パート2:『歩幅と鼓動が重なる帰り道』
「えっと……この路線の、王子公園駅です」
私が地元の駅名を口にした瞬間。
彼の目が、驚いたように丸く見開かれた。
「えっ」
「……どうか、しましたか?」
「いや、奇遇だなと思って。俺も、王子公園で降りるんです」
ガタン、と電車が大きく揺れる。
偶然だ。ただの偶然。同じ沿線に住んでいるか、用事がある人が同じ電車に乗っているだけ。
そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせようとする私に、彼は恥ずかしそうにキャップのつばを触りながら付け加える。
「さっき充電切れてたの思い出して、駅の売店でモバイルバッテリー買ってたら、見事に一本乗り遅れちゃって」
彼の手元を見ると、見慣れない白いコードがポケットのスマホに繋がっている。
ああ、なるほど。それでホームにいたのか。
方向音痴で、モバイルバッテリーを買っていて電車を逃す。
画面越しには決して見せない、ちょっと抜けている等身大の彼の姿。それが今、私の手の届く距離にあるという事実が、脳の処理能力をバグらせていく。
やがて、アナウンスと共に電車が王子公園駅のホームに滑り込む。
プシューッと扉が開き、私たちは並んでホームに降り立った。
夕暮れの空はもう深い群青色に変わりつつあり、駅の蛍光灯が足元にくっきりと二つの影を落としている。
改札を抜ける。
さすがにここでお別れだろう。
「じゃあ、私はこっちなので」と、駅の北側へ向かう道を指差して頭を下げる。
これで終わり。現実の推しとの、一生に一度の奇跡の遭遇イベントは無事終了。
そう思って踵を返した私の耳に、信じられない言葉が飛び込んでくる。
「あ、俺もそっちの道みたいです」
……はい?
振り向くと、彼は片手にスマホを持ち、マップアプリの画面と目の前の景色を交互に見比べている。
「友達から送られてきた住所、この坂を上がっていく感じなんですよね」
「……そ、そうですか」
そこから先は、無言のパレードだった。
静かな住宅街。カツン、カツンと二人の足音が重なる。
等間隔に並ぶ街灯のオレンジ色の光が、私たちの影を長く伸ばしては縮める。
どこかの家から漂ってくる、夕飯のカレーの匂いと、焼き魚の匂い。
いつもならホッと安心する地元の生活感ある匂いも、今はまったく頭に入ってこない。
なぜか、彼は私の隣を歩き続けている。
私が角を右に曲がれば、彼も右に曲がる。
細い路地に入れば、彼もその後ろをついてくる。
(嘘でしょ。完全にうちのルートなんだけど)
心臓が、早鐘を打つ。
これはどういう状況だ。偶然にしては出来すぎている。
まさか、彼が私の家を知っている? いや、それはない。私はただの一ファンで、今日初めて言葉を交わしただけの人間だ。
じゃあ、ストーカー?
いやいや、相手はあの『献血王子』だ。そんなわけがない。
横目で彼を盗み見る。
マスク越しの横顔は、スマホの画面と周囲の表札を真剣に見比べながら、普通に歩いているだけだ。
「この辺、静かでいい街ですね」
不意に、彼が口を開く。
そのトーンがあまりにも自然で、私は変に意識しすぎている自分が馬鹿らしくなってくる。
「あ……はい。住みやすいですよ。スーパーも近いし」
「へえ、いいな。俺の住んでるところ、夜中まで車の音がうるさくて」
生活感のある、ただの世間話。
会話のキャッチボールが、ポンポンと小気味よく続く。
不思議な感覚だった。
隣を歩いているのは、間違いなく私が熱狂している『推し』だ。
なのに、交わしている言葉の温度は、ずっと昔から知っている近所の幼馴染のような、変な心地よさがあった。
でも、それも長くは続かない。
目の前に、見慣れた角が見えてきたからだ。
もうここを曲がれば、私の家がある。
「あの、私、ここ曲がったところなので」
この先は細い道の先にうちの家があるだけだ。さすがにここでおわかれだろう。
今日一番の勇気を振り絞って、彼に向き直る。
「今日は、色々とありがとうございました。気をつけて――」
言葉の途中で、私は息を呑んだ。
歩みを止めた彼が、スマホの画面から顔を上げ、私の顔をみつめていたからだ。
「……えっと」
彼がマスクを少しだけずらし、不思議そうな顔で私を見る。
そして、スマホの画面を私の方へ向けて、ポツリと呟いた。
「ここ……だよね?」




