パート1:『既読をつけない指先と、よそよそしい温度』
光るスマホの画面。
ロック画面の中央に浮かび上がった『白瀬恒一』の文字を、私はもう十分以上、ただじっと見つめ続けていた。
『今週末、海斗くんの特訓なんだけど、まりちゃんも一緒にどうかな? この前の続き、やりたいな』
その短いテキストの奥に、彼のあの柔らかい声と笑顔が自動再生される。
画面に触れようとした親指が、空中でピタリと止まる。
(ダメだ。返信しちゃ、ダメ)
私はギュッと目を閉じ、スマホをベッドの隅へと放り投げた。
あの夜、心臓が爆発しそうになった至近距離の接触から、私は自分の中に一つの強固なルールを設定した。
『推しは、絶対に遠くに置くこと』。
これ以上、彼との距離を縮めてはいけない。
彼が私に向ける優しさは、ただのファンサービスか、弟の姉に対する気まぐれな親愛だ。そこに変な期待を持てば、いつか必ず痛い目を見るのは私の方だ。
だから、私は徹底的に『ただのファン』であり『ゲーマーの姉』という安全圏のモブキャラを演じ切らなければならない。
放り投げたスマホが、再びブルッと震える。
見ない。見ないぞ。
私は耳を塞ぎ、無理やり意識を別の方向へと向けた。
* * *
日曜日。
結局、返信を数時間遅らせて「私は見学しておきますね」とだけ送った私の思惑などお構いなしに、恒一さんは我が家のリビングにやってきた。
「こんにちは、まりちゃん。今日もよろしくね」
玄関で靴を脱ぎながら、彼がふにゃっと目尻を下げる。
その眩しい笑顔に心臓がギュッと締め付けられるが、私は顔の筋肉を総動員して、鉄壁の『営業スマイル』を作り上げた。
「いらっしゃいませ、恒一さん。海斗はリビングで待ってますので、どうぞ」
「……えっ?」
私の完璧すぎる敬語と、一歩引いたお辞儀。
恒一さんが、少しだけ目を丸くして動きを止める。
(いらっしゃいませ、はちょっとやりすぎたか……? いや、これくらい壁を作らないとダメだ)
私は彼と目を合わせないまま、そそくさとキッチンへと逃げ込んだ。
リビングからは、海斗と恒一さんのゲームの音が響いてくる。
私は冷たい麦茶をグラスに注ぎ、お盆に乗せてリビングへ向かった。
「お茶、置いておきますね」
ローテーブルの端、恒一さんから一番遠い位置にグラスを置く。
いつもなら、ここで「ありがとう」と笑い合うか、そのまま隣のソファに座ってゲームの画面を覗き込むところだ。
でも今日の私は、グラスを置くと同時にクルリと踵を返した。
「あ、まりちゃん」
背中越しに、彼が声をかけてくる。
「一緒にやらない? 今日、まりちゃんがこの前使ってたキャラ、俺も練習してきたんだよね」
少しだけ期待を含んだような、甘いトーン。
その声に引き寄せられそうになる足を、床に力一杯踏ん張って止める。
「いえ、私は今日はちょっと……大学の課題があるので。お二人で楽しんでください」
振り返らずにそう告げると、背後の空気が、ほんの少しだけピンと張り詰めたのが分かった。
「……そっか。邪魔してごめんね」
彼の声のトーンが、数度下がる。
胸の奥がズキリと痛む。でも、これでいい。これでいいんだ。
私はそのままダイニングテーブルの椅子に座り、ノートパソコンを開いた。
画面の文字なんて一つも頭に入ってこない。
背中越しに感じる、彼の気配。
時折聞こえる海斗の笑い声と、それに答える恒一さんの声。
いつもより、彼の口数が少ない気がする。笑い声も、どこか硬い。
(……気まずい)
キーボードを叩くふりをしながら、私は内心で冷や汗を流していた。
あからさまに距離を取りすぎただろうか。
でも、中途半端な態度は彼を勘違いさせる(いや、勘違いしているのは私の方だ)。
カチャッ。
コントローラーをテーブルに置く音がした。
「海斗くん、ごめん。ちょっと休憩してもいい?」
「あ、はい。俺、トイレ行ってきます」
海斗が立ち上がり、リビングを出ていく足音がする。
途端に、部屋の中に静寂が落ちた。
パソコンの冷却ファンの音だけが、やけに大きく響く。
背後から、衣擦れの音がした。
ソファから立ち上がった恒一さんが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる気配。
トクン、トクンと、心拍数が跳ね上がる。
彼が、私のすぐ斜め後ろで立ち止まった。
フワリと、あの柔軟剤の香りが漂ってくる。
「……まりちゃん」
頭上から降ってきた声は、いつもより低く、そして、どこか傷ついたような響きを帯びていた。
「俺、何かしたかな」
キーボードの上に置いた私の指先が、ビクッと跳ねる。
顔を上げられない。画面を見つめたまま、必死に息を整える。
「……え? 何がですか?」
「今日、ずっと目合わせてくれないし。……敬語だし」
彼の声が、すぐ近くで揺れる。
一歩、彼が距離を詰めてくる。
肩越しに、彼の体温を感じるほどの近さ。
「そ、そんなことないですよ。ちょっと課題が忙しくて、余裕がないだけで……」
言い訳をしながら、私は反射的に椅子ごとジリッと後ろへ下がった。
物理的な距離を取る。
彼から逃げるように。
その私の行動に。
恒一さんが、ハッと息を呑む気配がした。
「……そっか。ごめん、無理に話しかけて」
声が、震えていた。
たまらず顔を上げると、そこには、いつもの柔らかい笑顔なんて欠片もない、ひどく傷ついたような、戸惑いの表情を浮かべた彼がいた。
胸が、張り裂けそうだった。
私が彼を傷つけている。私の一番大好きな人を。
『ごめんなさい、違うんです』と叫び出したい衝動を、私は血が滲むほど唇を噛み締めて、必死に喉の奥へと押し殺した。




