パート1:『推しとのマルチプレイは心臓に悪い』
『え、コーイチさん上手くない!?』
『初心者詐欺だろww』
『海斗と互角にやり合ってんのヤバい』
画面の端を滝のように流れていくコメント群。
海斗が立ち上げたゲリラ配信は、恒一さんの『声』という強烈なフックと、その意外なゲームセンスによって、開始数分で同接数千人を叩き出していた。
「あー、くっそ! 今のインベタ、ガチで上手いですねコーイチさん!」
「海斗くんがさっきやってたのを真似しただけだよ。でも、このカーブきついな」
二人の笑い声が、隣から鼓膜を直接揺らす。
私たちがプレイしているのは、世界的に有名なカートレースゲームだ。
画面の中では、海斗の操るキャラクターと、恒一さんのキャラクターが激しいデッドヒートを繰り広げている。
そして、その二人の遥か後方。
私のキャラクターは、さっきから壁に激突し、コースアウトを繰り返し、最下位を独走していた。
「まりちゃん、大丈夫? 逆走してるよ」
恒一さんが、画面から目を離さずにフワリと笑う。
その声に反応した視聴者コメントが、また爆速で流れる。
『まりちゃんって誰!?』
『海斗の姉ちゃんらしい』
『姉ちゃんポンコツで草』
『コーイチさんの「まりちゃん」呼びヤバい、鼓膜溶けた』
(溶けたいのはこっちだよ……ッ!)
私はコントローラーを握りしめながら、内心で絶叫する。
無理だ。こんな状況で平常心を保てるわけがない。
すぐ隣には、私が崇拝してやまない『献血王子』が座っている。彼がコントローラーのスティックを弾くたび、黒いパーカーの袖が私のカーディガンに微かに触れる。
そのたびに、柔軟剤の香りと彼の体温がダイレクトに伝わってきて、私の脳内CPUは完全に熱暴走を起こしていた。
「あ、ごめん、ちょっと肘当たった」
「ひゃいッ! じぇんじぇん大丈夫です!」
噛んだ。盛大に噛んだ。
画面の中で、私のカートがバナナの皮を踏んでスピンする。
「まり姉ちゃん、緊張しすぎ。手元ガチガチじゃん。もっと力抜けって」
海斗が呆れたようにため息をつく。
(誰のせいだと思ってるの! あんたが無理やり配信なんて始めるから!)
目で思い切り弟を睨みつけるが、海斗はニヤニヤと笑いながらトップを独走し、そのまま軽々とゴールテープを切った。
数秒遅れて、恒一さんが2位でゴールする。
「うわー、負けた! やっぱり海斗くんには敵わないな」
恒一さんが悔しそうにソファに背中を預け、長い息を吐き出す。
その悔しがる横顔すらも、映画のワンシーンのように絵になっている。
『コーイチさん普通に上手い』
『海斗相手にここまで食らいつくの凄すぎ』
『ていうか姉ちゃんまだゴールしてないww』
コメント欄の総ツッコミを受けながら、私はようやく這うようにして最下位でゴールした。
手汗でコントローラーが滑る。心臓はさっきから早鐘を打ちっぱなしで、息苦しい。
推しの前で、しかも何千人という視聴者の前で、ポンコツな姿を晒し続けるのは、精神的な拷問に近かった。
「……っ、ごめんなさい。私、ちょっと飲み物、おかわり持ってきます」
限界だった。
私は逃げるようにソファから立ち上がった。
「あ、俺も喉渇いたかも。お茶お願いしてもいい?」
恒一さんがこちらを見上げて微笑む。
「は、はい! 氷も入れてきますね!」
私は早口で返し、転がるようにしてリビングを飛び出した。
パタン、とリビングのドアを閉める。
途端に、静寂が訪れる。
薄暗いキッチンに逃げ込んだ私は、冷蔵庫に両手をついて、深く、深く深呼吸をした。
「……っはぁ、死ぬかと思った」
冷たい冷蔵庫の表面に額を押し当てて、火照った顔を冷やす。
リビングからは、海斗と恒一さんの楽しそうな声が微かに漏れ聞こえてくる。
『じゃあコーイチさん、もう一戦いきますか』
『うん。今度はさっきのショートカット、絶対成功させる』
どうやら、二人で再戦を始めるらしい。
私は冷凍庫から氷を取り出しながら、自分自身の情けなさに嫌気がさしていた。
(何やってるんだろう、私)
推しが家にいるという異常事態。
それは確かにパニックになる。でも、ただ震えて、彼の隣で縮こまっているだけの『可哀想な脇役』でいるのは、なんだかすごく、悔しかった。
『姉ちゃんポンコツで草』
さっき流れたコメントが、脳裏に蘇る。
弟にポンコツ扱いされ、視聴者に笑われ、そして何より、恒一さんに手加減される自分。
私は、誰かの後ろをトボトボついていくだけの人間だっただろうか。
いや、違う。
ゲームの世界においてだけは、私は絶対に弟に舐められるような存在じゃない。
カラン、と。
グラスに氷を落とす音が、やけに高く響いた。
自分は脇役でいい。そう思い込んで、ずっと一歩引いて生きてきた。
推しは遠くにいるべき。私は観客席の端っこが似合う。
でも。
(――私のテリトリーで、私をモブ扱いするのは、許せない)
自分でも驚くほど、スッと頭の中が冷えていくのを感じた。
手汗のべたつきが消え、視界の端までがクリアに澄み渡っていく感覚。
それは、私が本気でコントローラーを握る時の、完全な『没入状態』へのスイッチだった。
トレンチコートを脱ぎ捨てるように、私は「推しの前で緊張するただのファン」という殻をキッチンに置いていく。
お盆に冷たい麦茶のグラスを三つ乗せ、私は無表情のままリビングへの短い廊下を歩いた。
「あー! 今のアイテムずるいって!」
「ふふっ、海斗くんの隙が見えたからね」
リビングからは、白熱した二人の声が響いている。
どうやらちょうど、レースの最終ラップに差し掛かっているらしい。
ガチャリ、と。
私は何の躊躇いもなく、リビングのドアノブを回した。




