パート3:『そして、点と線が繋がる』
薄暗い高架下の通路を抜けると、不意に視界が開ける。
阪急神戸三宮駅の東口コンコース。
天井から降り注ぐ白い蛍光灯の光が、夕暮れの街から切り離されたような無機質な明るさを放っている。
行き交う人々の波、構内アナウンスの反響音、そして改札機を通り抜けるICカードの『ピッ』『ピピッ』という電子音が、一定のリズムで鼓膜を叩く。
「ここまで来れば、もう大丈夫です」
改札の少し手前、人の流れの邪魔にならない柱の影で足を止める。
振り返って彼を見上げると、彼もまたピタリと歩みを止めた。
「あの改札を入って、エスカレーターを上ればすぐホームです。次に来る電車に乗れば一番早いですから」
事務的な案内を口にしながら、私は内心で(早く帰って、お願いだから早く行って)と祈っていた。
これ以上一緒にいたら、私の心臓が持たない。
脳内で増幅し続ける『彼=推し』というあり得ない仮説を、これ以上検証したくない。
「わざわざすみません。本当に助かりました」
彼は改札の眩しい光を背に受けて、深く、丁寧に頭を下げる。
その深くお辞儀をするシルエットすらも、先ほど献血センターで見た『彼』と重なって見えてしまう。
「いえ、私もたまたま同じ方向だっただけなんで。じゃあ、気をつけて」
逃げるようにそう言い残し、踵を返そうとした瞬間。
「あの」
引き留めるような声に、思わず動きが止まる。
頭を上げた彼と、真正面から向き合う形になる。
黒いキャップのつばの下。前髪の隙間から覗く、真っ黒で、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳。
「気をつけて帰ってくださいね」
少しだけ首を傾げて、マスク越しでも分かるほど柔らかく微笑む。
息が止まる。
周囲の雑踏の音が、スッと遠のいた。
間違いない。
世界中の誰が何と言おうと、この声、この瞳、この間の取り方は――。
「あ……はい」
喉がカラカラに乾いて、裏返ったような変な声が出る。
彼はそんな私の不審な態度にも気づかず、ひらひらと長い指で手を振りながら、改札の中へと向かっていく。
『ピッ』という短い電子音と共に、彼の広い背中が改札の向こう側へと吸い込まれる。
エスカレーターに乗り、黒いパーカーが人混みに紛れて完全に見えなくなるまで、私は一歩も動けなかった。
コンコースを行き交う人々の波に取り残されたまま、私は壁際に背中を預ける。
ズルズルとしゃがみ込みそうになるのを必死に堪え、震える手でジーンズのポケットからスマホを取り出した。
パスコードを打ち込む指が、自分でも引くくらい震えている。
SNSのアプリを開き、検索窓に震える指で『献血王子』と打ち込む。
一番上に表示されたのは、つい三十分ほど前に更新されたばかりの、今日のイベントの公式写真。
『本日は三宮でのイベント、ありがとうございました!』
そんな爽やかなテキストと共にアップされているのは、白いシャツに身を包み、清潔感のある黒髪を少しだけ風に揺らしている彼の姿。
画面の中の彼は、誰が見ても非の打ち所のない、完璧な『王子様』だ。
私はその顔のアップ画像を、じっと見つめる。
そして、脳内で先ほどの金髪の青年の姿を重ね合わせる。
黒髪を、派手な金髪に変換する。
目深に黒いキャップを被せる。
顔の下半分を、大きな黒マスクで覆い隠す。
残ったのは、あの三日月のように下がる目元と、真っ直ぐな瞳だけ。
「…………」
一致。
完全一致。
寸分の狂いもなく、ピタリとはまる。
声も、身長も、歩き方も、優しい言葉の選び方も。
すべてが、一つの答えを指し示している。
「嘘、でしょ……」
口から漏れた声は、雑踏のノイズにかき消された。
スマホを握る手に、じわりと嫌な汗が滲む。
金髪の迷子は。
ヤンキーみたいな格好をした、声の似ている別人なんかじゃない。
私がついさっきまで、遠くから眺めて尊いと拝んでいた。
推し、本人だった。
「いや無理なんだけど……ちょっと待って、今のなし」
誰にともなく呟いた言葉は、虚しく宙に消える。
私、推し本人に「阪急はあっちです」とかドヤ顔で道案内したの?
しかも、「私と同じ方向なんで」とか言って、隣歩いちゃったの?
頭の中で、警報音がけたたましく鳴り響いている。
『推しは遠くにいるべき』という私の確固たる信仰が、根底から音を立てて崩れ去っていくのを感じながら。
私は逃げるように、彼が消えたのと同じ改札へとICカードを叩きつけた。




