パート1:『顔、近すぎて思考止まるやつ』
海斗が「ちょっとコンビニ行ってくる」と財布だけを掴んで外に出て行ってから、約五分。
リビングには、私と恒一さんの二人だけが取り残されている。
「あ、またコースアウトした」
私が持っているコントローラーが、ブルブルと短く振動する。
テレビのモニターの中では、私の操るカートが無惨にも壁に激突していた。
『マリ王』として覚醒したあの配信以来、恒一さんは本当に「まりちゃんのプレイが見たい」という理由で、海斗の特訓の合間に私とも一緒にゲームをするようになった。
今は二人で、オンラインのタッグマッチに挑んでいる真っ最中だ。
「まりちゃん、今日はちょっと調子悪い?」
隣から、耳障りの良い低音が降ってくる。
ソファに並んで座る私たちの間には、クッション一つ分の隙間もない。
彼が身を乗り出して画面を見るたびに、黒いパーカーの袖が私の肩に微かに触れる。
そのたびに、あの清潔な柔軟剤の香りがフワリと鼻をかすめ、私の集中力を容赦なく削いでいく。
(調子悪いっていうか、あなたが近すぎてゲームどころじゃないんですけど!)
心の中で絶叫するが、もちろん口には出せない。
私はそっと、本当に少しだけ、お尻をずらして彼から距離を取ろうとする。
しかし、ゲームの画面に夢中になっている彼は完全に無自覚で、私が離れた分だけ「ここ、難しいよね」と身を寄せてくる。
逃げ場がない。
「……ちょっと、手元が狂っちゃって」
言い訳をしながら、何とか体勢を立て直そうとスティックを弾く。
しかし、意識が隣の彼に持っていかれているせいで、普段なら絶対にしないような操作ミスを連発してしまう。
次の鋭角なカーブ。
あ、曲がりきれない。
そう思った瞬間だった。
「――まりちゃん、そこは」
不意に、彼の声が耳のすぐ横で響いた。
左肩越しに、彼がスッと身を乗り出してくる。
テレビ画面を覗き込む彼の顔が、私の顔の真横、ほんの数センチの距離に迫る。
「ヒャッ!?」
変な声が出た。
私の視界の端を、彼の綺麗な横顔と、さらりと流れる黒髪が覆い尽くす。
画面よりも、彼の顔の方が近い。
彼が言葉を発するたびに、微かな吐息が私の頬を撫でる。
「……ここ、こうした方がいいかも」
彼が、私の手元のコントローラーを指差す。
その手が、私の手に触れそうになる。
頭の中が、真っ白に飛んだ。
テレビから流れていたポップなゲームのBGMが、急速にフェードアウトしていく。
エアコンの微かな駆動音も、外を走る車の音も、すべてが遠のく。
世界から音が消え、ただ一つ、私の狂ったような心拍音だけが、鼓膜の内側をガンガンと叩き続けている。
近い。
近すぎる。
これは、画面の向こうのアイドルと、観客席のファンの距離じゃない。
ただの友達でも、ここまで顔を近づけたりしない。
「……って」
不意に、彼がピタリと動きを止めた。
そのままの距離で、ゆっくりと顔だけをこちらに向ける。
至近距離で、真っ直ぐな黒い瞳と視線が絡み合う。
彼の長いまつ毛の影までが、くっきりと見える。
息を吸うことすら忘れて、私は石像のように固まることしかできない。
彼の目が、少しだけ見開かれる。
そして、ほんの少しだけ頬を朱色に染めて、気まずそうに目元を下げた。
「……あ、ごめん、近かった?」
その一撃で、私のHPは完全にゼロになった。
ズルい。そんな顔で、そんな甘い声で聞かれたら、心臓が爆発してしまう。
これはもう、『推しが尊い』なんていう安全圏からの感情じゃない。
もっと生々しくて、息が詰まるような――。
「ち、近ッ! 近いです! パーソナルスペースの侵害です!」
私は弾かれたように体をのけ反らせ、ソファの端まで一気に距離を取った。
声が裏返りまくっているのが自分でも分かる。
「うわっ、ご、ごめん! 俺、ゲーム見るとつい夢中になっちゃって……」
恒一さんも慌てて身を引き、両手を顔の前で振って弁解する。
その少し抜けた反応に、極限まで張り詰めていた空気がプシューと抜けていくのを感じた。
「……もう、びっくりするじゃないですか」
私は真っ赤になっているであろう顔を隠すように、モニターへと視線を戻す。
画面の中では、私のキャラクターがとっくにコースアウトして、最下位を逆走していた。
「あはは、まりちゃん最下位になっちゃった。ごめんね、俺が邪魔したせいで」
彼が、申し訳なさそうに、でもどこか楽しそうに笑う。
その笑い声を聞いて、私はホッと安堵の息を吐くと同時に、胸の奥が激しく混乱しているのを自覚していた。
(どうしよう)
推しが、私の隣で笑っている。
その事実が嬉しくて、安心する自分と。
この近すぎる距離に、これ以上耐えられそうにない自分がいる。
安全な防波堤が、少しずつ、でも確実に決壊していく音が聞こえていた。




