ep.82
あれ。
ここは...どこだろうか。
体の感覚が殆どない。胸のあたりがじんわりと熱いぐらいで、手も足も全くいう事を聞かない。薄っすらとしか開かない視界には色彩に欠いた空と、酷く顔をゆがめている女性が映った。どういうわけか白黒に塗りつぶされてしまっているが、ぱっちりとした目や小ぶりな口を見れば、それがフェリアだと分かる。
何を。何をしていたんだったか。
...駄目だ。まるで思い出せない。霧がかかっていて、進まない。
あれ。
それどころか、思考そのものが解けていくような感覚に襲われる。頭に浮かんだ文字が、少しの間そこに留まってからぱらぱらと分解されていく。時を追うごとに、ほどけるまでの時間が短くなっていく。
フェリアに状況を聞こうとしたが、本当に僅かにしか開かない口からは擦れ切った吐息しかでなかった。
段々と世界が輪郭を失い始めたとき、ようやく思い出した。
『お願い...行かないで......』
―私は命を絶ったのだ。
「...ハッ......!!」
溺れそうな閉塞感が極限まで高まった瞬間、それに反してあっけなく、私の目は開かれた。寝起きの頭に、何かに締め付けられているような感覚だけが流れてくる。体中に嫌な汗が這っていて気持ち悪い。鼓動は今までにないほど五月蠅く、速い。私は、未だ胸に残る違和感をそっと撫でて宥めながらそれらが収まるのを待った。
少しして意識もまともになってくると、この閉塞感の正体は隣でおとなしく寝ていたはずのフェリアが首のあたりにがっちりとしがみついているせいだと分かる。それが分かった途端になんだかこの一連の流れがおかしく思えて、私はくすりと声を殺して笑った。
私の悪夢はこの酷すぎた睡眠環境によるものなのだろうが、フェリアはそうではないだろう。ぴったりと引っ付いてくる肌は少し汗をかいているし、顔もどこか苦し気だ。もしかすると、私と同じ時の夢を見ているのではないだろうか。
私はフェリアの腕を解いて脱出し、体を起こす。それから、フェリアに布団を肩までかけて、落ち着くまで頭を撫でた。少し前までは、こうしてもらうのは専ら私だったが、あれがあってからは、今日の様に私がしたり、たまには昔の様にフェリアにしてもらったりと色々だ。
ようやくフェリアの眉間の皺が無くなってきたところで、私は一息ついた。約二年間も付きっ切りで私の傍にいてくれたフェリアでさえ、いや、それだけ一緒にいてくれたからこそ、あの日の衝撃は大きかったのだろう。
私は思い出す様に、左の手首についたブレスレットを見る。銀色に光る、華奢なデザインのブレスレット。
あんなことが起きてしまったから、付けざるを得なくなってしまったものだ。それがしっかりと身に付いている事を確認して、少し安心する。
外の空気が吸いたくなって、こっそりとベットから抜け出して窓を開けると、外は丁度夜が明けるまさにその時だったようで、東の空が深い紺からオレンジに染まっていく様子が目で追えた。
「...ちゃんとしなきゃなぁ......」
外に身を乗り出して、窓からだらんとぶら下げた腕に光るブレスレッドを見る。あの時は言い訳のように作ったものだったが、今となっては、というよりかは、日を増すごとに、これの効果はフェリアが安心できるためというものから私が自らを律するためという側面が大きくなっていっている。
当時は衝撃だった。
あの日は特に変わりない平凡な一日だったと思う。ただ一つ、唯一違ったのはフェリアに少し疲れが見えていたことぐらいだろうか。
事が起こるほんの少し前、買い物帰りにフェリアと歩いていた時、私は私で少し気分が落ちていて、そうしてお互い疲れているものだからか、あまり会話が続かなかった。フェリアはそれでも何事か話しかけてはくれるのだが、私がいつものように生返事ばかりを返すものだがら、会話が一巡か二巡して途切れ、また一巡二巡して途切れ、の繰り返しだったのを覚えている。
そうして何度か疲れた会話を繰り返していた時、会話の途切れにフェリアがため息をついた。本当に、心の底から疲れ果てて、出さずにはいられないといったような音を今でも鮮明に思い出せる。
当時の私はそれを聞いて、落ち込んでいる自分と会話するのに疲れてしまったのだと判断した。気分が落ちていたということもあって、私はそれを酷く深刻に受け止めて、フェリアが今までどんな思いで私の傍にいてくれたのかをたくさん考えた。それはもう様々な推測をして、様々な可能性を出して、考えうる限りのフェリアを想像したはずだ。
しかし、万全ではない状態で、尚且つ考えすぎる性質の私にとって、その選択はあまりに悪手だった。
天使のようなフェリアの笑顔の裏に、考えうる限りの無理と忍耐と疲労と、そういった様々な苦労を見てしまい、私は崖から滑り落ちるように自己嫌悪に陥った。
そうして、なぜ今の今まで気づかなかったのだろうかと、ひたすらに自責していると、突然、ぱっと視界が空に向かったのだ。
いつもは過剰なまでに音を拾ってくる耳が、その時だけは使い物にならなかった。
視界が急速にぼやけていって、苦しいも痛いもなくただただ眠るようにして倒れたのを覚えている。
目を覚ましたのは病室だった。多分夜だったと思う。私のベットのすぐ傍には多分女の人が立っていたはずだ。部屋が暗いものだから分からなかったけれど、ぼんやりとした視界の中でも髪だけは強い色彩を持っていた。多分かなり明るい色なのだろう。
