第一章「取調べ室(零時三十九分の供述)」
午前零時三十九分。男が三度目に瞬きをした瞬間、その供述が崩れる音を俺は聞いた。
供述というのは、要するに取り調べで本人が語る言い分のことだ。真実とはかぎらない。むしろ嘘であることのほうが多い。だから俺たちは裏を取る。語られた言葉の背後に、それを支える事実があるかどうかを一つずつ確かめていく。裏が取れて初めて、供述は証拠になる。
目の前の男は、これまで七人の女から総額四千万を巻き上げた結婚詐欺師だった。歳は四十半ば。仕立てのいいジャケットを着て、髪を几帳面に横へ流している。信頼を売る商売の人間は、たいてい身なりがいい。
「だから、俺はただ本気で愛しただけなんですよ、刑事さん」
男は目尻を下げて笑った。うまい笑い方だった。左右の口角が同じ角度で上がっている。練習した人間の笑いだ。
「愛したから、金を借りた。返すつもりだった。それのどこが罪なんです」
俺は答えなかった。ただ机の上の湯飲みを一センチだけ男のほうへ寄せた。安物の茶の匂いが、狭い取調べ室の蛍光灯の下でかすかに立ちのぼる。
男の視線が、湯飲みを追った。
「──今、目が動いたな」
「え」
「あんた、話しながら三回、右上を見た。人は記憶を呼び出すとき左上を見る。作り話を組み立てるときは右上だ。あんたは『本気で愛した』の三カ所で、右上を見た」
蛍光灯がじりっと鳴った。男の笑みが、初めて左右で崩れた。
「そんなのは、こじつけだ」
「そうかもな」
俺は男の右手を見ていた。テーブルに置かれた指が、さっきから一定の間隔で天板を叩いている。人差し指、中指、薬指。その順で三回。話が核心に近づくたびに、テンポがわずかに速くなる。本人は気づいていない。指は、口ほどには嘘をつけない。
匂いも変わっていた。緊張した人間は、汗の匂いが変わる。取調べ室の狭い空間では、それがよく分かる。整髪料の甘さの下に、酸っぱい何かが混じり始めていた。
俺は手帳を開いた。表紙のくたびれた黒い手帳。刑事が持たされる捜査手帳ではなく、俺が私物として使っている別の一冊だ。裏の取れた事実だけを俺はそこに書く。まだ確かめていないことは、絶対に書かない。それが二年前からの俺の決まりだった。
「四人目の被害者、五十八歳。あんたに三百万渡した後、家を売った」
俺はページをめくる。
「五人目、六十二歳。あんたに指輪を買わされて、そのローンがまだ残ってる」
めくる。
「六人目は入院した。心労で。診断書が出てる」
男の喉が、ごくりと動いた。ベースラインが崩れる瞬間だ。人には平常時の呼吸や姿勢がある。感情が動くと、そこからのズレとして表に漏れる。訓練された詐欺師でも、自分のついた嘘の総量を目の前に並べられると、喉だけは正直になる。
「あんたのついた『愛してる』は、七回とも右上だ」
俺は手帳を閉じた。
「本気で愛したことなんて、一度もないだろ。あんたは、愛を演じただけだ」
男は長いこと黙っていた。それから、笑うのをやめた顔で、ぽつりと言った。
「……あんた、怖い人だな。人の嘘が、そんなに見えるのか」
「仕事だからな」
俺は立ち上がった。
「じゃあ、供述調書を作り直そう。今度は、右上を見ないやつを」
◇
取調べ室を出ると、廊下の空気が急に冷たく感じた。深夜の署は静かだ。当直の同僚が、自販機の前で缶コーヒーを傾けている。
「相馬さん、また一発で割ったんすか」
割る、というのは、頑なだった被疑者を落とすこと。自白させることを、俺たちの世界ではよく「ウタわせる」とも言う。
「割ったんじゃない。向こうが勝手に崩れただけだ」
「相変わらず化け物っすね。人の嘘、全部見えるんでしょ」
俺は返事をしなかった。全部が見えるわけじゃない。見えないものだけが、いつも俺を刺す。
