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推しの献血王子がなぜか家に通ってくるんだけど、距離が近すぎてもう好きになるしかない  作者: はりねずみの肉球
第2章:同じ帰り道の違和感

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パート1:『送信ボタンと、鳴り響く足音』

ラジオから流れる砂嵐のような静寂が、私の部屋を支配していた。

イヤホンを外し、暗闇の中に放り出す。

頬を伝った涙の跡が、春の夜風に当たって冷たく張り付いている。


『僕は、その人の温度が伝わる距離にいたい』


彼の言葉が、呪文のように頭の中で反復される。

私は何をしていたんだろう。

彼が「王子様」の鎧を脱いで、一人の人間として私の隣に座ろうとしていたのに、私はその温もりを「正しくない」と切り捨てて、彼を再び孤独な光の中へと追い返した。


(モブのままでいいなんて、嘘だ。私は……)


私は震える手で、床に転がっていたスマホを拾い上げた。

眩しい光に目を細めながら、十日間止まったままのトーク画面を開く。

下書きのままの「ごめんね」をすべて消去し、代わりに、今、一番伝えたい言葉だけを打ち込んだ。


『恒一さん。明日の午後、もしお仕事がなかったら、うちに遊びに来ませんか。』


指が、送信ボタンの上で止まる。

一度送ってしまえば、もう二度と「ただのファン」という安全な場所には戻れない。

私は、彼の隣を歩く一人の人間として、彼と向き合うことになる。


(……怖くても、いい)


目を瞑り、親指に力を込める。

トクン、という音と共に、メッセージが暗闇を越えて彼へと飛んでいった。


数秒。数十秒。

心臓の鼓動が耳元で鳴り響き、時間が永遠に引き延ばされたかのように感じる。

既読がつくのを待つのも怖くて、私はスマホを裏返してシーツに押し付けた。


すると。

間髪入れずに、スマホが激しく震えた。


「っ……!」


慌てて画面を見る。

既読がついている。そして、彼からの返信。


『今から、そっちに行ってもいい?』


「……え?」


時計を見る。深夜二時半を回っている。

『今から』? 彼は何を言っているんだろう。

混乱する私の指が、勝手に返信を打っていた。


『え、でも、こんな時間に……』


『どうしても、声が聞きたい。一分だけでいいから、近くに行かせて』


その必死な響きに、私の思考は完全にホワイトアウトした。

私はパジャマの上に厚手のカーディガンを羽織り、素足にサンダルを引っ掛けて、音を立てないようにそっと部屋を抜け出した。


リビングを通り、玄関のドアを開ける。

四月の夜気は、まだ少しだけ肌寒い。

坂道に等間隔に並ぶ街灯が、オレンジ色の光で住宅街を静かに照らしていた。


角を曲がった、いつもの待ち合わせ場所。

そこには。


「……まりちゃん」


ハァハァと、肩を揺らして息を切らしている彼が立っていた。

タクシーで駆けつけたのか、それとも近くのスタジオから走ってきたのか。

黒いパーカーのフードを深く被り、メガネが少しだけ曇っている。

その姿は、テレビで見せる完璧な王子様からは程遠い、なりふり構わない一人の青年の姿だった。


「恒一、さん……」


私は駆け寄ろうとして、彼から数歩離れた場所で立ち止まった。

街灯の光の下、私たちは長い影を伸ばして見つめ合う。

あの日以来の、再会。


「ごめん。こんな時間に、迷惑だよね。でも、まりちゃんからのメッセージ見たら、どうしても……」


彼はそこまで言って、言葉を詰まらせた。

メガネを外し、少しだけ潤んだ瞳で私を見つめる。


「俺、怖かったんだ。もう二度と、まりちゃんに会えないんじゃないかって。嫌われちゃったんだと思って、ずっと、どうすればいいか分からなくて……」


彼の声が、夜の静寂の中で震えている。

あの日、私に向けられたあの傷ついた瞳。

それを今、彼は剥き出しのまま私の前に晒していた。


「違います! 私、嫌いになったわけじゃなくて……」


私は一歩、彼の方へ踏み出した。

コンクリートを踏みしめるサンダルの音が、自分でも驚くほど力強く響く。


「怖かったのは、私の方なんです。恒一さんのことが、好きになりすぎて……ファンっていう距離を超えてしまうのが、怖かっただけなんです」


告白だった。

夜の闇を味方にして、私は自分の臆病な本音をすべて曝け出した。

恒一さんは目を見開き、息を呑む。


「……本当に?」


「はい。最低な態度取って、傷つけて、ごめんなさい。私、もう逃げません。ファンじゃなくて……まりとして、恒一さんと向き合いたいんです」


言い切った瞬間、視界が熱くなった。

自分でも気づかないうちに、ずっと止まっていた呼吸が深く、大きく動き始める。


恒一さんは数秒間、呆然と私を見つめていた。

やがて。

彼はゆっくりと歩み寄り、私の目の前で立ち止まった。


フワリと、懐かしい、あの柔軟剤の香りが私を包み込む。

彼は大きな手を伸ばし、私の頬に伝う涙を、親指で優しく拭った。


「……俺も、同じだよ」


耳元で、甘くて、少しだけ掠れた声が響く。


「白瀬恒一っていう名前じゃなくて、ただの俺として。まりちゃんの隣に、いたかった」


彼の手が、私の肩を抱き寄せる。

厚手のカーディガン越しに伝わってくる、彼の体温。

トクン、トクンと、二つの心臓の音が重なり合い、夜の静寂と同化していく。


推しは遠くにいるべきだと思っていた。

でも今、私の腕の中にいるのは、手の届かない星なんかじゃない。

私を求め、私に傷つき、私を温めてくれる、たった一人の大切な人。


「……恒一さん」


「恒一でいいよ。……まりちゃん」


私たちは、オレンジ色の街灯の下で、静かに、でも確かな熱を持って寄り添い続けた。

境界線を越えた先の世界は、あの日見たタルトの色よりも、ずっと鮮やかで温かい光に満ちていた。

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