パート2:『下書きのままの「ごめんね」』
深夜二時。
暗い部屋の中で、スマホのバックライトだけが私の顔を青白く照らしている。
枕元に放り投げたはずなのに、数分おきに手が勝手にそれを探り当ててしまう。
指が、彼とのトーク画面をなぞる。
最後に彼から届いたのは、十日前の短い一言。
『わかった。課題、無理せず頑張ってね』
その文字の並びを見つめるだけで、喉の奥がキュッと締め付けられ、熱い塊がせり上がってくる。
「……バカみたい。本当に」
乾いた声が、静かな部屋に落ちる。
私は震える指でメッセージ入力欄をタップする。
文字を打つフリックの音だけが、耳障りなほど大きく響く。
『恒一さん、ごめんなさい。あんな態度、ひどすぎました』
……消す。
こんなの、今さら送られても困るだけだ。
『あの日はちょっと余裕がなくて……本当は、嫌いになったわけじゃないんです』
……これも消す。
「嫌いになったわけじゃない」なんて、そんな消極的な言葉で何を伝えたいのか。
私は、画面に映る自分の情けない顔を睨みつける。
『本当は、怖かっただけなんです。恒一さんのことが、好きすぎて』
……ッ!
心臓が跳ねる。
慌てて、バックスペースキーを連打してその一文を消去した。
誰にも見られていないはずなのに、顔から火が出そうになる。
認めてしまった。下書きの中でさえ、私は自分の本音に耐えられない。
スマホを裏返し、シーツの上に突っ伏す。
暗闇に目を凝らすと、あの日、彼が座っていたソファの輪郭がぼんやりと見える。
柔軟剤の香りも、タルトの甘い匂いも、もうすっかり消えてしまったのに。
目を閉じれば、驚くほど鮮明に彼の顔が浮かんでくる。
「まりちゃん、すごい人なんだね」
あの、熱を帯びた、吸い込まれそうな瞳。
「推し」としてではなく、「一人の女の人」として私を定義した、あの特別な響き。
それを拒絶したのは私だ。彼が手を伸ばしてくれたのに、その手を振り払い、安全な観客席へと逃げ込んだ。
(……あ。そうだ、今日)
ふと思い出し、私は再びスマホを手に取る。
金曜日のこの時間は、彼が月一でゲスト出演している深夜のラジオ番組の放送日だ。
いつもなら、海斗と一緒にリビングで「いい声すぎるでしょ」なんて言い合いながら聴くのに。
私は震える手でアプリを立ち上げ、イヤホンを耳に突っ込んだ。
数秒のロード時間の後、滑り込んできたのは、聴き慣れた、大好きな、でも今はひどく遠く感じるあの声。
『――そうですね。僕も、最近は自分の「居場所」について考えることが多いです』
不意に耳に届いた彼の言葉に、息が止まる。
ラジオ越しの声は、いつも通り穏やかで、誠実で、完璧だ。
でも、どこか。
どこか、フィルターを通したような薄い膜を感じる。
『自分を遠くに置きたいと思う人もいれば、近くにいたいと思う人もいる。どちらが正しいかなんてわからないけれど……僕は、その人の温度が伝わる距離にいたいなって、そう思いますね』
「…………っ」
イヤホンから流れる彼の声が、鼓膜を震わせ、胸の奥を激しく揺さぶる。
それは、私へのメッセージなのだろうか。
それとも、ただの一般的な話なのだろうか。
自意識過剰だと言い聞かせても、涙が溢れて止まらない。
彼はいつだって、全力で私と向き合おうとしてくれていた。
金髪で変装して道に迷ったあの日から。
海斗がいなくてもうちにケーキを運んできてくれた、あの午後まで。
彼は「王子様」の仮面を脱いで、一人の「白瀬恒一」として私に触れようとしていたのに。
私はイヤホンをむしり取り、スマホを床に置いた。
何も聞こえなくなった部屋は、耐え難いほど静かだ。
(……このまま、終わっちゃうのかな)
既読がついたままのトーク画面。
更新されない週末の予定。
彼はもう二度と、この家を訪れてはくれないかもしれない。
私は膝を抱え、暗闇の中で小さく震える。
距離は近いのに。同じ神戸の空の下にいて、同じ夜を過ごしているのに。
心だけが、光も届かない宇宙の果てですれ違ってしまったような、絶望的な孤独。
窓の外、阪急電車の線路の方から聞こえる遠い走行音が、サヨナラと言っているように聞こえて、私は毛布を頭から被った。




