第9話 東へ
七月四日。
午前五時四十六分。
◇
《リレントレス・ウルフ》本部前。
まだ街が動き始める前から、六頭の洞ラバを囲んで外部ポーター達が最後の積載確認を行っていた。
「三号、九十二」
「四号、九十八」
「五号、九十五」
「二号、左が下がってる。食料袋を三センチ上げろ」
「これですか?」
「それ。それじゃ上げすぎだ。少し戻せ」
「……三センチって、そんなに変わるんですか?」
レオンが革紐を緩めながら聞いた。
「歩けば分かる」
「俺が?」
「ラバがだ」
外部ポーターの男はそう言うと、今度は六号の右後脚へ触れた。
脚、腹、背。最後に荷紐へ指を入れ、締まり具合を確かめる。
「六号、右後脚が少し熱い。十キロ落とす」
「一号と四号に五ずつ回します」
「頼む」
レオンが積載表を見る。
「でも六号、まだ百キロいってませんよ?」
「知ってる」
「なら、まだ積めますよね?」
「積める」
男が立ち上がった。
「積める。歩ける。帰ってこられる。全部違う」
「……はい」
「覚えとけ」
◇
洞ラバ。
ダンジョンでの長距離輸送に使われる家畜である。
暗所や階段、悪路への適応力が高く、一頭でおよそ百キロの荷物を運ぶ。
今回、《リレントレス・ウルフ》が用意したのは六頭。
単純計算なら、六百キロ。
「飼料、これで最後です!」
「六号に積むな!」
「なんでです?」
「こいつの飯だ!」
「あ」
もっとも、六百キロすべてを人間のために使えるわけではない。
洞ラバも食べる。
六頭、六日間。飼料だけで百四十四キロになる。
人間の食料と水。治療薬。魔術触媒。野営用品。予備装備。
遠くへ行くために運搬力を増やせば、その運搬力を維持するための荷物も増える。
長距離遠征では、何を持っていくかと同じくらい。
何を持っていかないかが重要になる。
◇
午前五時五十八分。
「外部ポーター、全員確認」
「馭獣担当、二名」
「医療職、確認しました」
「測量担当」
「います」
「記録官」
「こちらです」
パウエルが名簿を確認していく。
「潜航者」
「全員います」
「緊急石」
「全員携行。予備二個」
「よし」
その様子を、少し離れた場所からダリルとコウハが見ていた。
コウハの手には、一枚の紙。
「最終予算が出た」
「いくらだ?」
「五百十二金貨」
ダリルの表情が止まった。
「……五百十二か」
「ああ」
◇
今回の東部遠征。
最終予算、五百十二金貨。
一般的な労働者が三十五年以上働いて、ようやく得られる金額である。
外部ポーターと馭獣担当の人件費。保険。緊急石。治療薬。魔術触媒。食料。飼料。そして、予備装備。
その多くは、それ自体では一金貨の利益も生まない。
だが、一つ欠ければ。
帰ってこられないかもしれない。
「削れるか?」
ダリルが聞いた。
「何を?」
コウハの返事は、それだけだった。
「……そうだな」
ダリルは遠征隊を見る。
創立三年目。
借入残高、三千金貨。
五百十二金貨は、《リレントレス・ウルフ》にとって失敗して笑える金額ではない。
それでも彼らは、この遠征を決めた。
理由は単純だった。
何も賭けなければ。
何も得られない。
◇
午前六時十三分。
「出発!」
パウエルの声で、一行が動き始めた。
潜航者。
外部ポーター。
医療職。
測量担当。
国家派遣の記録官。
そして、六頭の洞ラバ。
今回、我々の取材班も彼らに同行する。
目指すのは、第十層東部。
年内に成果を出すため、《リレントレス・ウルフ》が選んだ未開拓領域である。
この時。
彼らはまだ知らない。
この遠征が。
創立三年目の小さなギルドにとって、大きな転機になることを。
◇
午前八時二十一分。
第四層。
