第3話「究極の朝食と、ビンボー魔界のヤバすぎる帳簿」
ふかふかの、まるで雲の上に横たわっているかのような極上の寝心地。小鳥のさえずりと、窓から差し込む暖かな朝の光。
「……んん……」
私、セラフィナはゆっくりとまぶたを開けた。視界に広がったのは、美しい天蓋付きのベッドと、見知らぬ豪奢な天井だった。
(……ここは、どこ? 私は確か、アーサー殿下に婚約破棄されて、処刑されそうになって……それで、魔王様に連れ去られて……)
昨日の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
ピンクのフリルエプロンを着た、絶望の魔王ザガン様。彼が振る舞ってくれた、信じられないほど美味しい肉汁たっぷりのデミグラスハンバーグ。そして、私を暗殺しに来た部隊を「食事の邪魔だ」という理由だけで、お玉一本で夜空の星に変えてしまった圧倒的な力。
「夢じゃ、なかったのね……」
私が身を起こしたその時、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「セラフィナ、おはよう。起きているか? 朝食を持ってきたぞ」
扉が開き、巨大な漆黒の角と悪魔の翼を持つ魔王様が姿を現した。今日の彼は、爽やかなミントグリーンに白いレースがあしらわれた、可愛らしい朝用(?)のエプロンを身につけている。
彼が手にしている銀色のワゴンからは、たまらなく良い香りが漂ってきた。
「よく眠れたか? マットレスの硬さはどうだ? もし合わなければ、今すぐ大陸の反対側まで最高級の羽毛をむしりに行ってくるが」
「い、いえ! とんでもないです! こんなにぐっすり眠れたのは、生まれて初めてです」
私が慌てて首を振ると、魔王様は「そうかそうか!」とパタパタと嬉しそうに背中の翼を揺らした。そして、ワゴンの上の料理を次々とテーブルに並べていく。
「さあ、冷めないうちに食べてくれ。魔王特製、完璧な一日の始まりを約束するモーニングセットだ!」
テーブルに並べられたのは、まさに芸術品のような朝食だった。
外はサクッと、中はふわふわに焼き上げられた、バターの香り豊かな焼きたてのクロワッサン。とろけるような半熟のチーズオムレツ。厚切りにされたベーコンは、ジュージューと音を立てて香ばしい脂を滴らせている。さらに、朝露を浴びたばかりの新鮮な野菜を使った色鮮やかなサラダには、自家製のすりおろしオニオンドレッシングがたっぷりとかかっていた。
「さあ、まずは温かいスープからどうぞ」
魔王様に椅子を引かれ、私はおそるおそるスプーンを手にした。十種類以上の野菜がとろとろになるまで煮込まれたミネストローネを一口飲む。
「……っ! 美味しい……!」
野菜の甘みと、奥深いブイヨンのコク。それが寝起きの胃に、じんわりと優しく染み渡っていく。人間界の王宮で食べていた、冷めきって味気ない宮廷料理とは比べ物にならないほどの絶品だった。
「美味しいです、魔王様! このオムレツも、クロワッサンも……全部、最高です!」
「おおっ! 君のその笑顔が見られるなら、毎朝四時に起きて生地からパンを捏ねた甲斐があるというものだ!」
「よ、四時から!?」
人類の脅威であるはずの魔王様が、私の朝食のために夜明け前からパン生地をこねている姿を想像して、私は少しクラクラしてしまった。
人間界にいた頃の私は全く違った。無能なアーサー王子の代わりに、朝から晩まで政務や書類仕事に追われていたのだ。朝食など、歩きながら冷たいパンをかじるのが日常だった。それが今、こんなにも温かく、美味しく、徹底的に甘やかされている。
「あの……魔王様」
「ザガンでいい。いや、むしろ『あなた』や『ダーリン』と呼んでくれても一向に構わんぞ!」
「で、ではザガン様。こんなに良くしていただいて、本当にありがとうございます。ですが、私にも何かお手伝いできることはありませんか? 掃除でも、洗濯でも……」
私がそう申し出ると、ザガン様は途端に真剣な顔になり、私の両肩をガシッと掴んだ。
「馬鹿なことを言うな! 家事全般は俺の聖域だ! 妻である君の手を荒らすような真似、絶対にさせるものか!」
「で、でも、ずっとお世話になりっぱなしというのも心苦しくて……」
「なら、君の仕事は『俺の作った飯を美味そうに食べること』と、『このふかふかのベッドでたっぷり昼寝をすること』だ! 今日は俺、裏庭で君専用の露天風呂を掘削する予定だから、部屋でゆっくりくつろいでいてくれ!」