同僚が、缶を軽く掲げて言った。
「そういや相馬さん、最近ちゃんと寝てます? 目の下、やばいっすよ」
「問題ない」
言った瞬間、自分でも分かった。今の「問題ない」は、たぶん右上を見ながら言った。
俺は人の嘘を見抜くのが仕事だ。だが自分の小さな嘘だけは、昔から、どうしても売れない。愛したふりも、平気なふりも、うまくできたためしがない。詐欺師にはなれない人間なのだ、俺は。
同僚が笑った。
「今の嘘でしょ」
「……問題ない」
同僚はもう一度笑って、当直室のほうへ消えていった。俺は一人、廊下に残された。窓の外は雨だった。深夜の署の駐車場に、パトカーの赤い塗装が濡れて光っている。
人の嘘は見えるのに、自分の嘘だけは隠せない。俺はときどき、それが自分への罰のような気がする。人を信じられなくなった代わりに、せめて、人を騙すこともできないように──誰かがそういう仕組みに、俺を作り替えてしまったような。
指先が冷えていた。俺は上着の襟を立てた。
◇
自分の席に戻ると、机の上に一枚のメモが置いてあった。当直の伝言だ。
『相馬巡査部長。明朝九時、署長室へ。至急。』
至急。深夜に置かれた至急。
俺の頭の中で、いくつかの可能性が並んだ。だが、そのどれもが、あまり良い予感をさせなかった。二年前のあの件以来、俺に回ってくる話は、いい話だったことがない。
俺は捜査二課の刑事だ。知能犯を追う。結婚詐欺、投資詐欺、そして最近この街に増えてきた特殊詐欺──電話やSNSで人を騙し、金を奪う連中。かつては、その最前線にいた。今は、こうして深夜の取調べに一人で放り込まれ、割り終えたらまた一人で席に戻る。誰も、俺と組みたがらない。
理由は、俺自身がいちばんよく知っている。
二年前。俺は結婚詐欺グループを内偵していた。内偵というのは、相手に気取られないよう、密かに探る捜査のことだ。そのとき、一人の女が俺のところへ来た。自分も騙された被害者だ、と泣いた。名前を千鶴といった。
俺は彼女を信じた。裏を取らずに信じた。守ると誓った。彼女の涙は、右上を見ていなかった。だから本物だと思った。
千鶴は、首謀者の女だった。俺の信頼を使って、捜査の内側を探っていた。俺が守ろうとしていた本物の被害者──一人暮らしの老人が、そのせいで、取り返しのつかないところまで追い込まれた。それ以上のことは、思い出したくない。捜査は崩れ、俺は現場から外された。
以来、俺は決めた。証拠のないものは、二度と信じない。裏の取れない感情は、すべて演技だと思え、と。信じた分だけ、人が壊れる。それが、二年前に俺が学んだことだった。
そう決めてから、俺の手帳はきれいになった。書くのは、裏の取れた事実だけ。曖昧なものは一行も残さない。人の言葉は、確かめてから書く。確かめられないものは、存在しないものとして扱う。そのほうが、間違えない。そのほうが、誰も壊れない。
そのぶん、俺の隣の席は、ずっと空いたままだった。かつて相棒が座っていた椅子だ。今は誰も座らない。俺と組めば、次に壊れるのは自分かもしれない──署内の人間は、口には出さないが、そう思っている。俺にもそれが分かる。分かるから、俺は誰も誘わない。
湯飲みの茶は、いつのまにか冷めきっていた。俺はそれを一息に飲み干した。ぬるくて、苦いだけの液体だった。
俺は伝言メモを二つに折って、上着の内ポケットに入れた。手帳と同じポケットだ。指先が、手帳の硬い角に触れる。
嫌な予感がした。
だが、あのときの俺は、まだ知らなかった。翌朝の署長室で渡される一枚の企画書が、俺を、この世でもっとも嘘の多い場所へ──全員が恋を演じる、あの箱の中へ、送り込むことになるとは。




