パート1:『金髪の迷子は、推しの声で笑う』
推しは、遠くにいるからいい。
画面の向こうで、笑ってくれればそれでいい。
――そう思ってたのに、隣にいた。
春の名残と初夏の匂いが混ざり合う、五月の風。
夕暮れ時の神戸・三宮は、いつにも増して圧倒的な熱量に包まれている。
行き交う車の低いエンジン音、高架上を滑るように走るJRの走行音、そして鼓膜を揺らす無数の話し声。
駅前の巨大な交差点に立つ私の頬を、生ぬるい空気が撫でていく。
「ふふっ……」
マスクの下で、だらしない笑みが漏れるのを止められない。
私の右手には、さっき受け取ったばかりのノベルティのクリアファイル。
指の腹で、ツルツルとしたプラスチックの表面を何度もなぞる。そこには、白いシャツを着て優しく微笑む青年の写真がプリントされている。
『献血王子』こと、白瀬恒一。
彼が一日店長を務める献血センターのイベントが終わった直後。
私の心臓は、まだトクトクと普段より少し早いリズムを刻み続けている。
画面越しで見ていたあの柔らかい笑顔は、現実『リアル』だと致死量の破壊力を持っていた。
一人ひとりの目を見て、両手でノベルティを手渡す姿。
『来てくれて、ありがとう。気をつけて帰ってね』
直接かけられたその声が、鼓膜にへばりついて離れない。
幼い頃の事故で輸血によって命を救われ、今は自ら献血の輪を広げるために活動している彼。その真っ直ぐで誠実な姿に惹かれてファンになったけれど、実物は想像を絶するほどキラキラしていて――圧倒的に『遠い存在』だった。
住む世界が違う。
だからこそ、安心して推せる。
私みたいな平凡な人間は、観客席の端っこからステージの上の彼に拍手を送っているくらいがちょうどいい。自分が主役になるなんて、考えただけで息が詰まる。
うん、私は生粋の脇役『モブ』だ。それでいい。それがいい。
ホクホクとした多幸感に包まれながら、赤信号を見上げる。
早く家に帰って、今日の尊い記憶を脳内ハードディスクに永久保存しなければ。
トントン、と。
不意に、右肩を軽く叩かれる。
「……ん?」
ビクッと肩を揺らし、振り返る。
視界に飛び込んできたのは、夕日を弾く眩しいほどの金髪。
目深に被った黒いキャップ。顔の半分以上を覆い隠す、大きな黒マスク。
全身を黒系のストリートファッションでまとめたその人物は、身長158センチの私より、頭一つ分以上高い位置からこちらを見下ろしている。
え、待って。
距離、近くない?
威圧感のあるシルエットに、一瞬で警戒ランプが点滅する。
三宮は観光客が多い。この目立つ金髪、そしてこの高身長。
脳が瞬時に一つの結論を叩き出す。
(外国人観光客、だッ!)
どうしよう。道を聞かれる。絶対に道を聞かれる。
頭のサイレンが鳴り響く。
私の英語力は、中学二年生の二学期で完全に時を止めているのだ。
ハロー?
エクスキューズミー?
アイ・アム・ア・ペン?(いや違う)
パニックを起こした脳内で、必死にアルファベットの羅列を組み当てようとする。
黒マスクの金髪男性が、少しだけ首を傾げる。
前髪の隙間から、黒い瞳が私をじっと見つめている。
ぎゅっとクリアファイルを握りしめ、覚悟を決めて口を開きかける。
「あの、すみません」
……へ?
耳に飛び込んできたのは。
驚くほど流暢な、いや、完璧な発音の日本語。
「阪急の駅って、どっちに行けばいいですか」
張り詰めていた空気が、プシューと音を立てて抜けていく。
私はぽかんと口を開けたまま、瞬きを二、三回繰り返す。
なんだ。日本人か。
いや、それよりも。
(……この声)
低くて、耳障りが良くて、どこか甘い響き。
ぞわっと、腕の産毛が逆立つような感覚が走る。
この声のトーン。この、相手を安心させるような柔らかい間の取り方。
さっきまで、何度も何度も頭の中で反芻していた声と、ピタリと重なる。
いや、まさか。
私は慌てて、目の前の人物を足元から頭の先までスキャンする。
ダボっとした黒のカーゴパンツ、オーバーサイズのパーカー。そして、この派手な金髪。
さっき献血センターにいた、白シャツに黒髪の清楚な推しとは、一億光年くらいかけ離れたビジュアルだ。
「あ、えっと……」
私が言葉に詰まっていると、彼は困ったように目元をふにゃりと曲げる。
「スマホの充電が切れちゃって、完全に迷子になっちゃいました」
そう言って、短く「ふふっ」と笑う。
目尻が下がって、三日月のような形になる瞳。
ドクン。
心臓が、肋骨を内側から強く蹴り上げた。




