パート2:『気まずくない沈黙と、本当の理由』
海斗のいないリビングは、いつもよりずっと広く感じる。
ダイニングテーブルを挟んで、私と恒一さんが向かい合って座っている。
テーブルの中央には、彼が買ってきてくれた真っ白な箱。開けると、宝石のように艶やかなイチゴが乗ったタルトが二つ並んでいた。
「うわぁ……これ、三宮の駅前でいつも行列できてるお店のですよね」
「うん。この前、まりちゃんが甘いもの好きだって言ってたから。並んでみた」
さらりと爆弾を落とす。
推しが、私のために、行列に並んだ?
脳の処理が追いつかず、フォークを持つ手がピタリと止まる。
「恒一さん、そんな目立つところで並んだらパニックになりません……?」
「帽子深く被ってたし、全然平気だったよ。それに、美味しいって聞いてたから俺も食べてみたくて」
彼はふにゃっと笑い、自分のタルトにフォークを入れる。
一口食べて「ん、うまっ」と目を丸くするその表情は、テレビやSNSで見せる『完璧な王子様』の顔じゃなく、ただのスイーツ好きな男の子の顔だった。
私も一口食べる。甘酸っぱいイチゴと、濃厚なカスタードクリームの味が口いっぱいに広がる。
美味しい。でも、心臓の音がうるさすぎて、味が半分くらいしか分からない。
いつもなら、ここで海斗が「俺の分は?」と騒ぎながらゲームの電源を入れる。
でも今日、テレビのモニターは真っ黒なままだ。
ゲームがない。弟がいない。
つまり、私たちを繋ぐ『口実』が、この空間には一切存在していない。
(話題、振らなきゃ。沈黙になったら気まずすぎる)
必死に頭を回転させようとする私をよそに、恒一さんはゆっくりとコーヒーの入ったマグカップに口をつける。
「まりちゃんは、大学ではどんな勉強してるの?」
彼の方から、自然なトーンで質問が飛んできた。
「あ、えっと……文学部なので、今は近代文学の研究とかを……」
「へえ、すごい。俺、本は好きだけど読むの遅くて。最近何か面白い本あった?」
押し付けがましくない、でも心から興味を持っているのが伝わる声色。
気がつけば、私は自分が最近読んだ小説の話や、大学の少し変わった教授の話を口にしていた。
恒一さんは「うんうん」と相槌を打ちながら、時折おかしそうに声を上げて笑う。
彼もまた、撮影現場でのちょっとした失敗談や、相変わらずの方向音痴ぶりを話してくれた。
「この前も、スタジオのトイレから戻ろうとして、全然違う階の会議室開けちゃってさ」
「ええっ、それ絶対怒られるやつじゃないですか」
「すっごい気まずかった。お偉いさんみたいな人がズラって並んでて」
二人の笑い声が、静かなリビングに重なる。
息を吸うタイミング、可笑しいと感じるツボ。それが、なぜかパズルのピースのようにピタリと合う。
私がツッコミを入れると、彼は目尻を下げて嬉しそうに笑う。
ふと、会話が途切れた。
西日が差し込み始めたリビングが、ゆっくりとオレンジ色に染まっていく。
壁掛け時計の、カチ、カチという秒針の音だけが響く。
(あ、沈黙……)
焦って何か言葉を探そうとしたけれど。
マグカップを両手で包み込みながら、窓の外の夕焼けをぼんやりと眺めている恒一さんの横顔を見て、スッと肩の力が抜けた。
気まずくない。
普通、初対面に毛が生えた程度の相手と二人きりで無言になれば、息が詰まるような緊張感が生まれるはずだ。
でも、彼と共有するこの沈黙には、不思議なほどの『凪』の温度があった。
ただ同じ空間で、同じ時間を流しているだけで心地いい。
(推しといるのに、どうしてこんなに安心するんだろう)
彼は遠い存在だ。画面の向こうの、キラキラした光。
でも今、私の目の前でタルトの欠片を口に運んでいる彼は、体温があって、柔軟剤の匂いがして、少し抜けていて。
『白瀬恒一』という、一人の血の通った男の人だった。
やがて、窓から差し込む光が少しずつ赤みを増し、影が長く伸び始めた頃。
彼は「ごちそうさま」と小さく手を合わせ、立ち上がった。
「急に来ちゃってごめんね。すごく楽しかった」
「いえ……私も、美味しかったです。タルト」
二人で玄関へと向かう。
私がドアを開けると、生ぬるい初夏の夕風がフワリと入り込んできた。
彼はスニーカーに足を通し、踵をトントンと鳴らす。
「じゃあ、また」
彼が外に出る。
私も「気をつけて」と頭を下げ、ドアを閉めようとした、その時。
くるりと。
彼が振り返り、ドアノブに手をかけた私の目を、真っ直ぐに捉えた。
西日を背に受けたその瞳が、ビー玉のように透き通って光っている。
「……あのさ」
「はい」
「また、来ていいかな」
少しだけ、声が低くなった。
私は瞬きをする。
「海斗は、明日の夕方には帰ってくるので。明後日とかなら、ゲームの特訓できると……」
「違うよ」
私の言葉を遮るように、彼が一歩、近づく。
玄関のわずかな段差。彼が私を見下ろす形になる。
夕日を背負った彼の顔に影が落ちて、表情がうまく読み取れない。
「海斗くんがいなくても」
静かな、でも絶対に聞き逃せない響き。
「俺、まりちゃんに会いに来てもいい?」
ドクン。
心臓が、今日一番の大きな音を立てて肋骨を叩いた。
息が止まる。
時が止まる。
彼の黒い瞳の奥に、呆然と立ち尽くす私の姿が映っている。
『まりちゃんに、会いに来てもいい?』
その言葉の意味を、私の脳が必死に解読しようとする。
ゲームを教わるためじゃない。
弟に用があるからでもない。
ただ、私に会いに来る。
(――ああ、そっか)
私は、ようやく気づいてしまった。
彼がうちにやって来る理由。
いや、彼が私を見つめる、その視線の奥にある熱の正体に。
「……っ」
声が出ない。
ただ、微かに震える私の反応を見て、彼はふわりと、いつもの三日月目の笑顔に戻った。
「また、連絡するね」
それだけを言い残し、彼は夕暮れの住宅街へと歩き出していった。
長く伸びた彼の影が角を曲がって見えなくなるまで、私は玄関のドアを握りしめたまま、一歩も動くことができなかった。
推しは遠くにいるべきだ。
でも、どうしよう。
彼の歩幅は、もう私の日常のすぐ隣まで、踏み込んできてしまっている。




