パート2:『覚醒のマリ王』
トレイの上で、氷がカラリと涼しげな音を立てる。
私はリビングのドアをそっと開け、戦場へと戻った。
「あ、お姉さん。ありがとうございます」
恒一さんが画面を見つめたまま、少しだけ顔をこちらに向けて微笑む。
その一瞬の隙を逃さず、海斗がゴールを駆け抜けた。
「よっしゃ! 三連勝! 恒一さん、今のカーブ甘いっすよ」
「あはは、完敗だなぁ。やっぱり海斗くん、容赦ないね」
恒一さんはそう言って、ソファの背もたれに深く体を沈めた。
額には薄っすらと汗が浮いている。その無防備な姿に、心臓がまた跳ねる。
私は努めて冷静を装い、二人の前のテーブルにグラスを置いた。
「……はい、麦茶です。氷、多めに入れておきました」
「助かる。まりちゃん、気が利くね」
『まりちゃん』
その響きに、耳の奥が熱くなる。
ダメだ、また『ただのファン』に引き戻されそうになる。
私は唇を噛み、海斗の前にグラスを置いた。
「あんた、ゲストを負かしてドヤ顔してんじゃないわよ。性格悪いんだから」
「は? 勝負の世界に手加減なんてないの。な、リスナーのみんな?」
海斗がマイクに向かって同意を求めると、コメント欄がさらに加速する。
『海斗、空気読めww』
『王子に勝たせてやれよ!』
『でもコーイチさん、上達早すぎん?』
『ていうか、姉ちゃんの麦茶飲みたい』
『姉ちゃんは大人しく麦茶配ってろww』
最後の一行が、視界を掠めた。
鼓膜の奥で、何かがプチリと音を立てて切れた。
大人しく、麦茶を配ってろ?
私が、ただの傍観者で、ポンコツで、笑われるだけの脇役だと?
自分でも驚くほど、スッと頭の中が冷えていく。
手汗のべたつきが消え、視界の端までがクリアに澄み渡っていく感覚。
キッチンで感じたあの闘志が、確固たる『意志』へと昇華される。
「……海斗。コントローラー、貸しなさい」
低く、地を這うような声。
自分で出した声なのに、ひどく冷徹に響いた。
「ん? 姉ちゃん、何? まだゴールしてないレースでもあるの?」
海斗が小馬鹿にしたように笑う。
「あんたの代わりに、私が恒一さんとやる。……あんたを負かしてからね」
リビングの空気が、凍りついた。
海斗が、ポカンと口を開けて私を見上げる。
恒一さんも、驚いたように目を丸くしていた。
コメント欄が一瞬静まり返り、次の瞬間に大爆発を起こす。
『ええええええええええ!?』
『姉ちゃん何言ってんのwww』
『世界ランク2桁に挑むポンコツww』
『これは神回の予感』
『コーイチさん、逃げてー!』
「……爆笑。姉ちゃん、熱でもあるんじゃない? 俺に勝てるわけないじゃん。一度も勝ったことないのに」
海斗が腹を抱えて笑い出す。
「それは、あんたが泣くまで止めないから、私が手加減してただけでしょ」
私は無表情のまま、海斗の手から強引にコントローラーを奪い取った。
有無を言わせぬ拒絶。
海斗が蛇に睨まれた蛙のように、一瞬だけ怯んだ表情を見せる。
私はそのまま、海斗の代わりにソファの中央に腰を下ろした。
恒一さんの隣、という状況にも眉一つ動かさない。
今の私の視線は、ただ真っ直ぐに画面だけを射抜いていた。
「コーイチさん。……容赦しませんよ」
「あ、はい……よろしくお願いします、まりちゃん」
恒一さんが、少しだけ顔を強張らせながらも、どこか楽しそうに口角を上げた。
その表情に、ほんの一瞬だけ胸が騒いだが、私はすぐに精神の壁を築く。
手慣れた動作でマシンの設定を弄る。
キャラクターは最速の軽量級。マシンは加速と曲がりやすさを重視したカスタマイズ。
海斗が、横で呆然と私の手元を見つめている。
「……姉ちゃん、そのカスタム……」
「うるさい。黙って見てなさい」
私の中で、何かが完全に切り替わった。
自分は脇役でいい。そう思い込んで、ずっと一歩引いて生きてきた。
でも、ゲームの世界においてだけは、私は絶対に誰にも舐められるような存在じゃない。
それは、私の中に流れる、ある種の『血』が、そう叫んでいる。
「……いくよ」
短い合図と共に、カウントダウンが始まった。
私の、推しの、そして『本気になった私』の、狂乱のレースが幕を開ける。




