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推しの献血王子がなぜか家に通ってくるんだけど、距離が近すぎてもう好きになるしかない  作者: はりねずみの肉球
第2章:同じ帰り道の違和感

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8/12

パート1:『推しとのマルチプレイは心臓に悪い』

『え、コーイチさん上手くない!?』

『初心者詐欺だろww』

『海斗と互角にやり合ってんのヤバい』


画面の端を滝のように流れていくコメント群。

海斗が立ち上げたゲリラ配信は、恒一さんの『声』という強烈なフックと、その意外なゲームセンスによって、開始数分で同接数千人を叩き出していた。


「あー、くっそ! 今のインベタ、ガチで上手いですねコーイチさん!」


「海斗くんがさっきやってたのを真似しただけだよ。でも、このカーブきついな」


二人の笑い声が、隣から鼓膜を直接揺らす。

私たちがプレイしているのは、世界的に有名なカートレースゲームだ。

画面の中では、海斗の操るキャラクターと、恒一さんのキャラクターが激しいデッドヒートを繰り広げている。

そして、その二人の遥か後方。

私のキャラクターは、さっきから壁に激突し、コースアウトを繰り返し、最下位を独走していた。


「まりちゃん、大丈夫? 逆走してるよ」


恒一さんが、画面から目を離さずにフワリと笑う。

その声に反応した視聴者コメントが、また爆速で流れる。


『まりちゃんって誰!?』

『海斗の姉ちゃんらしい』

『姉ちゃんポンコツで草』

『コーイチさんの「まりちゃん」呼びヤバい、鼓膜溶けた』


(溶けたいのはこっちだよ……ッ!)


私はコントローラーを握りしめながら、内心で絶叫する。

無理だ。こんな状況で平常心を保てるわけがない。

すぐ隣には、私が崇拝してやまない『献血王子』が座っている。彼がコントローラーのスティックを弾くたび、黒いパーカーの袖が私のカーディガンに微かに触れる。

そのたびに、柔軟剤の香りと彼の体温がダイレクトに伝わってきて、私の脳内CPUは完全に熱暴走を起こしていた。


「あ、ごめん、ちょっと肘当たった」


「ひゃいッ! じぇんじぇん大丈夫です!」


噛んだ。盛大に噛んだ。

画面の中で、私のカートがバナナの皮を踏んでスピンする。


「まり姉ちゃん、緊張しすぎ。手元ガチガチじゃん。もっと力抜けって」


海斗が呆れたようにため息をつく。

(誰のせいだと思ってるの! あんたが無理やり配信なんて始めるから!)

目で思い切り弟を睨みつけるが、海斗はニヤニヤと笑いながらトップを独走し、そのまま軽々とゴールテープを切った。

数秒遅れて、恒一さんが2位でゴールする。


「うわー、負けた! やっぱり海斗くんには敵わないな」


恒一さんが悔しそうにソファに背中を預け、長い息を吐き出す。

その悔しがる横顔すらも、映画のワンシーンのように絵になっている。


『コーイチさん普通に上手い』

『海斗相手にここまで食らいつくの凄すぎ』

『ていうか姉ちゃんまだゴールしてないww』


コメント欄の総ツッコミを受けながら、私はようやく這うようにして最下位でゴールした。

手汗でコントローラーが滑る。心臓はさっきから早鐘を打ちっぱなしで、息苦しい。

推しの前で、しかも何千人という視聴者の前で、ポンコツな姿を晒し続けるのは、精神的な拷問に近かった。


「……っ、ごめんなさい。私、ちょっと飲み物、おかわり持ってきます」


限界だった。

私は逃げるようにソファから立ち上がった。


「あ、俺も喉渇いたかも。お茶お願いしてもいい?」


恒一さんがこちらを見上げて微笑む。


「は、はい! 氷も入れてきますね!」


私は早口で返し、転がるようにしてリビングを飛び出した。


パタン、とリビングのドアを閉める。

途端に、静寂が訪れる。

薄暗いキッチンに逃げ込んだ私は、冷蔵庫に両手をついて、深く、深く深呼吸をした。


「……っはぁ、死ぬかと思った」


冷たい冷蔵庫の表面に額を押し当てて、火照った顔を冷やす。

リビングからは、海斗と恒一さんの楽しそうな声が微かに漏れ聞こえてくる。


『じゃあコーイチさん、もう一戦いきますか』

『うん。今度はさっきのショートカット、絶対成功させる』


どうやら、二人で再戦を始めるらしい。

私は冷凍庫から氷を取り出しながら、自分自身の情けなさに嫌気がさしていた。


(何やってるんだろう、私)


推しが家にいるという異常事態。

それは確かにパニックになる。でも、ただ震えて、彼の隣で縮こまっているだけの『可哀想な脇役』でいるのは、なんだかすごく、悔しかった。


『姉ちゃんポンコツで草』


さっき流れたコメントが、脳裏に蘇る。

弟にポンコツ扱いされ、視聴者に笑われ、そして何より、恒一さんに手加減される自分。

私は、誰かの後ろをトボトボついていくだけの人間だっただろうか。


いや、違う。

ゲームの世界においてだけは、私は絶対に弟に舐められるような存在じゃない。


カラン、と。

グラスに氷を落とす音が、やけに高く響いた。


自分は脇役でいい。そう思い込んで、ずっと一歩引いて生きてきた。

推しは遠くにいるべき。私は観客席の端っこが似合う。

でも。


(――私のテリトリーで、私をモブ扱いするのは、許せない)


自分でも驚くほど、スッと頭の中が冷えていくのを感じた。

手汗のべたつきが消え、視界の端までがクリアに澄み渡っていく感覚。

それは、私が本気でコントローラーを握る時の、完全な『没入状態』へのスイッチだった。


トレンチコートを脱ぎ捨てるように、私は「推しの前で緊張するただのファン」という殻をキッチンに置いていく。

お盆に冷たい麦茶のグラスを三つ乗せ、私は無表情のままリビングへの短い廊下を歩いた。


「あー! 今のアイテムずるいって!」

「ふふっ、海斗くんの隙が見えたからね」


リビングからは、白熱した二人の声が響いている。

どうやらちょうど、レースの最終ラップに差し掛かっているらしい。


ガチャリ、と。

私は何の躊躇いもなく、リビングのドアノブを回した。

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