パート1:『日常の交差点と、成分献血』
あの狂乱の生配信バトルから、数日が過ぎた。
SNSでは見事に『マリ王』がトレンド入りを果たし、私の知らないところで切り抜き動画が大量生産され、弟のチャンネル登録者数は爆増した。
当の私はといえば、大学の講義をこなし、スーパーで特売の卵を買い、実家でひっそりと息を潜めるという、圧倒的『モブ』の日常へと帰還していた。
(……思い出すだけで、顔から火が出そう)
木曜日の午後。
全休で時間が空いた私は、神戸・三宮のセンタープラザを歩いていた。
アーケードから差し込む初夏の陽射しと、行き交う人々の活気。地下に広がる飲食店街から漂ってくる、ソースや出汁の入り混じったB級グルメの匂い。
そんな喧騒を抜け、エレベーターで上の階へと昇る。
チーン、と静かな音が鳴り、ドアが開く。
そこは、さっきまでの熱気が嘘のような、白を基調とした清潔で穏やかな空間。
『三宮センタープラザ献血ルーム』。
私がここに来るのは、数ヶ月に一度の密かなルーティンだ。
別に立派な志があるわけじゃない。ただ、誰かの役に立てるかもしれないという小さな自己満足と、何よりここの『居心地の良さ』が好きだから。
「こんにちは。本日はご予約されていますか?」
受付に進むと、淡いピンク色の制服を着たスタッフさんが、花が咲くような笑顔で迎えてくれる。
「あ、はい。アプリで予約してます」
「ありがとうございます。では、こちらの端末で問診をお願いしますね」
案内されるまま、タッチパネルを操作する。
血圧を測り、温かいお茶の入った紙コップを受け取る。ここのスタッフさんは本当にみんな優しくて、言葉の端々から「来てくれてありがとう」という気遣いが伝わってくる。そのホスピタリティに触れるだけで、日常のささくれが少しだけ削り取られていく気がする。
問診と血液検査を終え、採血室に呼ばれるまでの間、広々とした待合ラウンジのソファに腰を下ろす。
無料の自動販売機でホットココアのボタンを押し、紙コップから立ち上る甘い湯気にホッと息をついた。
「あれ、まりちゃん?」
不意に。
横から、聞き慣れた、でもここ数日ずっと頭の中でリフレインしていた低くて甘い声が降ってきた。
ビクッと肩が跳ね、持っていた紙コップの中身が波打つ。
恐る恐る顔を上げると、一つ隣のソファに、彼がいた。
「こ、恒一さん……ッ!?」
今日は金髪のウィッグも黒マスクもしていない。
黒縁の伊達メガネに、シンプルなネイビーのサマーニット。変装というよりは「休日のオフスタイル」といった感じで、それでも隠しきれない圧倒的なオーラがそこにはあった。
「やっぱり。まりちゃんも献血に来たんだね」
彼が、嬉しそうに目元をふにゃりと下げる。
あの配信の日、彼に呆れられたんじゃないかとずっと不安だった。でも、目の前の恒一さんは、いつもの『献血王子』の優しい顔で私を見つめている。
「あ、はい……たまに、来るんです。恒一さんも、プライベートで?」
「うん。俺は『成分献血』だから、結構頻繁に来てるんだ」
「成分献血、ですか」
私が首を傾げると、恒一さんは少しだけ体をこちらに向け、嬉しそうに説明を始めた。
「そう。血小板とか血漿っていう、特定の成分だけを機械で取り出して、赤血球は体に戻すやり方。普通の全血献血より時間はかかるんだけど、体への負担が軽いから、次の献血までの期間が短くて済むんだよ」
彼の声には、熱がこもっていた。
誰かに教えられたセリフじゃなく、彼自身の経験と知識に基づいた、血の通った言葉。
「へえ……知らなかったです。じゃあ、恒一さんはずっとそれを?」
「うん。俺、事故の時にたくさん輸血してもらったから。少しでも多く返したくて」
メガネの奥の黒い瞳が、優しく、でも強い意志を持って瞬く。
(ああ、やっぱりこの人は、本物だ)
ただのキャラクター作りなんかじゃない。
『命を繋ぐこと』に対する、圧倒的な執着と誠実さ。
画面越しに見ていた彼の本質に、こんなに間近で触れられていることが、不思議でたまらなかった。
「……コーイチさん」
不意に、私を呼ぶ声が聞こえたような気がして、ハッとする。
いや、違う。誰も呼んでいない。
ただ、私の中の『ファン』としての境界線が、また一歩、彼の方へと踏み出してしまっただけの音だ。
「まりちゃんは、今日は全血?」
「あ、はい。400ミリの予定です」
「そっか。終わったら、あそこのお菓子一緒に食べようよ。ここのルーム、ドーナツとかもあるからさ」
彼が指差した先には、種類豊富なお菓子が並ぶコーナーがある。
推しと、献血ルームで、お菓子を食べる。
字面にするだけで脳がバグりそうな状況に、私の心臓はまたしても早鐘を打ち始めた。
「白瀬さまー、採血室へどうぞ」
奥から看護師さんの明るい声が響く。
「あ、呼ばれた。じゃあ、また後でね」
恒一さんは軽く手を振り、採血室へと向かっていく。
その背中を見送りながら、私は自分の頬が熱を帯びているのを自覚していた。
『マリ王』として完全に終わったと思っていたのに。
こんな風に自然に、私の日常の領域に彼が入り込んでくるなんて、予想もしていなかった。




