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王子に婚約破棄されたら魔王が降臨して「俺が専業主夫になる!」と求婚してきました  作者: 綾瀬 灯


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第10話「魔界式・究極のワーキングランチと、遠吠えは負け犬の調べ」

翌朝──魔王城の賓客エリアを包み込むのは、鳥の囀《さえず》りさえ聞こえてきそうなほど穏やかで澄み切った静寂だった。


ロマーナ王国の使節団長であるアルベール伯爵は、最高級の羽毛に包まれているような、いや、それ以上の至福のまどろみの中で目を覚ました。


シーツの素材は、魔界の特産品『魔蚕糸《まさんし》』。肌に吸い付くように滑らかでありながら、体温を完璧な状態に保つ魔法繊維である。空気は微弱な浄化魔法で清浄に保たれ、微かに香るリラックス効果のあるハーブが、昨日の長旅の疲労を完全に抜き去っていた。


「……信じられん。我が国の王宮賓客室ですら、これほどの質の高い睡眠は得られないぞ」


彼がここを「血と暴力が支配する地獄」だと信じ込んでいたのは、わずか一日前のことだ。今やその認識は根底から覆されようとしていた。


朝食の席で彼を待ち受けていたのは、更なる衝撃だった。テラス席に案内された伯爵の前に出されたのは、幾重にも重なる美しい黄金色の層を持ったパン『魔界クロワッサン』と、淹れたての芳醇なハーブティーである。


「おはようございます、アルベール伯爵。よく眠れましたか?」


魔王の愛妻にして、魔界の政務を実質的に取り仕切るセラフィナ・クライス公爵令嬢。そしてその隣には、恐るべき魔力を隠しもしない魔王ザガンが、なぜかパリッとしたエプロン姿で腰掛けていた。


「そ、それはもう、今までにないほど熟睡を……。あの……、この美しいパンは?」


「俺が今朝、粉から仕込んだ特製クロワッサンだ。魔界の寒冷地で育つ黄金魔獣の乳から作った発酵バターを、限界までたっぷりと練り込んである。冷めないうちに食べるといい」


伯爵が震える手でクロワッサンを千切ると、サクッ……という軽やかな音と共に、濃厚なバターの香りが爆発的に立ち昇った。一口噛めば、外側の繊細なパリパリ感と、内側のしっとりとしたモチモチ感が絶妙なコントラストを生み出し、噛むほどに小麦の深い甘みが口の中を満たしていく。


「……ッ!! な、なんだこれは……! 濃厚なのに全く胃にもたれない! むしろ活力が全身に漲ってくるようだ……!」


「当然だ。発酵時の温度と湿度は、俺の魔力制御で〇・一度の狂いもなく管理しているからな」


魔界の王が、パンの発酵に全力を注いでいる。その事実のシュールさに眩暈を覚えながらも伯爵は確信した。この国と手を結ぶことは、ロマーナ王国にとって歴史的な大躍進になる、と。


***


午前九時──魔界臨時・中央政務室にて、両国の命運を懸けた貿易協定の本格的な交渉が始まった。


「我がロマーナ王国は、魔界産の『魔蚕糸』および『魔導農機具』の輸入にかかる関税を完全撤廃いたします。さらに我が国からは、上質な鉄鉱石と南部の岩塩を優先的に供給させていただきたく……」


アルベール伯爵の提示した条件は、使節団長としての権限を最大限に活かした破格の譲歩だった。しかしセラフィナは、手元の資料に視線を落としたまま優雅に微笑んだ。


「素晴らしいご提案ですわ、伯爵。ですが……魔界としてはもう一つ、お互いに利益を生む仕組みを提案したいのです」


セラフィナは新たな書面を滑らせる。


「鉄鉱石の輸送に関して、我が国の物流システム『魔界運送(ヤマト仮)』の空き枠を提供いたします。ツインヘッド・ウルフ(双頭の魔狼)による空路・陸路の輸送網を使えば、ロマーナ王国の輸送コストと日数は現在の三分の一以下に圧縮できるはずです。その代わり、我が国の『魔法肥料』の製法に関する特許保護条項に同意していただきたいのです」


