パート1:『既読がつかない週末』
金曜日の、午後八時。
いつもなら海斗の部屋から賑やかな実況の声が漏れ、リビングには『誰か』を待つ、そわそわとした甘い空気が漂っている時間。
けれど今の我が家は、しんと静まり返っている。
聞こえるのは、冷蔵庫の低い唸り音と、加湿器が吐き出す頼りない蒸気の音だけだ。
私はソファの端に膝を抱えて座り、暗い画面のままのスマホをじっと見つめている。
(……一週間。一度も、鳴らない)
指先で画面を叩く。バックライトが点灯し、眩しい青白い光が網膜を刺す。
メッセージアプリの最上部には、私が最後に送った『課題に集中したいので、しばらく大丈夫です』という、氷のように冷たい一文。
その横には、既読のマークがついたまま。
彼からの返信は、ない。
「……はぁ」
肺の奥に溜まった澱を吐き出すように、長く、重い息が漏れる。
自業自得だ。私が望んだことだ。
推しを遠ざけ、安全な距離まで後退した。これで私は、もう彼に振り回されて心臓を壊すことも、勘違いをして惨めな思いをすることもない。
完璧な防衛。完璧な勝利。
なのに、どうしてこんなに指先が冷たくて、胸の奥がひりひりと焼けるように痛いんだろう。
ガチャリ、とリビングのドアが開く。
スウェット姿の海斗が、空のペットボトルを片手に現れる。
目が合う。けれど海斗は、一瞬だけ私を軽蔑するような冷たい目で見据えると、無言でキッチンへ向かった。
「……海斗」
「なに」
背中を向けたまま、海斗が低く答える。
氷を砕くような、刺々しい声。
「恒一さん、今日は……」
「来るわけないじゃん」
海斗が勢いよく振り返る。その瞳には、隠そうともしない怒りが滲んでいる。
「俺がメッセージ送っても、『しばらく忙しいから行けない』って一行だけ。姉ちゃんがあんな態度取ったんだから、当たり前でしょ」
「それは……だって、彼は忙しい人なんだし」
「忙しい合間を縫って、わざわざここに来てたんだよ、あの人は。姉ちゃんに会うためにさ」
「海斗、それはあんたの勝手な思い込みで――」
「思い込みなのは、姉ちゃんのその『推し』っていう逃げ道の方だろ」
海斗が、空のペットボトルをゴミ箱に投げ捨てる。ガコン、と不快な音が響く。
「恒一さん、あの日、玄関でなんて言ったか知ってる? 『俺、まりちゃんに嫌われちゃったかな』って。あんなに悲しそうな顔、見たことねーよ」
「…………」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。
嫌われたかな、なんて。そんなの、反則だ。
嫌いになれるわけがない。好きすぎて、自分の形が崩れてしまいそうで、だから必死に守っただけなのに。
「もういいよ。俺、部屋戻るから。姉ちゃんは一生、その安全な『観客席』でスマホ眺めてなよ」
海斗はそれだけ言い残すと、私を一度も見ることなくリビングを出て行った。
バタン、というドアの閉まる音が、決定的な拒絶のように鼓膜に突き刺さる。
一人になったリビング。
私は逃げるようにSNSを開く。
検索窓に、彼の名前を入れる。
『献血王子、最新インタビュー!』
『白瀬恒一、新CM発表会での笑顔が神すぎる』
流れてくるのは、いつも通りの、光り輝く彼の姿。
画面の中の彼は、大勢のカメラの前で、完璧な『王子様』の微笑みを浮かべている。
その目元に、あの日私が見せた冷たさの影なんて、微塵も感じられない。
(……あ。この笑顔)
ふと、違和感に指が止まる。
何度も、何度も画面をスクロールして、彼の最新の写真を拡大する。
ファンなら一目で分かる。
口角は上がっている。目も細められている。
でも。
私だけが知っている、あのふにゃりと崩れるような、体温の滲む本物の笑顔じゃない。
(嘘……)
画面が、滲んで見えなくなる。
私が、彼の光を奪ってしまった。
私が、彼をただの『完璧な人形』に戻してしまった。
「……バカだ。私、本当に、バカだ……」
膝の間に顔を埋める。
部屋の温度は、あの日彼とタルトを食べた時と変わらないはずなのに。
どうしようもなく寒くて、震えが止まらない。
会いたい。
今すぐ、その名前を呼びたい。
でも、何を伝えればいい?
『推し』だなんて言葉で逃げていた、臆病な私の本音を、彼は今さら受け取ってくれるだろうか。
既読のつかないスマホを握りしめたまま、私は暗い部屋で、ただ一人の週末を耐え続けていた。
窓の外では、夜景が他人事のようにキラキラと瞬いている。
その光の一つひとつが、今の私には、届かない星のように遠く感じられた。




