第十九章「道具を集める」
戦いには、道具がいる。
俺が二年間、磨いてきた道具を久しぶりに棚から下ろした。
一つ目は、泳がせだ。相手をあえて泳がせ、決定的な瞬間を待つ。氷室を今、問い詰めても、白を切られて終わる。だから、最後まで泳がせる。あの男が、自分から、尻尾を出す、その一瞬まで。
二つ目は、供述の矛盾を突く技術だ。詐欺師は、嘘が上手い。だが、どんなに上手い嘘つきも、嘘を重ねれば、必ず、どこかで辻褄が合わなくなる。取調べの鉄則は、相手を追い詰めないことだ。追い詰めれば、口を閉ざす。逆に気持ちよく、喋らせる。喋らせて、喋らせて、その言葉の中の小さな矛盾を拾い集める。氷室を告発するのではない。氷室に、語らせて、自分で墓穴を掘らせる。
三つ目は、プロファイリングだ。氷室が次に、どう動くか。追い詰められたとき、どんな手を打ってくるか。あの男の行動パターンは、この一ヶ月で頭に叩き込んだ。
そして、四つ目の道具は──俺が二年間、錆びつかせていた、最後の一つ。
信じること、だった。
この四つは、奇妙な取り合わせだった。前の三つは、疑うための道具だ。人を泳がせ、矛盾を突き、行動を読む。すべて、相手を信じないことを前提にしている。最後の一つだけが、逆だった。信じること。疑うことのプロが、最後の一手に、信じることを選ぶ。二年前の俺が見たら、正気を疑っただろう。
だが、この四つは、矛盾していなかった。むしろ、順番が、大事だった。氷室のような男を疑うだけでは、倒せない。あの男は、疑いの世界の住人だからだ。疑い合う場所でこそ、氷室は強い。だから、最後に信じるという、あの男の知らない手を繰り出す。疑うための三つの道具で、舞台を整え、最後の一つで決める。それが、俺の描いた絵だった。
問題は、その最後の一つが、俺にとって、いちばん扱い慣れない道具だということだった。泳がせも、供述崩しも、プロファイリングも、二年間、体が覚えている。だが、信じることだけは、二年間、一度も、使っていなかった。錆びついて、動くかどうかも、分からなかった。それでも、俺はそれに賭けるしかなかった。
◇
俺は榊に電話をかけた。
「もう一度、番組に、出してくれ」
榊は電話の向こうで面白そうに笑った。
「あら。ストーカー刑事さんが、出戻り希望? ──なんで、あなたを戻さなきゃいけないの」
「あんたの番組の最終回が、化ける。──氷室蓮司の正体を生放送で暴く。これ以上の絵があるか」
沈黙。それから、榊の声が、低くなった。
「……本気なの」
「本気だ。あんたは、本物より、いい画が好きなんだろう。だが、たまには、本物の一撃も、悪くないぞ。──視聴者が、本当に観たいのは、作りものの恋じゃない。作りものが、剥がれる瞬間だ」
榊は長いこと、考えていた。数字の女だった。彼女の頭の中で、天秤が、揺れているのが、分かった。やがて彼女は言った。
「いいわ。最終回の生放送。あなたを戻す。──ただし、しくじったら、あなたは、ただの往生際の悪いストーカーとして、この国じゅうに晒される。それでも、いい?」
「構わない」
こうして俺はあの箱へ戻る、切符を手に入れた。
◇
課長には、機動捜査隊の待機を頼んだ。
「生放送の当日、証拠が上がったら、すぐに動けるように。撮影所の近くに、覆面を置いておいてください」
「相馬。証拠は、どうやって上げる気だ」
「向こうから、来ます」
「向こうから?」
俺は頷いた。これが、この作戦のいちばん、危うくて、いちばん確かな、賭けだった。証拠をこちらから、力ずくで、奪いにいくのではない。証拠のほうから、こちらへ歩いてくる。そういう場を作る。刑事の常識では、ありえない発想だった。だが、それしか、道は、なかった。
闇バイトの実行役は、使い捨てにされる。だが、彼らも、人間だ。好きで、犯罪に手を染めたわけじゃない。借金や、脅しや、孤独に、追い詰められて、抜けられなくなっただけだ。そういう人間は、たった一つ、あるものを待っている。