そう言って、ザガン様は空になった食器を手早く片付けると、「昼飯はとんかつにするからな!」と言い残して、嵐のように部屋を出て行ってしまった。
一人残された私は、ふかふかのベッドの上でぽつんと呟いた。
「……暇、ね」
公爵令嬢として、そして次期王妃として、常に何かに追われながら生きてきた私にとって、「何もしなくていい」という状況は、逆に落ち着かなかった。
(せめて、お城の中を少し見学させてもらおうかしら。ザガン様がどんなお城を治めているのか、知っておきたいし)
私はベッドから降りると、身支度を整え、重厚なマホガニーの扉に手をかけた。昨日は暗殺部隊の襲撃もあってすぐに寝てしまったため、この「愛の巣」の外がどうなっているのか、全く見ていなかったのだ。
ギィィ、と重い音を立てて扉を開ける。そこには、想像を絶する光景が広がっていた。
「……えっ?」
ピカピカの大理石が敷き詰められていた私の部屋とは打って変わり、廊下はボロボロだった。壁の石材は崩れ落ち、あちこちに蜘蛛の巣が張り巡らされている。窓ガラスは割れたままで、ピューピューと冷たい隙間風が吹き込んでいた。照明の松明は消えかかっており、薄暗く、じめじめとした陰鬱な空気が漂っている。
「ど、どういうこと……? 私の部屋だけ、全く別の空間みたいに切り取られていたの……?」
呆然と廊下を進むと、曲がり角の先から、ズズッ、ズズッ、と何か重いものを引きずるような音が聞こえてきた。
(ひっ……! まさか、拷問された犠牲者の亡霊……!?)
私が壁の影に身を潜めていると、現れたのは、ボロボロのローブを羽織った一体の骸骨だった。骸骨は、山のような書類の束を抱えながら、カタカタと骨を鳴らして歩いている。
「ああっ……もうダメだ……。今月の予算が……完全にショートしている……。このままでは、魔王軍は飢え死にだ……」
骸骨はそう呟くと、その場に力なく崩れ落ちた。手から滑り落ちた書類が、バサバサと廊下に散乱する。
「あ、あの! 大丈夫ですか!?」
私は思わず駆け寄り、散らばった書類を拾い集めた。骸骨は、目の前の窪んだ眼窩を瞬かせるように私を見上げた。
「あ、貴女は……。もしや、ザガン様が連れ帰られたという、人間の公爵令嬢セラフィナ様……?」
「はい、そうです。貴方は?」
「私は魔王軍四天王の一人、不死王のガルディと申します……。現在、この魔界の宰相と、財務長官と、人事部長と、清掃係を兼任しております……」
「四天王!? それに、兼任しすぎでは!?」
恐ろしい名前とは裏腹に、ガルディさんの声は過労で倒れる寸前のサラリーマンのように弱々しかった。
「セラフィナ様……。どうか、どうか我々をお救いください……!」
「えっ? 救うって、一体何から?」
「貧困からです……!!」
ガルディさんは、カシャンカシャンと音を立てて私にすがりついた。
「魔王ザガン様は、確かに歴代最強にして絶対的な力を持つお方です。しかし……あの方は、魔界の統治や政治に、ミリ単位の興味も持っておられないのです!」
「そ、それは……なんとなく察していましたが」
「あのお方の夢はただ一つ、『人間の妻をめとり、完璧な専業主夫になること』。この三百年間、あの方は人間界の料理本や家事の教本を読み漁り、主夫としてのスキルを磨くことだけに全力を注いでこられました」
「さ、三百年も……!?」
「そしてついに、貴女様という運命の伴侶を見つけられた。……そこまでは良かったのです。ですが、問題はここ数日の『経費』です」
ガルディさんは、カタカタと震える骨の手で、一枚の帳簿を私に差し出した。
「ご覧ください。貴女様をお迎えするために用意された、あの部屋の改装費。最高級のアンティーク家具。大陸の反対側から取り寄せた極上の羽毛。そして、毎食の超高級食材……」
「…………っ!!」
帳簿に書かれた桁外れの金額を見て、私は息を呑んだ。
「こ、これ……魔界の国家予算の、何パーセントですか……?」
「……98パーセント、です」
「きゅ、98パーセント!?」
「はい。おかげで、魔界の農業区画への助成金はストップ。治水工事の予算もゼロ。現在、下級魔族たちはその辺に生えている雑草と苔を食べて飢えを凌いでおります。このお城の修繕費すら出ず、雨漏りも放置状態。魔界は今、深刻な財政破綻の危機に瀕しているのです……!!」
ガルディさんの言葉に、私は大きなショックを受けた。私がふかふかのベッドで眠り、美味しいハンバーグやクロワッサンを食べている裏で、魔界の住民たちは飢えに苦しみ、国は崩壊の危機にあったのだ。
(私のせいだわ……。ザガン様は私のために、魔界の全てを犠牲にしてしまっている……!)
