第二章「人事異動という名の左遷」
「相馬。お前を出す」
署長室のソファに腰を下ろすなり、正面の署長がそう言った。出す、という言葉の意味が、俺には一瞬つかめなかった。
朝の九時。ブラインドの隙間から差し込む光が、応接テーブルのガラスに白い帯を作っている。署長の隣には、見慣れない女が座っていた。県警本部の広報課だと名乗った。糊のきいたスーツを着て、膝の上にタブレットを抱えている。
「出す、というのは……どこへですか」
「テレビだ」
署長がタブレットを俺のほうへ滑らせた。画面には、派手な文字が躍っていた。
『恋愛リアリティショー〈トゥルー・ハート〉──あなたの本当の恋を。』
俺は画面を見た。それから、署長の顔を見た。もう一度、画面を見た。
「……冗談ですよね」
「至って本気だ」
広報課の女が、タブレットを操作して次の資料を出した。折れ線グラフが並んでいる。右肩下がりの線だった。
「相馬巡査部長。単刀直入に言います。うちの県警は今、警察官の志願者が足りていません。この五年で、受験者数は三割落ちました」
グラフの線は、崖のように落ちている。
「若い世代に、警察という仕事が届いていないんです。怖い、堅い、ブラック──そういうイメージだけが先行している。だから本部は、イメージ戦略に踏み込むことにしました。親しみやすい、生身の警察官の姿を、若い人が毎日見る場所に届ける」
「その場所が、恋愛番組だと」
「今、いちばん数字を持っている番組です。若年層の視聴率が桁違いなんです」
女はタブレットを俺の前で止めた。企画書のいちばん上に、キャッチコピーが太字で書かれていた。
『現役刑事、本気で恋をする。』
俺はこめかみのあたりが鈍く痛むのを感じた。
本気で、恋をする。この十文字ほど、俺から遠い言葉はなかった。恋というのは、証拠の出ない感情の最たるものだ。好きだという言葉には、裏が取れない。相手の胸を開いて、そこに本物の好意があるかどうか、確かめる手段はない。だから俺は、とうの昔に、恋を捜査の対象から外していた。信じられないものは、初めから存在しないものとして扱う。そう決めたはずだった。
その俺に、本気で恋をしろという。しかも、カメラの前で。
窓の外で、雲が動いたのだろう。ガラスの上の白い帯が、すっと消えた。部屋が急に薄暗くなり、折れ線グラフの崖だけが、画面の中で青く光っていた。
「なぜ、俺なんですか」
その問いに、署長も広報課の女も、一瞬だけ目を伏せた。答えは、聞くまでもなかった。俺には失うものがない。二年前にもう失っている。捜査本部に呼ばれることもない。俺を一ヶ月現場から抜いても、誰も困らない。しかも──こう言っては何だが──俺はテレビ映りだけは悪くないらしい。使い勝手のいい、暇な駒。それが今の俺の価値だった。
「相馬」
署長が、少しだけ声を落とした。
「これは命令だ。人事の一環として、正式に発令する。断る余地はない」
命令。その一言で、話は終わりだった。組織の人間に、命令を断るという選択肢はない。あるふりをしても、結局は従う。従わなければ、居場所がなくなる。二年前に一度失った居場所を俺はもう、失うわけにはいかなかった。
◇
署長室を出ると、廊下で課長が待っていた。俺の直属の上司だ。歳は五十を越えていて、二課で唯一、俺と口をきいてくれる相手だった。
「聞いたか」
「聞きました。最悪です」
課長は缶コーヒーを二本持っていた。片方を俺に押しつける。ぬるい。自販機の下のほうにあった、売れ残りの一本だろう。
「まあ飲め」
俺たちは、非常階段の踊り場に出た。喫煙所だったが、今は誰も吸わない。課長は煙草の代わりに缶コーヒーを開けた。
「相馬。お前、あの番組がどういうものか、分かってるか」