「……っ!! な、なんと……あの脅威的な輸送網を、我が国のために……!?」


伯爵は息を呑んだ。


目の前に座るセラフィナは、ただの「魔王に愛された令嬢」ではない。自国の利益を確保しつつ、相手国にも無視できない巨大な恩恵を与え、決して裏切れない強固な依存関係を築き上げる、恐ろしく優秀な為政者だった。


(グランディエ王国は、正気だったのか? こんな傑物を無能と見なして追放しただと……!?)


伯爵が密かに呆れ果てていた、ちょうどその時──


バァーン!!


会議室の重厚な扉が勢いよく開け放たれた。


「そこまでだ、セラフィナ。白熱した頭脳労働には、適切なエネルギー補給が必要不可欠! 俺が直々に『魔界式・究極のワーキングランチ』を持ってきたぞ!」


真っ白なコックコートを翻《ひるがえ》し、魔王ザガンがワゴンを押して堂々と乱入してきた。背後にはエプロン姿の屈強なオークたちが付き従っている。


「ザガン様……! まだ交渉の重要なすり合わせの途中で……」


「わかっているとも。だからこそ仕事の手を止めずに最高の美味を堪能できる、魔界の叡智『マクノウチ・ベントウ』を用意したのだ!」


オークたちが手際よく、全員の前に美しく磨き上げられた漆塗りの重箱を配っていく。


「ふ、蓋を開けても……?」


伯爵が恐る恐る蓋を持ち上げた瞬間、ふわりと温かな湯気が舞い上がり、暴力的なまでの香ばしさと出汁の香りが会議室の空気を一変させた。


「おおおおおっ……!! こ、これは、まるで宝石箱ではないか……!!」


十字に区切られた箱の中は、まさに計算し尽くされた小宇宙だった。


左上には、魔界の清流で身を引き締めた『虹色サーモン』のふっくらとした塩焼きと、出汁がジュワッと染み出す黄金の厚焼き玉子。右上には、Sランク魔獣・コカトリスのモモ肉を二度揚げし、外はカリッ、中は肉汁の爆弾と化した特製唐揚げ。


左下には、魔界の豊穣な大地が育てた一粒一粒が輝く銀シャリと、その中央に鎮座する自家製『悪魔の梅干し』。右下には、色鮮やかな温野菜のバーニャカウダと、季節の魔界果実をあしらった小さなタルト。


「なぜだ!? 厨房から運ばれてきたというのに、ご飯もおかずも、まるで今出来上がったかのように熱々ではないか!」


「ふん。箱の底に微弱な加熱・保温魔法陣を組み込み、食材ごとに最適な温度をキープするよう調整してある。冷めた飯など、俺の愛する妻には絶対に食わせんからな」


ザガンが自慢げに胸を張る中、伯爵は渡された箸を使って、コカトリスの唐揚げを口に運んだ。


サクッ……ジュワァァァァッ!!


「……ッッッ!!!!!」


伯爵の全身を、雷に打たれたような衝撃が貫いた。


数種類のスパイスとハーブが完璧な比率で配合された衣。そこから溢れ出す、コカトリス特有の野性味を完全に旨味へと昇華させた凶悪なまでの肉汁。


「う、美味すぎるぅぅぅっ!! 唐揚げの圧倒的な脂の旨味を、この白く輝く米がしっかりと受け止め、口の中で奇跡の融合を果たしている……! しかもこの梅干しという赤い果実の酸味が、再び食欲をリセットし、無限に食べられてしまう!」


