第二十二章「身元保証」
俺は証拠を出すのをやめた。
代わりに、この番組のいちばん最初のルールを思い出していた。身元保証カード。この人になら、自分の身元を預けられる。そう思う相手の名を書く。この番組の根っこにある仕組み。
身元保証。俺たちの世界にも、似た言葉がある。身元引受人。罪を犯した人間を社会に、引き受ける人。この人は、私が、責任を持ちます、と、保証する人。裏を取るのではない。証拠を集めるのでもない。ただこの人を信じる、と、公に、宣言すること。それが、身元保証だった。
俺は司会から、マイクを奪うように取った。そして、カメラに向かって言った。
「一つ、供述させてくれ。──俺のじゃない。俺が身元を保証する、二人についてだ」
スタジオが、静まった。氷室が訝しげに、俺を見た。
「一ノ瀬澪。この女は、恋を探しに、ここへ来たんじゃない。弟を救うために来た。弟が、闇バイトに、手を出して、抜けられなくなって。姉として、なんとか、助けようと、必死だった。彼女はこの一ヶ月、誰にも、それを言えずに、一人で抱えてきた」
澪がはっと、顔を上げた。
「俺は、彼女を疑った。洗った。傷つけた。──だが、今、はっきり、言う。一ノ瀬澪は、何も、悪いことは、していない。俺がこの女の身元を保証する。裏は、取れてない。証拠も、ない。それでも、俺はこの女を信じる」
証拠のない、宣言だった。刑事が、絶対にやってはいけない、宣言だった。裏の取れないものを公に保証する。二年前の俺なら、舌を噛んでも、言わなかった言葉。
言いながら、俺は自分の声が、震えていないことに驚いた。二年間、俺はこの種の言葉を恐れてきた。証拠のない断言。それは、二年前、俺を崖から突き落とした言葉だった。千鶴を信じます、と、俺はあのとき、心の中で宣言した。そして裏切られた。以来、俺は二度と、証拠のない保証を口にしなかった。裏の取れないものは、なかったことにする。それが、俺の鎧だった。
だが、今、俺は鎧を脱いだ。裸で崖の際に立った。澪を信じます、と、今度は、心の中ではなく、この国じゅうに向かって宣言した。外れれば、俺はただの往生際の悪いストーカーとして完全に終わる。それでも、俺は言った。震えずに言えた。二年前と、違ったのは、恐怖より、確信のほうが、大きかったからだ。生の映像で見た、澪のあの本物の横顔。それが、俺に確信をくれていた。
だが、それは、この番組の根っこを揺るがした。全員が、恋を演じ、全員が、裏を隠す。誰も、本当には、信じ合わない。その前提の上で氷室は無敵だった。榊の番組も、回っていた。──その前提を俺はたった一つの証拠のない信頼で崩そうとしていた。
◇
「そして、もう一人」
俺は続けた。カメラの向こうへ。この放送を見ているはずのまだ顔も知らない、一人の男へ。
「一ノ瀬拓。澪の弟。──もし、今、これを見ているなら、聞いてくれ」
スタジオの全員が、息を飲んだ。
「お前は、使い捨てにされる、駒じゃない。闇バイトの連中は、お前を部品みたいに使って捨てる。捕まれば、切り捨てる。抜けようとすれば、家族を脅す。──だが、お前をそんなふうに、しか見ない連中の言葉なんか、聞くな」
俺は拓の名を証拠として出さなかった。犯罪者として晒さなかった。代わりに、俺は彼を信じる側から、呼びかけた。
「お前の姉さんは、お前を見捨ててない。ずっと助けようとしてた。俺もお前を犯罪者としてじゃなく、抜け出したい一人の人間として見てる。──だから、自分から、出てこい。本当のことを話せ。お前を道具にする連中じゃなく、お前を信じる側に来い」
これが、実行役への出口だった。
証拠を無理やり、引き出すのではない。彼が自分から、話したくなる場所を作る。一度でも、本気で、信じてくれる人間が、現れれば。裏切られ続けてきた末端の人間は、その手を掴む。俺は取調べで、何度も、それを見てきた。人を落とすのは、証拠じゃない。信じてくれる、たった一人の存在だ。
