第十八章「信じるという捜査」
翌朝、俺は二年ぶりに、自分から、課長に電話をかけた。
「相馬か。……お前、大丈夫なのか。放送、見たぞ」
課長の声は、心配していた。俺をストーカー刑事として、この国じゅうが見ている。署の立場も、相当、悪いはずだった。
「課長。あの番組の周辺の闇バイトの線。あれ、当たりです」
俺は単刀直入に言った。それから、この一ヶ月で掴んだことを順に報告した。氷室という参加者。秘匿通話。痕跡の残らないアプリ。詐欺師の手口。そして、番組を漁場に、寂しい女から金を巻き上げ、借金を抱えた参加者や視聴者を闇バイトへ引き込む構図。氷室は末端ではない。中核か、それに近い、指示を出す側の人間だと。
課長は長いこと、黙って聞いていた。それから、低い声で言った。
「相馬。それ、裏は、取れてるのか」
「──取れてません」
「じゃあ、動けん」
分かっていた答えだった。心証だけでは、警察は動けない。証拠がなければ、氷室を被疑者として、扱うことすら、できない。俺はこの壁を二年間、誰よりも固く、守ってきた側の人間だった。裏を取れ。心証で動くな。それが正しいと、信じてきた。今も、正しいと思う。だが、その正しさが、今の俺の手足を縛っていた。
不思議な気分だった。二年前の俺なら、証拠がないと言われてそこで諦めた。証拠がないものは、存在しないものとして扱う。それが俺の流儀だった。だが今、俺は諦めなかった。証拠は、これから、取りにいく。裏の取れないところから、始めて裏を手繰り寄せる。順番が、逆になっていた。以前の俺は、証拠から始めた。今の俺は、信じることから、始めようとしていた。
「相馬。お前、なんか、変わったな」
課長がふと、言った。
「二年前のお前なら、ここで引き下がってた。──何が、あった」
「信じたいものが、できたんです」
俺はそう答えた。二年ぶりに、課長に、嘘のない言葉を返せた気がした。
「だが」
課長は続けた。
「もし、確かな証拠が、上がってくれば、話は別だ。うちの機動捜査隊を動かせる」
機動捜査隊。事件の初動で、真っ先に現場へ駆けつける、覆面パトカーの部隊だ。二十四時間、街を密かに走り回り、通報があれば、所轄の警官より先に現場を押さえる。彼らを動かせれば、氷室の身柄をその場で確保できる。
「証拠さえ、上がれば、な。──だが相馬、どうやって証拠を取る。お前はもう、番組を追い出された身だ。中に入れんだろう」
そこが、問題だった。証拠は、あの箱の中にある。氷室が尻尾を出す瞬間は、あの箱の中でしか、押さえられない。だが、俺はもう、中にいない。
「中にいる、協力者を使います」
俺は言った。言いながら、その協力者が、誰なのかを考えていた。
◇
協力者。俺の頭に浮かんだのは、加賀美だった。
あの計算で動く女。ヴィラン編集の常連。この箱で、いちばん信用できない女。誰かを利用することを自分でも認めている女。──だが、そんな彼女が、去り際、俺に、あのUSBを渡した。計算に合わないことをしてみたくなったと言って。
信じられるか、と、二年前の俺なら、笑っただろう。加賀美を協力者にするなど、正気の沙汰ではない。彼女はいつでも、裏切れる。俺を氷室に売ることもできる。裏が、取れない。信じる根拠が、どこにも、ない。
だが、今の俺は、知っていた。
裏の取れないものだけが、本物だ。
加賀美を信じる根拠は、ない。だからこそ、信じるしかなかった。証拠のある相手を頼るのは、信頼じゃない。裏の取れない相手をそれでも信じると決めること。それが、この事件を解く、たった一つの武器だった。ならば、いちばん裏の取れない相手をいちばん深く信じてみせる。それが、俺にできる、最初の一歩だった。
怖くないと言えば、嘘になる。加賀美は俺を裏切れる。この計画を氷室に流すこともできる。そうなれば、氷室は警戒し、二度と尻尾を出さない。澪の弟も、救えなくなる。すべてが、加賀美の一存にかかっていた。裏の取れない一人の女に、俺は事件のすべてと、澪の未来を預けようとしていた。
