パート1:『逃げた先にも、推しがいる』
逃げなきゃ。
その一心で、改札機に交通系ICカードを叩きつけるようにタッチする。
『ピッ』という無機質な音が、今の私にはスタートを知らせるピストルのように聞こえた。
エスカレーターを駆け上がり、阪急神戸三宮駅のホームへと飛び出す。
夕暮れのオレンジ色と、等間隔に並ぶ蛍光灯の白い光が混ざり合う空間。線路から漂う独特の鉄の匂いが鼻を突く。
早く電車に乗って、家の布団にダイブしたい。
そして、今日起きたバグみたいな出来事を、全部「夢だった」というフォルダにぶち込みたい。
息を切らしながら、扉の位置を示す足元のマークを探す。
列の最後尾を見つけ、小走りで向かおうとした――その時。
視界の端で、夕日を弾く眩しい色が揺れた。
ピタリと足が止まる。
数メートル先の列の最後尾。スマホの画面を熱心に覗き込んでいる、背の高い黒パーカーの人物。
目深に被ったキャップから覗く、派手な金髪。
(……なんでッ!?)
心の中で、思い切り絶叫する。
嘘でしょ。彼の方が先に改札を入ったはずだ。特急ならもう発車している時間じゃないのか。
なぜ、まだホームにいる。
踵を返して、別の車両の列に並び直そうとした瞬間。
「まもなく、十三行きが到着します」というアナウンスが響き渡った。
その音に反応したのか、彼がふと顔を上げる。
キャップのつばの下、黒い瞳が周囲を見渡し――そして、完全に私を捉えた。
「あ」
マスク越しでも分かるくらい、パッと表情が明るくなる。
彼が列から少しだけはみ出し、こちらへ向かって軽く手を振る。
逃げ場、ゼロ。
私は引きつった愛想笑いを顔面に貼り付け、ロボットのようなぎこちない歩みで彼に近づく。
「さっきは、どうも」
「本当に奇遇ですね。まさかホームでまた会えるなんて」
屈託のない笑顔。
さっきまで『外国人観光客』を装っていた時の緊張感はどこへやら、完全に声のトーンが『白瀬恒一』のそれに戻っている。
「い、いえ……あの、電車、乗ってなかったんですね」
声が震えないように、お腹にぐっと力を入れる。
「あー……売店でバッテリー買ってたら、一本乗り過ごしちゃって。俺、本当にドジで」
恥ずかしそうに頭を掻く仕草。
ちょっと抜けている。推しが、私の目の前でポンコツな一面を晒している。
脳内の処理速度が限界を迎えそうだ。
プァーン、と独特の警笛を鳴らしながら、マルーンカラーの美しい車体がホームへ滑り込んでくる。
プシューッと扉が開き、降りる客を待ってから車内へ足を踏み入れる。
夕方の帰宅ラッシュが始まりかけている車内は混雑していて、座席はすべて埋まっている。
私たちは自然な流れで、ドア横のスペースに並んで立つことになった。
近い。
物理的な距離が、絶望的に近い。
電車の揺れに合わせて、彼の黒いパーカーの袖が、私のカーディガンの肩に触れそうになる。
フワリ、フワリと、あの清潔な柔軟剤の香りが波のように押し寄せてくる。
(これ、推しと同じ空気を吸って、同じ電車の揺れを感じてるってことだよね……?)
窓ガラスに映る、並んで立つ二人の姿。
どう見ても、ただの知り合いか、カップルだ。
心臓がバクバクと暴れ回り、息の仕方が分からなくなる。
「すごい人ですね。休日はいつもこんな感じなんですか?」
彼が少し身をかがめ、私の耳元に近い位置で声を落として尋ねてくる。
その声の響きだけで、膝から崩れ落ちそうになる。
「あ、はい……夕方は、特に」
「そっか。なんか、こういう普通の電車に乗るの、久しぶりで新鮮かも」
(そりゃそうでしょうね! あなた普段はキラキラの芸能人みたいなスケジュール送ってるんだから!)
内心で激しくツッコミを入れながら、私は必死に平常心を装う。
「あの、用事ですか? その、観光、とかではなくて……」
探りを入れるように、でも自然な世間話を装って尋ねる。
彼はつり革に掴まったまま、少しだけ目を丸くして、ふふっと笑った。
「友達の家にね、ちょっと教えてもらいたいことがあって」
「教えてもらう、ですか」
「うん。俺、ゲームとか全然ダメなんだけど、その友達がすっごく上手くて。今日はその特訓」
ゲーム。
その単語に、ほんの少しだけ違和感を覚える。
献血王子と、ゲーム。
SNSでもそんな発信は一度も見たことがない。彼のプライベートな領域に、意図せず触れてしまったような気がして、ドクンと胸が鳴る。
「どこまで帰るんですか?」
不意に、彼から質問が飛んでくる。
「えっと……この路線の、王子公園駅です」
私が地元の駅名を口にした瞬間。
彼の目が、驚いたように見開かれた。
「えっ」
「……どうか、しましたか?」
「いや、奇遇だなと思って。俺も、その駅で降りるんです」
ガタン、と電車が大きく揺れる。
偶然だ。ただの偶然。
同じ沿線に住んでいるか、用事がある人が同じ電車に乗っているだけ。
でも、なぜだろう。
窓に映る彼の横顔を見つめながら、私の胸の奥で、得体の知れない不安と、絶対に認めたくない『期待』が入り混じって膨らみ始めていた。