「全員が、恋を演じる場所でしょう」
「そうだ。カメラの前で、好きだの惚れただのを二十四時間やる。台本はないことになってるが、演出はある。編集もある。連中は、映像を切り貼りして、視聴者が観たい物語を作る」
「地獄ですね」
「お前にとってはな」
課長は缶の縁を指でなぞった。
「なあ相馬。お前、いつまで、そうやってるつもりだ」
「そう、とは」
「全部の裏を取らなきゃ、誰のことも信じられない。証拠がなきゃ、隣に誰も座らせない。──寂しくないのか、それは」
俺は答えなかった。答えは決まっていたが、口にするのが億劫だった。寂しいかどうかで、判断を変えるわけにはいかない。感情は、証拠にならない。
課長は俺の沈黙を見て、小さく息を吐いた。
「裏の取れないものも、いつか信じないとな。人間ってのは、そういうふうにできてる」
「俺は、そういうふうにできていません」
踊り場の下から、朝の駐車場のざわめきが上がってきた。パトカーのドアが閉まる音。無線の断片。誰かが誰かを呼ぶ声。俺にとっては、二年前まで、当たり前だった世界の音だ。今の俺は、その音の外側に立っている。缶コーヒーの湯気が、冷たい空気の中でほどけて消えた。
「知ってる」
課長は笑った。それから、真顔になって、一枚の紙を俺に差し出した。企画書とは別の内部の資料だった。
「これは、ここだけの話だ」
紙には、見慣れた言葉が並んでいた。トクリュウ。匿名・流動型犯罪グループ。暴力団のような固定した組織を持たず、SNSの闇バイトで実行役を集め、離合集散を繰り返す、新しいタイプの犯罪ネットワークのことだ。ここ数年、特殊詐欺や強盗の裏には、たいていこの連中がいる。
「先月、うちの管内で挙げた特殊詐欺の受け子──金を受け取る末端の実行役だな。そいつのスマホから、妙な線が出た」
課長は資料の一点を指で叩いた。
「そいつが闇バイトに応募したきっかけが、どうやら、あの番組の周辺らしいんだ。詳しくは、まだ何も裏が取れてない。心証だけだ」
心証。裁判官が証拠から抱く、こういうことだろうという内心の判断。まだ証拠にはならない、ただの手応えのことだ。
「本部は、この件と番組出演を、公式には一切結びつけてない。お前はあくまで、広報の駒として出る。だが──」
課長は俺の目を見た。
「もしお前が、あの箱の中で、何かを見つけたとしても。俺は止めない」
俺は資料を受け取った。指先に紙の乾いた感触があった。
「首謀者は、まだ影も見えてない」
課長が言った。
「トクリュウってのは、いちばん上にいる中核の人間が、絶対に表に出ない。秘匿性の高いアプリで指示だけ飛ばして、末端の実行役を使い捨てる。捕まるのはいつも下っ端で、上は逃げる。今回もそうだ。受け子は挙げた。だがその向こうにいる誰かは、まだ煙の中だ」
煙の中の誰か。俺はその言葉を頭の中で転がした。二課の刑事の血が、久しぶりに、わずかに騒いだのが分かった。
「だから、あの番組か」
「かもしれん、というだけの話だ。裏は何もない。忘れてくれてもいい」
忘れられるはずがなかった。課長もそれが分かっていて言っている。
暇な駒として、笑いものになりに行く。──そう思っていた話に、細い糸が一本、垂れてきた。俺はその糸を、心のどこかで、たしかに掴んでしまった。
自分に嘘をつくのは、下手なはずだった。なのにこのときの俺は、うまくやった。これは仕事だ、と自分に言い聞かせて。恋の演技を見に行くんじゃない。犯罪の匂いを嗅ぎに行くんだ、と。
明後日の朝、俺は合宿所へ入る。全員が本当の恋を探しにきたと嘘をつく、あの箱の中へ。
そのとき俺は、まだ知らなかった。その箱の中に、俺には一生かかっても裏の取れない、たった一人の女がいるということを。