自分を信じてくれる、誰か、だ。
一度でも、本気で、信じてくれる人間が、現れれば。裏切られ続けてきた末端の人間は、その手を掴む。掴んで、本当のことを話す。俺は取調べで、それを何度も、見てきた。人を落とすのは、証拠じゃない。信じてくれる、たった一人の存在だ。
だから、俺は澪の弟に、その手を差し出すつもりだった。証拠を無理やり、引き出すのではなく。彼が自分から、話したくなる場所を作る。それが、実行役への出口だった。
◇
だが、その前に、しなければならないことが、あった。
いちばん、難しいことが。
俺は澪に、もう一度、信じてもらわなければ、ならなかった。
撮影所へ向かう、前日の夜。俺は加賀美を通して、澪に、面会の場を頼んだ。彼女は来ないかもしれない、と思った。俺を疑って当然だった。俺は彼女を洗い、疑い、崖に追いやった男だった。
だが、澪は来た。
面会は、撮影所の外の小さな公園だった。街灯の下に彼女は立っていた。俺を見る目にもう、あの光は、なかった。冷たく、閉じていた。
「話って、なんですか」
俺は口を開いた。二年間、いちばん言えなかった言葉を言うために。
「氷室は、詐欺師だ。トクリュウの中核に近い人間だ。あんたの弟を握って、あんたを取り込もうとしてる。──俺はそれを暴く。だから、明日の生放送で俺を信じてほしい」
澪の顔が、こわばった。
「証拠は」
彼女は静かに聞いた。
「証拠は、あるんですか。あなたが言う、氷室が悪人だっていう、証拠は」
俺は一瞬、目を閉じた。ここで、嘘をつくことも、できた。証拠はある、と。そのほうが、彼女は信じやすい。だが、俺は澪にだけは、嘘をつかないと、決めていた。
「ない」
俺は言った。
「証拠は、ない。心証だけだ。裏は、何一つ、取れてない。──それでも、本当だ」
澪は俺を見つめた。
「証拠がないのに信じろって言うんですか。あなたが、いちばん証拠がなきゃ信じられない人なのに」
「そうだ」
俺は彼女の目をまっすぐ見返した。
「証拠がなきゃ信じられなかった俺が、今、証拠なしで、あんたに、信じてくれって頼んでる。──ばかげてるのは、分かってる。でも、これが、俺の精一杯の答えなんだ。裏の取れないものをそれでも信じる。あんたが、俺に教えてくれたことだ」
夜の公園に、風が、抜けた。街灯が、小さく、揺れた。澪は長いこと、俺を見ていた。何かを探るように。だが、その目は、少しずつ、変わっていった。閉じていたものが、ほんの少し、開くように。
「わたし」
やがて澪が口を開いた。
「あなたに、手帳を見られたとき、思ったんです。ああ、この人も、他の人と、同じだ、って。優しい顔をして、裏でわたしを疑ってた。──裏切られた、って思いました」
「悪かった」
「でも」
彼女は続けた。声が、震えていた。
「今、あなたは、証拠がないって正直に言った。嘘をつけば、わたしは、もっと簡単に、信じたのに。あなたは、それをしなかった。証拠がない、心証だけだ、って。──こんなときにまで、嘘がつけないんですね、あなたは」
澪の目に、透明なものが、盛り上がった。今度は、こぼれた。
「ずるい人。そんなふうに言われたら、信じるしか、ないじゃないですか」
その涙は、恐怖の涙でも、絶望の涙でも、なかった。俺には、分かった。二年間、人の涙を疑い続けてきた俺に、初めて、疑う必要のない涙が、見えた。裏の取れない、けれど、まぎれもなく、本物の涙だった。
「明日」
澪は涙を拭って言った。
「わたしも、信じます。あなたのこと。──弟のことも、ぜんぶ、話します。だから、あなたも、約束してください。もうわたしを洗わないって」
「約束する」
俺は言った。二年ぶりに、証拠のない約束を口にした。そして、それは、俺が生まれて初めて、破らないと、確信できる約束だった。




