パート2:『逃げ道と、弟の鋭い視線』
「……そっか。ごめん、無理に話しかけて」
少しだけ掠れた彼の声が、静かなリビングに落ちる。
傷ついたように伏せられた長いまつ毛。私から少しだけ距離を取るように、彼が一歩後ろへと下がる。
その小さな後退が、私の心臓をナイフのように深くえぐった。
(違う。恒一さんは何も悪くない。悪いのは、勝手に期待して勝手に壁を作ってる私なのに)
喉の奥で言葉が閊える。
弁解したい。いつものように笑い合いたい。でも、ここで私が一歩を踏み出せば、もう二度と『ファン』という安全な場所には戻れない。
私はギュッと唇を噛み締め、パソコンの画面に視線を固定したまま、ただ無言で耐え続けた。
「……お待たせー。俺、トイレ長くてさ」
重苦しい沈黙を破るように、ドアが開いて海斗が戻ってきた。
彼はのんきな声で言いながらも、部屋に入った瞬間にピタリと足を止める。
空気を読むのが異常に早い弟の視線が、私と恒一さんを交互に素早く行き来する。
「……あれ、恒一さん、どうかした?」
海斗の問いかけに、恒一さんはハッとしたように顔を上げ、すぐにいつもの柔らかい、けれどどこか作り物めいた笑顔を浮かべた。
「ううん、何でもないよ。でも海斗くん、ごめん。俺、急に仕事の連絡入っちゃって……今日はこれで帰るね」
「え? マジで? まだ一時間くらいしかやってないじゃん」
「ごめんね、また今度ゆっくり」
恒一さんはソファに置いてあった黒いキャップを手に取り、足早に玄関へと向かう。
仕事の連絡なんて、嘘だ。さっきまで彼のスマホは一度も鳴っていなかった。
彼を追い返したのは、間違いなく私のあの態度だ。
「……お見送り、します」
絞り出すような声で立ち上がった私を、彼が振り返らずに手で制した。
「大丈夫。課題、忙しいんでしょ。まりちゃんも無理しないでね」
その言葉の温度は、恐ろしいほど平坦だった。
ガチャリ、と玄関のドアが開き、そして静かに閉まる。
いつもなら残るはずの柔軟剤の甘い香りも、今日ばかりは冷たい空気と共に外へと吸い出されてしまったようだった。
パタン、という微かな残響音だけが、耳の奥で何度もリフレインする。
「……姉ちゃん」
不意に、背後から低い声が降ってきた。
振り返ると、海斗が腕を組み、壁にもたれかかりながら私をじっと見据えていた。
いつもおちゃらけている弟の、その底冷えするような真剣な眼差しに、私はビクッと肩を跳ねさせる。
「な、なに。私、課題やらないと……」
「白々しいこと言ってんじゃねーよ。画面、ずっとスリープ状態のままじゃん」
海斗が、私の開いたままのノートパソコンを顎でしゃくる。
真っ黒な画面に、情けない顔をした自分の姿が反射していた。
「……ッ」
「何したの。恒一さん、あんな顔で帰ったことないんだけど」
「別に、何もしてない」
「何もしてないのに、あんなお通夜みたいな空気になんの? 姉ちゃん、今日入ってきた時からずっと態度おかしいし。完全に恒一さん避けてたっしょ」
弟の鋭い指摘に、息が詰まる。
海斗はゲームバカだけど、人の機微を読み取る能力は昔から異常に高い。対戦相手の心理を読み切るその観察眼を、まさかこんなところで自分に向けられるなんて。
「……避けてない。ただ、推しとファンだから、ちゃんと距離をわきまえようって思っただけで」
「は?」
海斗が、心底呆れたように大きなため息をつく。
「推しだのファンだの、いつまでそんなくだらないこと言ってんの。恒一さんは、姉ちゃんに会いに来てんでしょ」
「ち、違う! あれはあんたにゲーム教わりに来てる流れで……」
「馬鹿か。俺が不在の日にわざわざケーキ買ってうちに来る奴が、ただのゲーム仲間なわけないだろ。あんなの、誰がどう見たって姉ちゃん目当てじゃん」
ズバッと切り捨てられた言葉が、私の急所を正確に貫く。
分かっている。本当は、私だってとっくに気づいている。
でも、それを認めてしまったら、私が私でいられなくなる。
「姉ちゃんさ」
海斗が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
そして、逃げ場を失った私を見下ろし、冷たく、だが確かな重みを持った声で言い放った。
「推しだから無理、とか言って。ただ自分が傷つくのが怖くて、逃げてるだけじゃん」
「……っ!」
図星だった。
完全に、言い当てられていた。
住む世界が違う。彼は光り輝く芸能人で、私はただの大学生。
もし本当に恋をして、勘違いして、そしていつか捨てられたら。
その時、私は『推し』という大切な光まで一緒に失ってしまうことになる。
それが怖くて、私は自分から彼を遠ざけたのだ。彼を傷つけてまで。
反論の言葉が見つからない。
私が俯いたまま何も言えずにいると、海斗はチッと小さく舌打ちをして、自分の部屋へと戻っていった。
静まり返ったリビングに、一人取り残される。
彼から逃げ切ったはずのこの安全な場所は、どうしようもなく冷たくて、広くて、息が詰まるほど寂しかった。
テーブルの上に残された、手つかずの二つの麦茶のグラス。
表面についた水滴が、涙のようにツゥーっと滑り落ちていくのを、私はただぼんやりと見つめ続けていた。




