パート2:『金髪のヤンキー、声だけは王子様』
心臓が、肋骨を内側から強く蹴り上げた。
バクン、という大きな音を脳内で聞きながら、私は必死に表情筋を引き締める。
ただの他人の空似。声が似ているだけの別人。
そうだ、世の中には声がそっくりな素人がモノマネ番組に出るくらいだ。奇跡的な確率で、声帯と笑い方の癖が一致した金髪のヤンキー(仮)が目の前にいるだけ。
「あ、えっと……阪急、ですよね」
声が上ずらないように、お腹にぐっと力を入れて紡ぎ出す。
「はい。あっちの方向……で合ってます?」
彼が黒いパーカーの袖から長い指をのぞかせ、私がこれから帰ろうとしていた方向とは真逆――ポートライナーの駅がある海側を指差す。
「逆です。それだと完全に海の方に行っちゃいます」
「うわ、本当だ。全然違う」
彼がマスク越しでも分かるくらい、目を丸くして肩を落とす。
その少し抜けた反応に、つい警戒心が緩んでしまう。
「今、JRの高架下から阪急に向かう道、工事で一部塞がってて。少し迂回しないといけないんです。すごくややこしくて」
「え、そうなんですか。どうりでさっきから同じ場所をぐるぐる回ってる気が……」
「私も同じ方向なんで……よければ、途中まで案内しますよ」
口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
普段の私なら、絶対に「あっちです」と指を差して逃げるように立ち去るはずだ。見知らぬ、しかもこんなに目立つ金髪の男性に自ら同行を申し出るなんて。
でも、道に迷って本気で困っている人を見ると、どうしても放っておけない。
「本当ですか。すごく助かります」
パッと花が咲くように、彼が再び目元を緩める。
その瞬間、またしても鼓膜の奥で『献血王子』の声が再生され、私は慌てて踵を返した。
「こっちです」
歩き出す私の横に、彼が自然な動作で並ぶ。
その途端、ふわっと微かに甘い香りが鼻をかすめた。
香水のようなツンとした匂いじゃない。太陽の光をいっぱい吸い込んだタオルみたいな、清潔な柔軟剤の香り。
距離が、近い。
横目で盗み見ると、彼の肩幅の広さと、長い脚が嫌でも視界に入る。
歩幅が全然違うはずなのに、私の歩くスピードに合わせて、彼がゆっくりと足を踏み出しているのが分かる。
「今日は、人が多いですね」
歩きながら、彼がポツリとこぼす。
雑踏のノイズに掻き消されそうな声量なのに、その低くて甘い響きは、不思議なくらい鼓膜にスッと届く。
「週末ですしね。あ、駅の近くでイベントもあったみたいで」
「イベント?」
「はい。近くの献血センターで、ちょっとした催しがあって」
「へえ。献血、いいですね」
相槌を打つその声。
『いいですね』の、語尾の優しく下がるトーン。
ぞわっと、背筋を電流が駆け上がる。
……おかしい。
どう考えてもおかしい。
視界に映っているのは、ダボついた服を着た金髪の不審な青年。
なのに、耳から入ってくる情報が、完全に『白瀬恒一』なのだ。
脳の処理が追いつかず、視覚と聴覚の強烈なバグに眩暈がしそうになる。
「この辺りは、よく来るんですか」
彼が私の方へ少しだけ顔を傾ける。
「大学が近いので。でも、三宮の駅って地下も地上も複雑だから、迷いますよね」
「そうなんですよ。親切な方に案内してもらえて、本当に運が良かったです」
言葉選び。
初対面の相手に対する、丁寧で、押し付けがましくなくて、相手を気遣うようなトーン。
ポンポンと返ってくる会話のリズムが、やけに心地いい。
初めて話す背の高い男性なんて、普通なら緊張してうまく息もできないはずなのに、不思議と肩の力が抜けていく。
「そんな、ただの通り道なんで」
謙遜して笑うと、彼も「ふふっ」と笑う。
まただ。
目尻が下がって、三日月のような形になる瞳。
私はギュッと、右手に持ったクリアファイルを握りしめる。
視線を前に戻し、薄暗い高架下の通路へと足を踏み入れる。
オレンジ色の古い照明が、一定の間隔で私たちの影をアスファルトに落としては消していく。
ダメだ、意識しちゃいけない。
もし彼が本当に推し本人だとしたら?
いやいや、イベントが終わった直後に、わざわざ金髪のウィッグ(だよね?)を被って、こんなストリート系の服に着替えて出歩く理由がない。
それに、推しがこんな普通にその辺を歩いていて、私なんかに道を聞くわけがない。
私の中の『常識』が、必死に警報を鳴らし続ける。
でも。
この歩幅の合わせ方。
声のトーン。
笑った時の、目元のシワの寄り方。
匂い。
脳内で、バラバラだった無数のパズルのピースが、カチ、カチッと音を立ててはまり始めていく。
その完成図から目を逸らすように、私はただひたすらに、前だけを見て歩き続けた。




