第三章「おとりは、俺だ」
「あなた、本物の現役刑事なんですってね。最高だわ。今期、数字が跳ねる」
そう言って握手を求めてきた女が、この番組のプロデューサーだった。榊、と名乗った。歳は四十くらいか。黒いシャツに黒いパンツ。表情の作り方に一切の無駄がない。笑っているのに、目だけが別のことを考えている。人を、素材として見る目だ。俺には、その手の視線がよく分かる。俺も人を証拠として見る人間だから。
撮影所は、街から車で一時間ほどの山あいにあった。着いてまず驚いたのは、そこが「家」ではないということだった。
テレビで観るあの合宿所は、外から見れば瀟洒な一軒家だ。だが中に入ると、壁の裏側は剥き出しの鉄骨とケーブルの束で、天井にはレールが走り、無数のカメラが首を伸ばしていた。窓の外に見える庭も、書き割りの向こうは駐車場だった。本物に見えるものは、一つもなかった。全部が、本物に見えるように作られた、偽物だった。
空気の匂いまで作られていた。廊下に一歩入ると、甘い花のような香りが漂ってくる。だが花はどこにもない。芳香剤だ。天井近くの吹き出し口から、無臭のはずの空調に、わざわざ香りを乗せている。視聴者には届かないはずの匂いにまで、演出が入っている。俺は思わず鼻の奥で息を止めた。
足元のフローリングは、本物の木のように見えて、踏むとわずかに軽い音がした。安いプリント合板だ。この床の上で、これから一ヶ月、本物の恋が生まれることになっている。
「気に入った?」
榊が俺の視線を追って言った。
「ここはね、世界でいちばん、嘘の上手な場所なの」
「趣味が悪い」
「あら」
榊は笑った。今度は、目も少し笑った。
「刑事さんは、嘘がお嫌い?」
「嫌いです。仕事で、毎日見てるので」
「じゃあ、うちにぴったりだわ」
◇
スタッフルームで、番組のルールの説明を受けた。
参加者は男女あわせて十人。ここで一ヶ月、共同生活を送りながら、本命の相手を見つける。数日おきに「セレモニー」があり、そのたびに一人か二人が脱落していく。
脱落の仕組みは、少し変わっていた。各セレモニーで、参加者は一枚のカードに、一人だけ名前を書く。番組ではそれを「身元保証カード」と呼んでいた。
「身元保証、というのは……本来、警察や役所で使う言葉ですよね」
俺が言うと、若いディレクターが得意げに頷いた。
「そうなんです。身元保証人って、いるじゃないですか。この人は信用できます、私が保証します、って。うちの番組は、それを恋に持ち込んだんです。『この人になら、自分の身元を預けられる』って思う相手の名前を書く。誰にも名前を書かれなかった人は──」
「脱落、と」
「送検、って呼んでます」
俺は眉を寄せた。
「送検」
「はい。刑事さんがいらっしゃるんで、今期は演出を全部その路線で。デートは『現場検証』、みんなで疑い合う回は『ガサ入れ』、告白は『供述』。脱落セレモニーは『送検』。どうです、面白いでしょう」
面白くなかった。むしろ、背筋のあたりが冷たくなった。
こいつらは、恋を、捜査に変えようとしている。好きだという気持ちに保証を求め、告白を供述と呼び、別れを送検と呼ぶ。裏の取れない感情に、無理やり裏を取らせようとする、この仕組み。
──それは、二年前から俺がやってきたことと、まったく同じだった。
俺はこの番組が嫌いだと思った。同時に、この番組が、俺という人間そのものだということにも気づいて、もっと嫌な気分になった。
「相馬さん」
榊がいつの間にか隣に立っていた。
「あなた、いい顔してる。今、すごく嫌そうな顔。──カメラは、そういうのが好きなの」
俺は顔を戻した。だが、遅かった。榊の目は、もう俺の「素材としての価値」を計算し終えていた。
