第二十一章「禁じ手」
俺の頭に、一つの手が、浮かんでいた。
いちばん、確実な手だった。いちばん、汚い手でも、あった。
氷室が闇バイトの指示役だという証拠。それは、実は、俺の手の中にあった。澪の弟──一ノ瀬拓が、実行役として、氷室から受けた指示。その記録が、拓のスマホに残っているはずだった。澪が必死で集めた、あの借用書の番号。それを辿れば、拓と氷室のつながりが、証明できる。
つまり、こういうことだ。俺がこの生放送で、澪の弟が、闇バイトの実行役であることを公にする。拓が氷室から、犯罪の指示を受けていたと、暴く。そうすれば、氷室の勧誘は、立証できる。氷室は終わる。
だが、その代償として。
澪の弟は、犯罪者として、この国じゅうに晒される。澪も犯罪者の姉として晒される。二人の人生は、氷室を倒すための証拠として消費される。俺はあの姉弟を事件を解くための道具に換える。
それは──二年前、俺が千鶴の涙を事件解決の手がかりに、換えようとしたことと、同じだった。そして、氷室が澪の弟を金に、換えようとしていることとも、同じだった。
人をそのまま信じるのではなく、何かに換算する。俺がいちばん、憎んできた行為。氷室と、俺を分けていた、たった一本の線。それを今、俺は自分から、踏み越えようと、していた。
恐ろしいのは、その手が、正しく見えることだった。氷室は悪党だ。倒すべき相手だ。そのために、多少の犠牲が出ても、仕方ない。拓の名を出せば、氷室は終わる。もう誰も、あの男に騙されない。金を巻き上げられない。闇バイトに引き込まれない。大勢が、救われる。たった一人の姉弟を犠牲にすれば。
正義の顔をした誘惑ほど、危ういものはなかった。二年前も、そうだった。俺は事件を解くという正義のために、千鶴の感情を手がかりとして利用しようとした。彼女の揺れる心を捜査の道具にしようとした。その結果、俺はいちばん守るべきだった人を壊した。正義のために人を道具にする。その一歩が、すべての始まりだった。
榊も同じだった。いい番組を作るという正義のために、参加者を素材にする。氷室も同じだ。寂しい人を幸せにしてやっているという理屈で人を金に換える。みんな、自分なりの正義を持っていた。人を道具にする人間は、いつも、正義の顔をしている。そして今、俺の手にある「正しい手」も、その同じ顔をしていた。
◇
「相馬さん。証拠が、あるなら、出しなよ」
氷室が挑発した。追い詰められて、なお、笑おうとしていた。
「もったいぶらないで。あんた、証拠、持ってるんでしょ? なら、出せばいい。──出せないなら、やっぱり、あんたの言いがかりだ」
出せば、勝てる。拓の名前を出せば。
俺の口が、開きかけた。氷室を終わらせる、その一言が、喉まで出かかった。二年間、追い続けた獲物が、目の前にいる。あと一言で仕留められる。刑事の本能が、叫んでいた。撃て、と。
そのときだった。
「相馬さん」
澪の声が、した。
俺は彼女を見た。澪はまっすぐ俺を見ていた。その目は、恐れていた。だが、俺が氷室に、負けることを恐れているのではなかった。彼女は俺が、勝つことを恐れていた。俺が拓の名を出すことを。
俺はその目を読んだ。刑事の目でではなく、ただ一人の男として。澪の瞳の奥にあったのは、こういう願いだった。お願い、勝たないで。わたしの弟をあなたの勝利の材料にしないで。氷室に負けてもいい。わたしが不幸になってもいい。だから、あなただけは、あの男と、同じにならないで。──言葉のない、けれど、はっきりとした、願いだった。
そして、俺には、それが、読めた。二年間、動機でしか人を測れなかった俺が。裏のない好意を処理できなかった俺が。今、澪の裏のない、まっすぐな願いを読み取っていた。証拠も、根拠も、いらなかった。ただ分かった。彼女が俺の勝利より、俺の魂を案じているのが。