「休憩十五分! 洞ラバ確認!」
「水分取れ!」
人間達が壁際へ腰を下ろす。
洞ラバにも水が与えられた。
しかし、馭獣担当の二人は座らない。
一号から順番に、脚、腹、背、荷擦れを確認していく。
「三号、左が擦れてる」
「布入れます」
「頼む」
レオンが横から覗き込んだ。
「休憩のたびにやるんですか?」
「やる」
「毎回?」
「毎回だ」
「大変ですね」
「死んでから見るより楽だろ」
「……それはそうですね」
男が三号の背へ保護布を挟む。
「次、四号」
「俺やります」
「見方分かるのか?」
「分かりません」
「堂々と言うな」
「だから教えてください」
「……触れ」
レオンがしゃがみ込んだ。
新人、レオン。十九歳。
入社した時、彼が希望していたのは前衛だった。
それから数か月。
今、彼は洞ラバの背中を触っていた。
「そこじゃない」
「ここ?」
「もう少し上」
「ここ?」
「違う。貸せ」
「難しくないですか、これ」
「だから俺達が金もらってんだよ」
外部ポーターの男が笑った。
剣を振る者だけでは、遠征は成立しない。
百キロ近い荷物を載せた一頭を、目的地まで歩かせる者。
食料を管理する者。
地図を書く者。
怪我人を治す者。
そして、そのすべてを記録する者。
ダンジョンが産業になった今。
潜航とは、多くの仕事によって支えられている。
◇
午前十一時三十六分。
第八層。
「前方、オーク三!」
隊列が止まった。
◇
午前十一時四十一分。
「出るぞ!」
五分後。
遠征隊は再び歩き始めた。
討伐、三。負傷者、ゼロ。
消費した魔術触媒、二。治療薬、使用なし。
洞ラバ六頭、異常なし。
ここまでの道は、彼らにとって未知ではない。
何度も歩き、何度も戦い、何度も帰ってきた場所。
オーク三体との戦闘すら。
この日の彼らにとっては、わずか五分の仕事だった。
◇
午後三時十二分。
第十層。
ここまでの道には、人がいる。
潜航者が歩き、ポーターが荷物を運ぶ。壁には過去の潜航者達が残した印があり、休憩地点も退避場所も給水地点も地図に記されている。
十五分後。
測量担当が足を止めた。
「ここです」
分岐だった。
左は、潜航者達が日常的に使う通常ルート。
右は。
東部。
レオンが右側を見る。
石壁も、床も、天井も変わらない。
だが。
人が歩いた跡だけが、明らかに少ない。
「記録を開始します」
国家派遣の記録官が記録票を開く。
「七月四日、午後三時二十八分。《リレントレス・ウルフ》第十層東部調査、開始」
パウエルが右へ曲がった。
後ろから、一行が続く。
この先にも地図はある。
過去に踏み入った者もいる。
だが、詳細な調査記録は急激に少なくなる。
そして。
ここから先は。
同行する我々のレポーターにとっても、初めて見る場所になる。
◇
午後五時四十二分。
東部、二・三キロ。
「今日はここまで。野営地を作る」
「了解!」
洞ラバから荷が下ろされる。
野営場所の安全を確認し、寝床を作る。水と食料を配り、夜間警戒の順番を決める。
初日の新規発見、なし。
負傷者、なし。
予定行程、ほぼ予定通り。
五百十二金貨を投じた遠征の一日目は。
何も起きなかった。
だが。
長距離遠征において。
何も起きない一日は。
悪い一日ではない。
彼らの初日は。
ここで終わった。
◇
翌朝。
午前六時二十分。
野営地を片付けた一行は、再び東へ向かった。
初日と違い、ここからは進むほどに情報が少なくなる。
地図に線はあっても、その先に何があるのか。
現場にいる彼らには、分からない。
◇
午前九時十一分。
東部、三・八キロ。
最初に変化が現れたのは、壁だった。
石を覆う苔。
それ自体は珍しいものではない。