二年前の俺なら、絶対にしなかった。裏の取れない人間に、命綱を握らせるなど、正気じゃない。だが、あのとき俺は、裏を取ることに、こだわりすぎて、いちばん大事な人を失った。今度は、逆をやる。裏を取らずに信じる。それで失うなら、それでも、いい。少なくとも、信じずに失うよりは、ましだった。
信じるというのは、こういうことだったのか、と、俺は思った。安全な賭けじゃない。裏切られる余地を自分に許すこと。その痛みを引き受ける覚悟を決めること。二年間、俺がいちばん、避けてきたもの。それを俺は今、自分から、選ぼうとしていた。
◇
俺は加賀美の連絡先を手に入れた。番組を途中で降りた透から、伝手を辿った。そして電話をかけた。
「もしもし?」
加賀美の警戒した声が、返ってきた。
「相馬だ」
一瞬の沈黙。それから、彼女は少し、笑った。
「へえ。あんたから、かけてくるとはね。USB、役に立った?」
「立った。──頼みがある」
俺は切り出した。氷室の正体。事件の全体像。そして、それをあの箱の中で、暴くために、彼女の協力が、いること。
加賀美は聞き終えると、こう言った。
「あたしにさ、協力しろって? ──なんで、あたしなの。あたし、この箱で、いちばん信用できない女だよ。ヴィランだよ。あんた、それ、分かってる?」
「分かってる」
「あたしが、あんたを氷室に売らないって、なんで言い切れるの? 裏、取れないでしょ」
俺は少し、間を置いてから、答えた。
「裏が、取れないからだ」
電話の向こうで、加賀美が息を飲むのが、分かった。
「裏が取れる相手なら、それは、信じてるんじゃない。ただ確認してるだけだ。──俺はお前を信じたい。裏が、取れないまま。それが、信じるってことだって、最近、教わったんでな」
長い、沈黙が、あった。
やがて加賀美は掠れた声で言った。
「……ずるいよ、それ」
その声は、いつものあざとい声でも、計算高い声でも、なかった。この箱で初めて、誰かに、まっすぐ信じられた女の戸惑った声だった。
「あたしね」
彼女は続けた。
「ずっと計算で生きてきたの。信じたら損する。裏を読んで先に動く。そうやって生き延びてきた。だから、あんたの言ってること、ばかみたいだと思う。裏も取らずに人を信じるなんて、そんなのいつか刺されるだけだよ」
「かもな」
「──でもさ。誰かに、そんなふうに信じられたのあたし、初めて。ずっと利用される女だった。今、初めて信じられてる。……なにこれ。調子、狂う」
電話の向こうで、加賀美が鼻をすすった。ヴィラン編集の女王が、たった一本の電話で、素の声を漏らしていた。人は、信じられると、こんな声を出すのか、と、俺は思った。疑い続けるだけの二年間では、決して、聞くことのなかった声だった。
「乗った。──あんたのばかみたいな捜査に、あたしも、乗ってやる」
「一つ、頼みがある」
俺は言った。
「箱の中に、あと二人、信じられるやつがいる。熊沢と、茜だ。あの二人にも、伝えてくれ。俺が戻ってくると。氷室の正体を暴きにいくと」
「熊沢と茜? ……あの脳筋と、ギャルを?」
「熊沢は、嘘がつけない。だから、氷室が油断する。茜は目がいい。誰よりも早く、場の変化に気づく。二人とも、この箱で俺を信じてくれた、数少ない人間だ」
電話の向こうで、加賀美が小さく笑った。
「変なチームだね。ヴィランと、脳筋と、ギャルと、ストーカー刑事」
「悪くない布陣だ」
俺は初めて、この状況で、少しだけ、笑った。二年間、一人で追ってきた男が、今、四人の裏の取れない仲間を手にしていた。
こうして、俺のたった一人だった帳場に、初めて、仲間が、加わった。
裏の取れない、仲間が。そして、その一人を信じられたことが、二年間閉じていた俺の何かをもう一枚、こじ開けていた。