これがどれだけ思い出そうとしてもままならないのだが、確か、その時その女性は私に向けて何かを言ったはずだ。しかし、その時の私はその言葉にろくに返事もしないまま意識を手放してしまった。
次からはかなり鮮明に覚えている。
やはり病室で目を覚ました私は、まず眩しさを感じて目を細めて、それからすぐに体を起こした。体のどこにも異常がないよう感じたからか、寝起きだというのに極々自然に起き上がった。
少しの間は状況が掴めずにあたりを見渡していたのだが、部屋の前を通りがかった看護師さんが私を見るなり顔を青くして走り出すものだから、いよいよただ事ではないのだと感じたのは手遅れもいいところなのだろう。
ガブエラさんが珍しくノックもせずにドアを開け放って、肩を上下させながら傍まで駆け寄って、事の顛末を話してくれた。
端的に言うなら、私は自分の魔法によって死にかけたらしい。右肩から左腰にかけて、ばっさりと抉りとったような傷跡だったそうだ。
他人による攻撃という話は最初から出なかった。魔法を扱う人間なら、魔法が誰から放たれたのか分からないはずがないからだ。あそこにはフェリアや通行人がたくさんいた。それに、うぬぼれるわけではないが、不意であったとしても私が誰かの魔法に倒れることなんてない。
しかし、魔法の”願いを具象化する”という性質上、魔法で自殺というのはできないのだ。どこまでいっても人間の生存本能が邪魔をするらしく、今までの二千年でそれに成功した人間は居ない。これは事例がないために恐らくではあるが、強すぎる自己嫌悪と私の特異性が何かの形で嚙み合ってしまったのかもしれない。
ガブエラさん曰く、現代の医療では命を数時間持たせるのが精いっぱいだったそうで、ギリギリ間に合った治癒魔法の使い手によって大事を逃れたとのこと。また一つ借りを作ってしまったのだが、今回ばかりはお礼を、と名前を訊いても、ガブエラさんは渋い顔で首を横に振るばかりだった。
そうして、一命を取り留めた私ではあるが、その後の苦労ったらなかった。なにせ、自己嫌悪が現れたのだろうと判断できるのは私が私に自殺の意思が全くなかったことを知っているからであって、それを判断できない周囲の人はそれはそれは誤解してしまったのだ。事例がないとはいえ、『それはただ起きていなかっただけの事で、不可能ではなかった』と解釈するのは、あの場に居合わせた人ならば当然だ。フェリアなんて泣きに泣いてしまって、三日三晩くっついて離れなかった。
魔学院も平気で休んでしまって、『目を離したらいつ死んじゃうか分かんない』と言って聞かないフェリアをどうにか納得させるために作ったのがこのブレスレッドというわけである。
効果は”身に着けた人間が干渉できるものを限定する”というもので、これに魔力と特異魔力を設定することで、このブレスレッドを付けている間、私は魔力が一切使えなくなる。そうすればこの前の様に突発的な感情の揺らぎで負傷することもないし、勿論、魔法による故意的な自殺もできない。
それでも、物理的な自殺はできてしまうので、フェリアは首を縦に振らなかった。しかし、そこまでした私の誠意と、丸一晩腰を据えて、ゆっくり話したことによって一応は納得してくれた。
それからの数日はフェリアが息も絶え絶えに帰ってくるものだから、それを見るたび私は心を抉られるような心地がしていたのだが、しばらくそうして過ごす中で、私の状況というのはむしろ前より良くなっているという事に気づいたらしく、殊更に気を遣うといった事もなくなっていった。実際、あれは完全な事故ではあるのだが、私にいい契機をもたらしてくれた側面もある。死にかけたらしい私に泣きじゃくって縋りつくフェリアを見て、彼女にとって私がどれだけ大きい存在なのかをようやく理解できた。今はブレスレッドが機能しているが、今後このまま自己嫌悪と絶望を続けていたら、これを超える力で今度こそ私は死んでしまうかもしれない。そうなれば、フェリアに面目が立たない。そして私が死ぬという事は同時にラズさんの死も確定するという事で、それは絶対に避けたい事でもあった。
ラズさんは今日も今日とて何一つ変わらないのだろうけれど、フェリアはそういうわけにもいかない。ずっとずっと私に尽くしてくれるわけでもないし、それは正しい在り方じゃない。人の善意には限りがある。善意が善意であるうちに、善意を受け取る側の人間はそれに報いなければいけない。きっと、そのはずだ。だから、私も前を向かないといけない。
私は窓から乗り出していた身を引っ込めて、窓を閉める。それと一緒にカーテンも閉めて、その隙間から差し込む光がフェリアの顔に当たらないよう調整する。それから少し目を閉じて、深呼吸をする。
そうしている内に、虚勢のような、根拠のない、小さな自信が微かに灯る。
居ないのは、悲しい。これはもうどうしようもない。悲しいものは悲しい。凄く。本当に、痛いぐらいに、ずっと。
でも、泣いたって、俯いたって変わらない。空を飛ぶ鳥に連なる翼の様に、いつだって寄り添ってくれる友人が居た。事あるごとに自分をそっちのけにして目をかけてくれる人が居た。はたまた、ずっとずっと後ろの後ろで、静かに私の行く末を見守ってくれる家族が居た。
だから立つべきだ。
しゃんと、自分の足で立って、前を向いて。
「...よし」
今日は良い日になるに違いない。
昔の私は、いつだってそう思って日々を過ごして、結果そうなってきたんだ。
信じよう。明るい今日を。
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