罪悪感に胸が押し潰されそうになった。
「ごめんなさい……私のせいで……」と、涙が溢れそうになる。
だが……
次の瞬間、私の内側に眠っていた『公爵令嬢』としての、いや、『超優秀な事務官』としての血が、ドクンと激しく脈打った。
(……待って。98パーセントの予算を持っていかれたとはいえ、この帳簿の付け方、あまりにも杜撰すぎない?)
私は涙を引っ込め、ガルディさんから帳簿の束をひったくった。
「ガルディさん。この項目、『使途不明金』が多すぎます。それに、なぜ農業区画の予算を現金で配ろうとしているんですか? 魔獣たちの労働力を活かして特産品を作り、人間界の闇市場に横流しすれば、利益は三倍になるはずです」
「えっ……? セ、セラフィナ様……?」
「それに、この税制! 全く機能していません。これでは富が一部の貴族階級の魔族に偏るだけです。直ちに累進課税を導入し、さらに……ああもう、この複式簿記の書き方、誰が教えたんですか! 全く計算が合っていませんよ!」
先ほどまでの申し訳なさそうな態度はどこへやら……
完全に「仕事モード」のスイッチが入ってしまった私は、無意識のうちにガルディさんに矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。
「ガルディさん! 過去五年分の財務データ、魔界の地勢図、そして現在の全魔族の人口統計と労働力分布図を、今すぐ私の部屋に持ってきなさい! 一時間で現在の赤字の根本原因を洗い出します!」
「は、はいぃぃぃっ!?」
あまりの気迫に、四天王であるはずのガルディさんが、ビシッと直立不動の姿勢をとる。
「それと、城の修繕は後回し! まずは農業区画への緊急融資の稟議書を作成します。私が決済印を押すので、ペンとインクを!」
「お、おおお……! な、なんという圧倒的な実務能力……! まるで、長年国を回し続けてきた熟練の宰相のようだ……!」
ガルディさんは感涙(眼球はないが)を流しながら、慌てて書類を集めに出発した。
私は、腕まくりをした。アーサー王子に婚約破棄された時、私の人生は終わったと思っていた。だけど、ここには「私を必要としている場所」がある。しかも、ポンコツな王子にこき使われるのではなく、私を何よりも大切にしてくれる、愛妻家魔王様の世界だ。
(ザガン様が私に最高の生活を与えてくれるなら……私は、彼が安心して主夫業に専念できるように、この国を最高の状態に立て直してみせるわ!)
私が、廊下の床に広げた帳簿に猛烈な勢いでペンを走らせていると、背後からのんきな声が聞こえてきた。
「セラフィナ〜! 露天風呂を掘り終えたぞ! 今、風呂上がりのための冷たいフルーツ牛乳も用意して……って、ええっ!?」
スコップとタオルを手にしたザガン様が、目を丸くして立ち尽くしていた。
「な、何をしているんだセラフィナ!? なぜ冷たい床に座り込んで、そんな紙の束と睨み合っているんだ!? まさか、俺の飯が口に合わなくて家出したのか!?」
「ザガン様!」
私はバッと振り返り、ビシッとペンを突きつけた。
「ご飯は最高に美味しいです! 露天風呂も楽しみです! でも、その前に……私は、このヤバすぎる魔界の財政を、黒字化させます!!」
「……はい?」
「貴方は最高の主夫として私を支えてください。その代わり、この国の政治と経済は、今日から私が全て取り仕切ります!」
私が力強く宣言すると、ザガン様はポカンと口を開けた後――
「……おおおおおっ!! なんて頼もしいんだ、俺の妻は!! 働く女の姿、最高にカッコいいぞセラフィナ!!」
なぜか、さらに目を輝かせて私を褒めちぎり始めたのだった。
こうして、激甘エプロン魔王による「極上の主夫ライフ」と、有能すぎる公爵令嬢による「魔界ホワイト化計画」という、前代未聞の二人三脚が、ここに幕を開けたのである。
第3話をお読みいただきありがとうございます!
ついに明らかになった「ビンボー魔界」のヤバすぎる実態と、セラフィナの内政スキルが覚醒するお話でした。次回からは、セラフィナの容赦ない大改革(と、それを全力でサポートする魔王様の手料理)が猛威を振るい始めます! 一方その頃、優秀なセラフィナを失った人間界では……?続きが気になると思っていただけましたら、ぜひブックマークや評価での応援をよろしくお願いいたします!




