ep.79
一人部屋に取り残された私は特に何をするでもなく呆けていた。手慰みに髪をくるくると巻き始めたところで、こつこつと、それほど高くはないであろうヒールの音が廊下に響く。音の主は顔を見ずとも分かった。
(難儀な性質...)
ほぼ間違いなく、先ほど耳に入って来た女性の物だろう。足取りが重く、それでいて現実味を欠いている。ほんの少し前ですら真っ暗闇で、何処へ向かって歩いているか自分でもわかっていないような、そんな音だ。
何の気なしに同情してから、ふと違和感を感じて首を捻る。
気持ちは分かる、と言ってしまっていいのだろうか。
彼女は自分の息子、ないしは替えの利かない大切な人を失ってしまい酷く憔悴している。これに疑問の隙はない。
しかし私ときたらどうだろう。現状ラズさんの状態は”分からない”という言葉に尽きる。彼女と違い、まだ余地がある。
絶対に、これは絶対に、だが、だからと言って私の悲しみが軽視してよいものなのかと言われれば答えは否だ。しかし、大切な人との人生を永遠に失ってしまった彼女と、それが未確定の私。どちらの状況に救いがあるかという問いの答えが明白なのもまた事実。
「はぁ...」
ぼんやりと開いていた目に映る景色が少し億劫に染まった気がして、私は首を振り、目を閉じる。
ここまでたどり着いてしまった思考が、私の意思に関わらず私を叱咤しているような気がした。
『彼女でさえいずれ前を向く時が来る』
(私は...?)
失ったわけでもない私は、一体いつになれば自分の足で歩けるようになるのだろう。
答えは明白で、それはラズさんが帰って来た時に他ならない。けれど、もし。
もし万が一、いやそれよりもはるかに高い確率の未来でラズさんが帰ってこなければ、私は一体どれ程の人間に迷惑を掛けながら、それでいて虚しく死んでいくのだろう。
思考が徐々に沈んでいく。
どこまでも客観的な私の声が、蹲る私を取り囲み、絶えず激励を投げてくる。
だのに、肝心の私ときたらそれで奮い立つでもなく、ただ小さく、小さくなっていくばかりで。
(情けない...)
周りの音が徐々に大きくなっていく。
一キロも二キロも離れたところの音まで鮮明に聞こえてくる。
次第に、それらすべてに責められているような心地がしてくる。
(嫌いだ...)
平衡感覚が失われ、胃がひっくり返ったかのような気持ち悪さに襲われる。
ソファに蹲り、耳を塞いだとてなんら変わりはないらしい。
ただひたすらに拷問のような自責の沼にはまって溺れていくことしか、もはや私にはできなかった。
「......マリエルちゃん?」
控え目に背を撫でられる感覚でぱちりと目を開ける。
ばっと振り返ると、そこには酷く気づかわしそうにこちらを見るガブエラさんの姿があった。
いつの間にか滝のように流していたらしい冷や汗が額から頬を伝って滴った音で、私は些かの調子を取り戻して状況を理解する。
「す、すみません。えっと...帰るって話でしたよね...あれ、資料は...ってそっか...」
額の汗を拭いながら誤魔化すように、矢継ぎ早に言葉を綴る私を見たガブエラさんの瞳に、危機感のような光が灯った。ごくりと生唾を飲み込む音がやけに鮮明に聞こえる。
「えっと...」
「.........マリエルちゃん」
バツが悪くなり、視線を逸らす私をガブエラさんはまっすぐに見て、真剣そのものといった声音で私の名前を呼ぶ。
「は、はい...」
肩を縮めてガブエラさんの言葉を待っていると、ガブエラさんははっとした顔をしたかと思えば、途端に張り詰めていた空気を霧散さえるようにへらりと笑って「ごめん。責めようってんじゃないんだよ?」と顔の前で手を振った。
「え、えと...」
「ごめんね?悪い癖でさ。ホント未熟っていうか...医者としての最低限の気質なんだけどね」
そういって力なく笑うガブエラさんは、言葉の通り、音で判断するまでもなくどこか自虐的で、先ほどの息の詰まるような圧迫感を良しとしていないことが見て取れる。恐らくは医者として数々の症状を見てきているからこそ、本当に致命的なものを見ると心配や同情よりも先に、責任感や先ほどのような危機感がきてしまうのだろう。
確かに医者として考えるのならば患者に不安感を抱かせないことは大切なのかもしれない。事実、先ほどは何というか...少し、怖かった。
「うーん。そうだなぁ...。まぁ今日のところは帰ろうか。一にも二にも遅い時間だしさ」
「はい」
「で、これからなんだけど、いつも通りラズの治療兼お見舞いでここに来るついでに、マリエルちゃんもカウンセリングに来てもらっていいかな?」
「か、カウンセリングですか?」
「うん。必要に応じて薬も出そうかなって。ていうか、もっともっと早くからやるべきだったんだ。ごめん。...これじゃラズになんて言われるかわかんないなぁ......あ、もちろん僕が診るから安心してね」
「ガブエラさんが!?だ、ダメです...ただでさえ忙しいのに...」
「それで言ったらもうとっくに許容量を越してるから安心して?今更一つ仕事が増えたところで痛くもかゆくもないよ」
「いやいや、本当に大丈夫ですって!今のはちょっとした眩暈みたいなもので...」
あまりにその場しのぎな言い訳をする私を、ガブエラさんは目をすっと眇めて見ながらため息を一つ。
「あのね。医者を舐めるもんじゃないよ」
「...はい」
「今までもチラチラ危なそうな場面はあったけど、今回のは話がまるで違う。常時気分が落ちているし、その時のことを思い出すような何かがあれば泣いてしまうこともある。ここまではよくある話で、むしろ君を取り巻く環境を考えるならこれは当然のことなんだけど、そこから逸脱して、発汗だの動悸だの眩暈だのって症状が出るのは完全に診療対象だ。医者として見過ごせない」
「......でも...ガブエラさんにわざわざ見てもらわなくても...」
「話せることの量が段違いだろうに。ただでさえラズの一件に関しては戒厳令を敷かれてるものも多々あるっていうのに、加えて君は特殊な出自でしょう?更に付け加えるのなら、僕に対してさえこんなになるまで沈黙を貫いた堪え性でもある」
「......それは...」
「僕の心配なら大丈夫。これぐらい何ともないよ。っていうか、知り合いと話すってだけだし?」
最後の最後まで首を縦に振ることができずにいた私を見かねて、ガブエラさんは言うだけ言ったと思えば、パチパチと手をうって「帰ろうか。そろそろ冗談じゃなくなってきた」と急かす様に言って踵を返した。
置いて行かれてしまってはかなわないので慌ててソファから立ち上がると、ガブエラさんがドアの前で肩越しに私を見ていた。私が立ったのを確認してからドアを開け、白衣のポケットに手を突っ込んで寒い廊下を歩いていく。
『何ともないよ』
そういったガブエラさんの顔を思い出す。その目には確かに活気が映っていたが、ほんの少し下に視線を下げてみれば、そこにはうっすらと隈が横たわっていた。
(私は、また...)
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