第十七章「生の映像」
安ビジネスホテルの狭い一室だった。
署に戻る気になれなかった。合わせる顔が、なかった。俺は駅前の安宿に、一人、こもった。カーテンを閉め、明かりも点けず、ノートパソコンに、あのUSBを差し込んだ。
加賀美が抜いてきた、未編集の素材。榊が切り貼りする前の生の映像。編集という悪意をまだ、通されていない、そのままの一ヶ月。
俺は刑事の目で、それを見ることにした。最後に一度だけ。自分が、何を間違えたのかを確かめるために。
◇
映像は、恐ろしく、退屈だった。
編集された番組は、感情のピークだけをつなぎ合わせている。だが生の素材は、違った。ほとんどが、何も起きない時間だった。参加者が、ぼんやり座っている。誰かが、あくびをする。長い、長い、沈黙。人の生活の大部分は、こういう、何も起きない時間でできている。
俺はその退屈な時間の中に、澪を探した。
そして見つけた。編集では、決して映らなかった、澪を。
カメラの隅にぽつんと映る、澪。誰も見ていないと思っている、澪。彼女はリビングの窓辺で、一人、スマホを見ていた。画面を見つめる、その横顔。俺はその表情をコマ送りで読んだ。刑事の目で。ベースラインから、どうズレているかを。
そこにあったのは、恐怖と、恥だった。
嘘をつく人間の顔では、なかった。何かを企む人間の顔でも、なかった。それは、大切な誰かが、取り返しのつかないところへ、落ちていくのを止められずにいる人間の顔だった。自分の無力を恥じている顔だった。誰にも言えず、一人で、抱え込んでいる顔だった。
俺はこの顔を知っていた。警察署の窓口で、闇バイトに手を出した子どもの親が、見せる顔。取調べ室で、身内の罪を庇おうとする家族が、見せる顔。それは、加害者の顔では、なかった。被害者のそのまた、そばにいる人間の顔だった。
澪は嘘をついていなかった。
俺は映像を何度も、巻き戻した。同じ場面を繰り返し、見た。誰も見ていない窓辺の澪。一人で洗い物をしながら、ふと手を止める澪。夜、寝室で、布団の中から、天井を見上げている澪。編集では一秒も使われなかった、これらの時間の中に、本当の彼女が、いた。演じる必要のない時間の中に。カメラのためではない、素の彼女が。
そこには、企みも、計算も、なかった。あったのは、疲れと、心配と、そして時おり、ほんの少しの光だった。その光が、いつ差すのかを俺は注意して見た。澪がかすかに微笑む瞬間。それは決まって、俺が近くにいる場面だった。俺が何か不器用なことを言って、彼女がふっと肩の力を抜く。その繰り返しだった。編集された番組は、俺を彼女を怯えさせる男として描いた。だが生の素材の中で、澪は俺のそばにいるときだけ、少しだけ、安らいでいた。
俺はそれを見落としていた。いや、見ないようにしていた。証拠にならないものは、なかったことにする。俺の癖が、いちばん大事な証拠を切り捨てていた。彼女が俺のそばで安らぐ、という、裏の取れない、けれど何より確かな、事実を。
俺が彼女の「目の動き」を嘘だと読んだあの瞬間。あれは、嘘ではなかった。弟のことを恥じて、恐れて、口ごもっただけだった。俺は傷ついた人間の沈黙を嘘つきの綻びと、取り違えた。見分けられるはずだった、その二つを。
◇
俺はさらに、映像を進めた。
テラスのあの夜。編集された番組では、数十秒に、切り詰められていた場面。だが生の素材には、二時間分、まるごと、残っていた。
俺と澪が、並んで話している。声は、遠い。だが、映っていた。彼女が俺の傷の話を聞いて、静かに頷く姿。花は嘘をつかない、と言う、その口元。信じるって証明のことじゃない、と言ったときのまっすぐな目。
そして、俺自身も、映っていた。
俺は自分の顔を刑事の目で読んだ。生まれて初めて、自分を被疑者として洗った。
そこにいたのは、皮肉屋の刑事では、なかった。疑い深い、冷たい男でも、なかった。澪の言葉を聞きながら、少しずつ、頬をゆるめていく男。二年間、凍りついていた何かが、溶けていくのを必死で、隠そうとしている男。──その顔は、恋をしていた。
そして俺は気づいた。
この一ヶ月、演技をしていたのは、澪では、なかった。俺だった。