彼女は何も、言わなかった。ただ首を静かに横に振った。
その仕草が、昨日の約束を思い出させた。もうわたしを洗わないって。約束、してください、と。俺は約束した。破らないと、確信できる約束だと、思った。
なのに、俺は今、その約束を破ろうとしていた。澪を澪の弟を証拠として、差し出すことで。彼女を洗うことで。
◇
「やめときな、刑事さん」
加賀美の声が、割って入った。
彼女は俺の隣に来ていた。低い声で俺だけに囁いた。
「あんたが、今、何を考えてるか、あたしには、分かる。──弟の名前、出す気でしょ。それで、氷室を詰める気でしょ」
「……」
「それ、やったら」
加賀美は俺の目を覗き込んだ。
「あんたは、あの男と、同じだよ」
その言葉が、俺の動きかけた口を止めた。
「あんた、澪ちゃんに約束したんでしょ。もう洗わないって。その舌の根も乾かないうちに、澪ちゃんの弟を証拠に使う? 氷室を倒すために? ──それ、氷室が澪ちゃんの弟を金に使うのと、どこが違うの」
どこも、違わなかった。
加賀美は計算で生きてきた女だった。人を利用することを誰よりよく知る女だった。その女が、今、俺に、人を利用するな、と言っていた。皮肉だった。だが、だからこそ、その言葉には、重みがあった。利用する側の人間には、利用の匂いが、いちばんよく分かる。俺は今、まさに、その匂いを放っていた。
「あたしね」
加賀美は小さく、言い足した。
「ずっと人を利用してきた。だから、分かるの。人を道具にしたやつは、最後、独りになる。あたしみたいに。──あんたには、そうなってほしくないんだよ。せっかく、澪ちゃんが、いるんだから」
俺は拳を握った。喉まで出かかった、拓の名前を飲み込んだ。飲み込むのは、苦しかった。二年間、追い続けた獲物をあと一言で仕留められる。その一言を俺は自分から、封じた。
飲み込んだ名前が、胸の奥で熱い塊になった。刑事の本能が、まだ叫んでいた。なぜ撃たない。目の前に獲物がいる。二年間の屈辱を雪ぐ機会だ。撃て。撃てば、お前は、また、本物の刑事に戻れる。ストーカーの汚名も、消える。すべてが、報われる。
だが、俺は撃たなかった。撃てば、報われるのは、俺の都合だけだった。澪は報われない。拓も報われない。俺は自分が救われるために、二人を生贄にする。それは、二年前と、寸分違わない過ちだった。あのときも、俺は自分が事件を解きたくて、千鶴を信じるふりをして利用した。今度は、自分が汚名を雪ぎたくて、澪の弟を証拠に使う。名前が違うだけで、やっていることは、同じだった。
勝つために、澪を裏切る。それは、勝ちではなかった。それをやった瞬間、俺は氷室に勝ったのではなく、氷室になる。事件は、解けるかもしれない。だが、俺は俺自身を失う。そして、澪をもう一度、今度こそ、完全に失う。
俺は口を閉じた。
氷室の顔に、笑みが、戻った。俺が引いたと、思ったのだ。
「なんだ。やっぱり、証拠、ないんじゃないっすか」
氷室が勝ち誇った。スタジオの空気が、また、氷室に傾いた。
俺は拓の名を出さない。氷室を証拠で、詰めることも、しない。ならば、どうやってこの男を追い詰める。どうやって証拠を手に入れる。
俺の道具は、もう三つとも、封じられた。泳がせは、限界まで使った。供述崩しは、氷室の居直りで止まった。プロファイリングでは、証拠にならない。禁じ手も、自分で封じた。
残っているのは、たった一つ。
いちばん、扱い慣れない、四つ目の道具だけ、だった。信じること。二年間、錆びつかせ、この期に及んで、まだ使い方の分からない、たった一つの手。だが、もうそれしか、なかった。俺は静かに息を吸った。掌の中で、飲み込んだ拓の名前が、まだ熱を持っていた。その熱を俺は別のものに、変えるつもりだった。