スタジオに、沈黙が、落ちた。長い、長い、沈黙だった。何も、起きないかもしれなかった。この賭けは、外れるかもしれなかった。俺は証拠を向こうから来ると言った。だが、来る保証は、どこにも、なかった。裏の取れない、賭けだった。
一秒が、一分に感じられた。スタジオの照明が、じりっと、鳴った。取調べ室のあの音と、同じだった。だが、今、俺が待っているのは、被疑者の自白では、なかった。一人の迷える人間が、信じる側へ、一歩を踏み出してくれるかどうか。それを待っていた。祈るように。刑事になって初めて、俺は証拠を祈っていた。奪うのではなく。届くのを。
澪は両手を胸の前で固く、組んでいた。花屋の傷だらけの指先が、白くなるほど。彼女も祈っていた。弟が、正しいほうへ、手を伸ばしてくれることを。姉弟の二年分の祈りが、そのスタジオの沈黙の中に満ちていた。
そのときだった。
スタジオのスタッフの一人が、慌てて、フロアに駆け込んできた。
「相馬さん! 番組の問い合わせ窓口に、電話が──『一ノ瀬拓』と、名乗る男性から!」
澪が口を押さえた。目から、涙が、あふれた。
拓が出てきた。
自分から。信じられた側へ歩いてきた。彼は電話口で、すべてを話し始めていた。氷室から、受けた指示。闇バイトのやり取り。秘匿アプリの履歴。──証拠が、向こうから、こちらへ歩いてきた。俺が力ずくで、奪おうとしなかった証拠が。信じたことで、向こうから、届いた証拠が。
氷室の顔から、血の気が、引いた。
「な……なんで」
彼の完璧な仮面が、初めて完全に剥がれ落ちた。
「なんで、あんな呼びかけで、あいつが、出てくるんだ。証拠も、握られてないのに。なんで、裏も取らずに信じられる。ばかげてる。人は、そんなに単純じゃない」
俺は氷室をまっすぐ見た。
「お前が、いちばん知ってるだろ」
俺は静かに言った。
「人は、金でしか動かないと、お前は思ってた。だから、寂しさを金に換えて人を動かしてきた。──でも、本当は、逆だ。人をいちばん動かすのは、信じられることだ。お前が、決して、誰にも、差し出さなかったもの。それが、お前の負けた理由だ」
「そんなの……そんなの証明できない」
「ああ」
俺は頷いた。
「証明できない。裏も、取れない。──愛には、裏がないからな」
言葉にして、初めて、俺はそれを本当に理解した。二年間、俺を苦しめてきたもの。恋には、裏が取れない。好きだという言葉を証明する手段が、どこにもない。俺はそれを恋の欠陥だと、思ってきた。だから、恋を信じられなかった。
だが、逆だった。裏が取れないのは、恋が、嘘だからじゃない。裏の取れないものだけが、本物だからだ。証明できるものは、確認できる。確認できるものを認めるのは、信じるとは、言わない。証明できないものをそれでも信じると決める。それだけが、本物の信頼だった。氷室はその本物を一度も、持たなかった。だから、負けた。
その瞬間、スタジオの外が、騒がしくなった。
覆面パトカーの控えめなエンジン音。機動捜査隊が、到着していた。事件の初動で、真っ先に現場を押さえる、あの部隊が。拓の通報という、確かな証拠を得て、彼らは、動いた。
氷室はその場で身柄を確保された。現行犯。カメラの回る、生放送の真ん中で。作りものが、いちばん剥がれる瞬間をこの国じゅうが、見ていた。
連行される氷室は、最後に、俺を振り返った。もう王子様の笑みは、なかった。あるのは、負けを理解できずにいる、一人の寂しい男の顔だった。
「あんたと、俺は」
氷室が掠れた声で言った。
「同じ目をしてた。人をそのままじゃ、信じられない目だ。──なのになんで、あんただけ、こっち側に来られたんだ」
俺は少しだけ、間を置いて答えた。
「信じたい相手が、できたからだ。それだけの違いだよ」
氷室は何も、言わなかった。そのまま機動捜査隊員に連れられて、スタジオを出ていった。俺と、同じ穴の底にいた男が、俺とは、逆の出口から、去っていった。