俺はずっと、皮肉屋の刑事を演じていた。誰も信じない、冷たい男を。それが、俺のいちばん深い、嘘だった。本当は、信じたかった。誰かをそばに置きたかった。だが、二年前の傷が、怖くて、俺は疑い深い男を演じ続けた。疑うふりをして、傷つかないように身を守っていた。
澪が最初に言った言葉が、蘇った。あなた、ずっと自分に嘘をついてるでしょう。
彼女は正しかった。この箱で、いちばん上手に嘘をついていたのは、嘘を見抜くはずの俺だった。裏のない女を裏があると疑い、裏だらけの自分を正直者だと、思い込んでいた。
◇
そして、その瞬間、二年前の記憶が、まるで違う形で蘇った。
千鶴。俺が信じて、裏切られた女。首謀者の女。俺は二年間、あの件をこう総括してきた。証拠なしに信じた俺が、愚かだった。だから、二度と、信じない、と。
だが、今なら、違う読み方が、できた。
千鶴の涙は、右上を見ていなかった。あのとき俺がそう感じたのは、たぶん、間違いではなかった。あの女は、俺を騙す任務を負いながら、どこかで、本当に揺れていたのかもしれない。彼女の感情のいくらかは、本物だったのかもしれない。首謀者は、その本物の揺れを道具として利用した。本物の感情を凶器に変えて俺に突きつけた。
俺の失敗は、信じたことでは、なかった。本物を本物だと、見抜けなかったことでも、なかった。俺の失敗は、その後にあった。本物の感情が、悪用されうると知って、俺は感情そのものを信じるのをやめた。裏切られた痛みを二度と味わわないために、俺は自分の中の信じる力を殺した。それを賢さと呼んで。それを罰として、自分に課して。
二年間、俺が守ってきたのは、身の安全じゃなかった。俺は罰を受け続けていた。信じて失敗した自分を許せなくて。信じる力を殺すことで、自分を罰し続けていた。
恥じていた。信じた自分をずっと恥じていた。
だが、それは、恥じることでは、なかったのだ。
◇
俺はパソコンの画面を見つめていた。生の映像の中で、澪が静かに笑っていた。
裏の取れないものだけが、本物だ。
その言葉が、天啓のように、胸に落ちてきた。
裏が取れるものは、確認できる。証明できる。だが、証明できるものを認めるのは、信じるとは、言わない。それは、ただの確認だ。本当に信じるとは、裏の取れないものをそれでも信じると、決めること。澪がテラスで言ったとおりだった。
恋に、裏が取れないのは、恋が嘘だからでは、なかった。裏の取れないものだけが、本物だから、だった。
俺は椅子から、立ち上がった。
二年間、閉じていた何かが、音を立てて開いた。俺はようやく分かった。事件を解く、たった一つの道が。氷室を追い詰める、たった一つの方法が。
それは、証拠を集めることでは、なかった。裏を取ることでも、なかった。
信じることだった。
俺が二年間、いちばんできなかったこと。それだけが、この事件を解く鍵だった。
考えてみれば、当たり前のことだった。氷室は人の疑いを餌にして生きている。人は完璧な相手を疑う。疑われれば、氷室は同情を引いて、その疑いを愛情に変える。人が人を疑い、探り合い、傷つけ合う。その構図の中でこそ、氷室は無敵だった。榊の番組も、同じだ。疑心暗鬼を煽り、それを数字に変える。この箱そのものが、人を信じさせないことで回っていた。
だから、氷室を倒すには、その逆をやるしかなかった。疑うのではなく、信じる。裏を取るのではなく、裏の取れないものをそれでも信じてみせる。氷室の足元にある「誰も本当には信じ合っていない」という前提をたった一つの本物の信頼で、崩す。それが、あの男の唯一の急所だった。
そしてそれは、俺にとって、いちばん難しい戦い方だった。証拠で人を追い詰めるのは、得意だ。二年間、それだけをやってきた。だが、証拠なしに人を信じるのは、俺がこの世でいちばん、恐れてきたことだった。
俺は狭いホテルの部屋で拳を握った。今度は、掌に食い込む爪の痛みが、二年前とは、違う意味を持っていた。恐怖ではなく、覚悟の痛みだった。
戻ろう、と思った。あの箱へ。もう一度。今度は、疑うためではなく。信じるために。




