パート1:『弟不在の来訪者』
五月の風が、少しずつ夏の気配を含み始めた週末の午後。
実家のリビングは、嘘のように静まり返っていた。
いつもなら、モニターに向かって叫ぶ弟の声や、派手なゲームの電子音が響いているはずの空間。しかし今日、海斗は大学のサークルの合宿とやらで、一泊二日で家を空けていた。
私はソファに寝転がり、ぼんやりと天井の木目を数えていた。
静かだ。平和だ。
モブの日常としては完璧な休日の過ごし方のはずなのに、なんだか胸の奥がソワソワと落ち着かない。
ブーッ。
ローテーブルに置いていたスマホが、短く振動した。
画面に表示されたメッセージの送信者名を見て、心臓がトクンと大きく跳ねる。
『白瀬恒一』
先週、あの献血センターでの再会から数日後。
「海斗くんとゲームの連絡取るついでに」という、絶対に建前だと分かる理由で連絡先を交換してしまったのだ。
通知をタップする指が、ほんの少しだけ震える。
『今日、海斗くん合宿でいないんだっけ?』
画面に表示された文字を読み、私はホッと息を吐いた。
ああ、なんだ。海斗の予定の確認か。
ゲームの特訓ができないから、今日の訪問はなし、ということだろう。
少しだけ肩から力が抜けたような、でも、胸の奥にチクリとした小さな痛みが走ったような、複雑な感情を飲み込んで返信を打つ。
『はい。明日の夕方まで帰ってこないです。なので、今日の特訓はお休みですね』
送信ボタンを押す。
推しは遠くにいるべき。これでいい。これが正しい距離感だ。
スマホをテーブルに置き、テレビのリモコンに手を伸ばそうとした、その時。
画面が再び明るくなり、即座に返信が届いた。
『そっか。じゃあ、まりちゃんは家にいる?』
……え?
思考が停止する。
『私』がいるかどうか?
「いますけど」と打とうとして、指が止まる。いや、待って。海斗がいないのに、私がいるかどうかを聞く理由はなんだ。
『暇してるんで、いますよ』
できるだけ素っ気なく、平常心を装った文面を送る。
すると、数秒後に画面に現れた文字は、私の脳内を完全にパニックへと陥れた。
『よかった。じゃあ今から、遊びに行ってもいい?』
「……はぁっ!?」
変な声がリビングに響き渡った。
遊びに行く? うちに? 海斗がいないのに?
意味が分からない。そもそも、彼がうちに通い始めた理由は「海斗にゲームを教わるため」だったはずだ。それなら、海斗がいない日にわざわざ来る必要なんてない。
なのに、どうして。
『ケーキ買ったから、一緒に食べよう』
追撃のように送られてきたメッセージと、可愛らしいウサギがケーキを持っているスタンプ。
私は頭を抱えた。
断る理由がない。いや、そもそも推しが「ケーキを買って家に来る」という致死量のイベントを、オタクが断れるわけがないのだ。
『……お待ちしてます』
震える指でそう返信した直後から、私の地獄の戦いが始まった。
まずはリビングの掃除。海斗が脱ぎ散らかした靴下を洗濯カゴにぶち込み、テーブルの上の雑誌を揃える。
次に洗面所に駆け込み、鏡の前で自分の顔を凝視する。
(部屋着のパーカーはヤバい。せめて、ちょっとだけマシな服に……!)
クローゼットを漁り、少しだけ襟元の開いたブラウスに着替える。やりすぎ感が出ないように、ボトムスは普段通りのデニム。
髪をブラシで梳かし直し、ほんの少しだけリップを塗る。
「私、何やってるんだろう……」
鏡の中の、明らかにそわそわしている自分を見て、自己嫌悪に陥る。
推しは遠くにいるべきだと言いながら、いざ彼が来るとなれば、こんなにも必死になって見栄えを気にしている。
時計の針が、ゆっくりと進む。
約束の時間まではあと十分。
ソファに座ってみたり、立って窓の外を見てみたり、落ち着きなくリビングをうろうろする。
心拍数はさっきからずっと異常値を叩き出している。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った瞬間、ビクゥッと肩が跳ねた。
来た。
大きく深呼吸をして、玄関へと向かう。ドアノブを握る手に、じわりと汗が滲む。
ガチャリ、と重いドアを開ける。
「こんにちは。急にごめんね」
初夏の明るい日差しを背に受けて立っていたのは、白いオーバーサイズのシャツに身を包んだ彼だった。
手には、お洒落なケーキ屋さんの小さな紙袋。
マスクはしておらず、あのズルい三日月目の笑顔が、私に真っ直ぐ向けられている。
「あ、い、いえ……わざわざ、すみません」
「まりちゃん、なんか顔赤いけど大丈夫? 風邪?」
「ちがッ! 暑いだけです! さあ、上がってください!」
顔から火が出そうになりながら、私は逃げるように彼をリビングへと案内した。
ぎこちない私の態度にも気づかず、彼は「お邪魔します」と丁寧にお辞儀をして、我が家へと足を踏み入れた。
フワリと、あの柔軟剤の香りが玄関を満たす。
海斗がいない、私と彼だけの空間。
その絶対的な『違和感』に、私はどう対処していいのか全く分かっていなかった。