伯爵は涙をボロボロと零しながら、もはや交渉のことも忘れ、一心不乱に弁当を掻き込んだ。他の使節団員たちも完全に無言となり、ただひたすらに重箱の底を突いている。


「……セラフィナ様、この『魔法保温弁当箱』の技術提供と、コカトリスの唐揚げのライセンス契約もぜひ貿易協定に……!」


「ええ、喜んで追加させていただきますわ」


セラフィナが微笑むと、ザガンは満足そうに頷き、セラフィナの重箱にそっと一番形の良い唐揚げをおまけで乗せたのだった。


***


時を同じくして、魔界から遠く離れた人間界の大国『グランディエ王国』の王城。


「な、なんだと!? ロマーナ王国が、魔界と国交を結んだだと!?」


豪華だがどこか埃っぽい執務室で、金髪の青年アーサー王太子が、血走った目で報告書を握り潰していた。


「は、はい……。しかもロマーナの使節団は、『魔界こそが地上の楽園である』と豪語し、見たこともない農機具や、超高度な魔法道具を大量に持ち帰ったとのことです……」


「馬鹿な! 魔界は毒の沼に覆われた地獄のはずだ! そんな場所と交易など……」


アーサーはギリッと歯を食いしばった。彼が無能と蔑《さげす》んでセラフィナを追放して以降、グランディエ王国の内政は崩壊の危機に瀕していた。財政管理、貴族間の根回し、領地開発の指示、その全てをセラフィナが一人で完璧に回していたという事実を、彼は彼女がいなくなってから初めて知ったのだ。


新しい婚約者の男爵令嬢は、ドレスや宝石のカタログを眺めることしか能がなく、王国の借金は雪だるま式に膨れ上がっている。


「さらに恐ろしい報告が……。ロマーナ王国と魔界の交渉の全権を握っていたのは、魔界で魔王の側近に収まった、セラフィナ・クライス公爵令嬢であると……」


「セラフィナだと……!!??」


アーサーの顔からスッと血の気が引いたが、次の瞬間、彼の歪んだプライドは都合の良い解釈を生み出した。


「……そうか。あの女、魔族に脅されて無理やり働かされているのだな!」


「は? いえ、報告によれば魔王と非常に親密な様子で──」


「黙れ! セラフィナが俺を差し置いて魔族などに従うはずがない! きっと俺の助けを待ちながら毎日泣いているに違いないのだ! 可哀想に……」


アーサーは狂気に満ちた笑みを浮かべ、机をバンッと叩いた。


「すぐに同盟国へ使者を出せ!『魔王に囚われた令嬢を救い出す聖戦軍』を組織するのだ! 俺自らが大軍を率いて魔界へ乗り込み、セラフィナを奪い返してやる!」


虚栄心と自己正当化に塗れたアーサーの叫びが、薄暗い部屋に空しく響く。彼が挑もうとしている魔王が、妻の睡眠時間を削る者は、国ごと地図から消し去るレベルの「極度の愛妻家」であることを、この愚かな王子はまだ知る由もなかった。


***


「……くしゅんっ!」


夕暮れの魔王城──美しいバルコニーで風に当たっていたセラフィナは、小さくくしゃみをした。


「どうしたセラフィナ!? 風邪か!? もしやどこかの愚か者が、お前に変な念でも飛ばしているのか!? 今すぐ俺が火炎魔法で大陸ごと焼き払ってこようか!?」


「まあ、大袈裟ですよザガン様。少し鼻がムズムズしただけですから」


慌てて最高級のショールを彼女の肩に掛け、腰を抱き寄せるザガンに、セラフィナはくすくすと笑った。


「それよりもザガン様、今日の夕食はなんでしょうか?」


「お前がそう言うなら焼き払うのは保留にしよう。今日は交渉成功の祝いだ! お前が大好きな『濃厚チョコレートパフェ』を特別に大きく作ってあるぞ」


「わぁっ! ありがとうございます、ザガン様!」


過去の愚かな男のことなど、もはや彼女の頭の片隅にも存在しない。セラフィナは、自分を心から愛し、世界で一番美味しい料理を作ってくれる最愛の夫と共に、甘く幸せな夜のティータイムへと歩き出した。

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