顔に浴びていた。
俺は天井を見上げていた。二段ベッドの上段は、寝返りを打つたびに鉄の軋む音がした。安っぽい音だ。この箱の中では、寝床さえ、本物には作られていない。頭の中で、俺は澪の言葉を何度も再生していた。
あなた、ずっと自分に嘘をついてるでしょう。
俺は人を「マル対」として見る癖がある。マル対、というのは、捜査で言う対象者のことだ。尾行や内偵で、目を離してはいけない相手。この箱に入ってから、俺のマル対は氷室だった。闇バイトの線に、いちばん近そうな男。だが今、俺の頭の中では、マル対がもう一人、増えていた。
一ノ瀬澪。読めない女。
読めない、ということが、俺には落ち着かなかった。俺の仕事は、読むことだ。読めない相手がいると、足元が崩れる気がする。だから俺は、彼女を、事件と同じやり方で分類しようとしていた。あの女には裏がある。まだ見つけられないだけだ。必ず、どこかに──と。
だが、そう自分に言い聞かせるほど、別の声が、胸の奥で疼いた。もし本当に裏がなかったら? 隠すものが、何もない人間だったら? 俺は、その可能性を、どう扱えばいいのか、分からなかった。俺の世界には、裏のない人間の置き場所が、なかった。
◇
昼間の「現場検証」で、俺と澪は、少しだけ長く話した。
「花屋さんなのか」
「はい。小さな店ですけど」
「なんで、この番組に」
俺の問いに、澪はほんの一瞬、答えを探す顔をした。ほんの一瞬だ。ふつうの人間なら、見逃す。だが俺は見逃さなかった。彼女の視線が、わずかに右上へ動いた。
作り話を組み立てるときの目の動き。
「……いろいろ、あって」
いろいろ、と彼女は言った。氷室と同じ言葉だった。だが氷室のそれが、興味を持たれたい嘘だったのに対し、澪のそれは、隠したい何かを覆う嘘に見えた。同じ嘘でも、質が違う。
俺はそこを突かなかった。突けば、取調べになる。ここは取調べ室じゃない。それに──なぜか、突きたくなかった。
「変な質問するけど」
代わりに俺はこう聞いた。
「あんた、恋を探しに、ここに来たわけじゃないだろ」
澪は目を丸くした。それから、困ったように笑った。
「相馬さんも、でしょう?」
一本、取られた。俺は口をつぐんだ。
俺は澪の手を見ていた。
花屋だと言うだけあって、指先の爪が短く切りそろえられ、あちこちに小さな傷があった。棘の傷だろう。だが、そのうちの一つ、右の手首の内側に、傷とは違う痕があった。細い、赤い線。何かをきつく握った跡か、あるいは、誰かに掴まれた跡か。
俺の視線に気づいて、澪はさりげなく袖を引いた。手首を、隠すように。
「弟が」
不意に彼女がそう言った。
「昔から、手のかかる子で。わたし、心配性なんです」
弟。俺はその単語を頭の隅に留めた。だが彼女は、それ以上は言わなかった。話をそらすようにこう続けた。
「みんな、ここには、別の理由で来てるんだと思います」
澪は庭の書き割りのほうを見ながら、続けた。
「恋を探しに来たふりをして、本当は、それぞれ、埋めたいものがあって。……でも、ふりをしてるうちに、本物になっちゃう人も、いるのかもしれませんね」
ふりが、本物になる。
その言葉が、なぜか俺の胸に、小さな棘のように刺さった。彼女は俺のことを言っているのか。それとも、自分のことを言っているのか。俺には、読めなかった。
◇
眠るのを諦めて、俺はベッドを下りた。
水を飲もうと、リビングへ向かう。深夜の合宿所は、昼間の喧騒が嘘のように静まっている。照明のほとんどが落とされ、非常灯の緑だけが、廊下をぼんやり照らしていた。カメラのレンズは、暗がりの中でも、赤い小さな光を灯して、こちらを見ている。この箱では、深夜も、誰も一人にはなれない。
キッチンで水を汲んでいると、庭に面したガラス戸の向こうに人影が見えた。
俺は動きを止めた。
氷室だった。書き割りの庭のいちばん暗い隅。カメラの死角になりそうな場所を正確に選んでいる。彼はスマホを耳に当てて、低い声で話していた。
昼間の氷室の声は、よく通る、明るい声だ。誰にでも好かれる、王子様の声。だが今、ガラス越しに漏れてくる声は、まるで別人のものだった。低く、平坦で、感情がない。命令する側の声。
俺は息を殺した。刑事の癖で、聴き取ろうとした。冷蔵庫の低い唸りが、耳障りだった。俺はその音の隙間に、氷室の声を拾おうとした。だが、ガラスは厚く、言葉までは届かない。届いたのは、声の温度だけだった。
氷室のスマホを俺は目で追った。彼はそれを、耳から少し離した位置で持っている。画面を、周囲に見せないように胸のほうへ傾けている。ふつうの通話では、あんな持ち方はしない。あれは、記録を残したくない人間の隠すための持ち方だ。秘匿性の高いアプリ。トクリュウが、指示を出すのに使うと言われている、あの手のもの。
心臓が、静かに速くなった。俺は自分の呼吸の音が、氷室に届かないよう、ゆっくりと吐いた。コップを持つ手のひらに汗がにじんでいた。
その温度を俺は知っていた。取調べ室で、何十人と向き合ってきた。人を、道具としてしか見ていない人間の声。壊れても構わない何かに、指示を出す声。
氷室がふいに、こちらを振り向いた。
俺はとっさに身を引いた。だが、遅かったかもしれない。緑の非常灯の下で、氷室の目が、一瞬、こちらを捉えた気がした。
彼はすぐに、いつもの王子様の顔に戻った。スマホをポケットにしまい、何事もなかったように、ガラス戸を開けて入ってくる。
「あれ、相馬さん。眠れないんすか」
昼間のよく通る声だった。
「ああ。水を飲みに」
「奇遇っすね。俺も夜風に当たりたくて」
嘘だ、と俺は思った。この男は今、夜風になど当たっていない。カメラの死角で、別人の声で、誰かに指示を出していた。
だが俺には、その裏を取る手段が、まだなかった。心証だけだ。証拠は、何もない。
「じゃ、おやすみなさい」
氷室は爽やかに笑って、寝室へ戻っていった。
俺はコップの水を飲み干せずにいた。ぬるくなった水が、手のひらの中で、生ぬるい重さになっていた。
寝室に戻る前に、俺は非常灯の下で、私物の手帳を開いた。今日の日付の下に、二行だけ書き足した。
『氷室、深夜に秘匿通話。声の温度、要注意。裏、なし。』
一行目を書いてから、俺は少し迷って、二行目を書いた。
『一ノ瀬澪、右手首に痕。弟の話で、目が動く。──だが、読めない。』
読めない、という三文字を書いたのは、初めてだった。俺の手帳は、裏の取れた事実しか載せない場所だ。なのに俺は、確かめようもないことを書いてしまった。読めない、という、俺自身の敗北を。
ペンを止めて、俺はその三文字をしばらく眺めていた。緑の非常灯の光が、ページの上で、じっとりと揺れている。消そうかと思った。ペン先を、一度、その文字に当てた。だが、消さなかった。手が、動かなかった。
なぜ消さなかったのか。その理由を、このときの俺は、まだ言葉にできなかった。
この箱には、二人、俺の読めない人間がいる。裏のなさすぎる女と、裏のありすぎる男。俺はその両方から、目を離せなくなっていた。だが、目を離せない理由が、二人でまるで違うことに俺はまだ、気づかないふりをしていた。