◇
控室で、一人になった。
鏡の前に、この一ヶ月を過ごすための荷物が置いてある。着替えと、洗面道具と、それだけだ。俺は上着の内ポケットから、私物の手帳を取り出した。くたびれた黒い表紙。裏の取れた事実だけを書く、俺の一冊。
本当は、持ち込みは推奨されていなかった。私物は最小限にと言われている。だが、これがないと落ち着かなかった。俺はページを開いて、今日の日付の下に一行だけ書いた。
『番組周辺に闇バイトの線。裏、なし。要・確認。』
裏がない、と書くのは、俺の手帳では珍しいことだった。ふだんは、裏の取れたことしか書かない。噂も、憶測も、確かめる前の言葉も、俺はこの一冊には残さない。書いた一行が、いつか誰かの人生を決める。だから、確かめていないことは書かない。それが、二年前に人を壊してから、俺が自分に課したたった一つの規律だった。だが今回は例外だ。この一ヶ月、俺はここで、裏を取る。恋の演技を見に来たんじゃない。煙の中にいる誰かを、あぶり出しに来たんだ。
そう自分に言い聞かせて、俺は手帳を閉じた。
──後になって思えば、この瞬間の俺は、いちばん大きな嘘を自分についていた。人の嘘は見抜けるのに、自分のこの嘘だけは、最後まで見抜けなかった。俺は本当は、事件を追いに来たのではなかった。何を追いに来たのか、それに気づくのは、まだずっと先のことだ。
◇
「相馬さん、スタンバイお願いします」
スタッフに呼ばれ、俺は扉の前に立った。両開きの大きな白い扉。この向こうに、これから一ヶ月を共にする九人が待っている。
「では──オープン、いきます。三、二、一」
キューが出た。扉が、内側から自動でひらいた。
光が、あふれた。
天井から吊られた無数の照明が、リビングを昼のように照らしている。白いソファ。作り物の観葉植物。そして、そこに座った九人が、いっせいに、こちらを振り返った。
九人が、九人とも、まぶしいくらいの笑顔だった。
初対面の相手に、あんなに完璧な笑顔を向けられる人間はいない。あれは、カメラのための笑顔だ。作られた、演じられた笑顔。九枚の上手な仮面。──俺は入り口に立ったまま、その九枚を、一枚ずつ読み始めた。あの男は自信を演じている。あの女は無邪気を演じている。あの子は、緊張を隠すのが下手だ。
中央に座った、モデルのような男。姿勢が完璧すぎる。あれは、自分がいちばん良く映る角度を、体で覚えている人間の座り方だ。自信を演じているのではない。自信を商品にしている。
その隣の髪を巻いた女。笑顔の下で、視線だけが素早く動いている。誰が誰を見ているか、力関係はどうか。場の空気を値踏みしている。計算が速い。
反対の端の大柄な男。この男の笑顔だけは、演技ではなかった。ただ嬉しくて笑っている。裏が、まるでない。おそらく、嘘のつけない種類の人間だ。俺と同じ──いや、俺とは逆の理由で。
ギャルふうの女が一人。派手な見た目とは裏腹に、いちばん場をよく見ている目をしている。寡黙な男が一人。誰とも目を合わせず、俯いている。
八枚まで、俺は一秒で読んだ。それぞれの笑顔の裏に何が隠れているかを。承認欲求。計算。緊張。退屈。恋を探しに来た人間は、この中に一人もいない。みんな、別の何かを探しに来ている。俺と同じだ。
だが、九枚目で、俺の視線が止まった。
いちばん端に座った女だけが、笑っていなかった。正確には──笑ってはいた。だがその笑みは、カメラのほうを向いていなかった。彼女はこちらをまっすぐ見ていた。まるで、俺という人間の中身を、先に読もうとするみたいに。
読めなかった。
俺は人の笑顔の裏側を読むのが仕事だ。なのに、その女の笑顔だけは、裏が、どこにも見当たらなかった。