だが、東へ進むにつれて。
その面積は確実に増えていった。
◇
午前十時四十七分。
四・六キロ。
次に現れたのは、蔓だった。
天井から垂れ、壁を這い、ところどころで床にまで伸びている。
石だけだった迷宮に。
少しずつ。
緑が増えていく。
◇
午後零時十九分。
五・二キロ。
「……木?」
レオンが足を止めた。
石壁の亀裂から、太い根が伸びている。
ミアがしゃがみ込む。
しかし。
触れない。
「採らないんですか?」
同行レポーターが尋ねた。
「まだ」
ミアは根を観察したまま答える。
「何か分からないので」
◇
未調査区域で新しいものを見つけた時。
最初に行うのは。
採取ではない。
観察。
記録。
周辺環境の確認。
未知の植物が有毒である可能性もある。魔力に反応する可能性も、何らかの魔物と共生している可能性もある。
価値があるかどうかを調べる前に。
まず。
生きて持ち帰れるものなのかを調べる。
新規資源の発見とは。
見つけた瞬間に成立するものではない。
◇
一行は、さらに東へ進んだ。
一本だった根が増えていく。
苔が広がり、蔓が壁を覆い、やがて石の床に土が混じり始める。
迷宮そのものが。
少しずつ姿を変えていた。
◇
午後二時三十三分。
東部、六・二キロ。
ここで。
彼らの前から。
石造りの迷宮が消えた。
「……すげえ」
レオンが立ち止まる。
「これは……」
同行レポーターも、その先を見上げた。
巨大な空間。
高い天井。
岩盤の隙間から落ちる水。
地面には土があり、草が生え、その奥には何十本もの木が立っている。
「地下に、森があるんですね……」
地下森林。
ダンジョン内部で独自の植生が形成される例は、これまでにも確認されている。
しかし、第十層東部について残されていた調査資料に。
この森林の詳細な記録はなかった。
東部入口から、六・二キロ。
《リレントレス・ウルフ》は。
ここで一つ。
地図へ書き加えるものを見つけた。
だが。
彼らが求めていたものは。
これではない。
◇
「勝手に触るなよ」
パウエルが声を掛ける。
「見たことがないものは採らない。食わない」
「食べませんよ」
レオンが答える。
「お前らじゃない」
パウエルが洞ラバを見る。
「ああ……」
レオンは慌てて三号の手綱を短く持った。
◇
午後二時四十六分。
森林へ入って、十三分。
最初に異変に気づいたのは。
潜航者ではなかった。
三号だった。
「三号?」
レオンが手綱を引く。
動かない。
もう一度引いても。
動かなかった。
「どうしました?」
同行レポーターが小声で尋ねる。
レオンにも分からない。
周囲を見ても。
何もいない。
「止めろ」
馭獣担当が言った。
「全員止めろ」
合図が後方へ送られる。
潜航者達が武器へ手を掛けた。
聞こえるのは、水の落ちる音。
葉の擦れる音。
そして。
洞ラバの呼吸。
この時。
人間には。
まだ何も見えていなかった。
◇
馭獣担当が一歩前へ出る。
そこで止まった。
「レオン。動くな」
「……はい」
男がレオンの顔の前へ手を伸ばした。
指先が。
何もない空間で止まる。
「見えるか?」
「何がです?」
指先がわずかに動く。
光が反射した。
「……糸?」
細い。
透明な糸。
レオンがゆっくりと上を見る。
一本。
その奥に、もう一本。
さらに上。
何十本もの糸が、木と木の間を覆っていた。
巨大な蜘蛛の巣。
「……上」
誰かが呟いた。
巣の中央で。
黒いものが動く。
一体。
別の木に、もう一体。
さらに奥にも。
影。
「確認できるのは?」
「三体」
「奥は?」
「見えません」
ノアが剣を抜いた。
「戦います?」
パウエルは答えない。
蜘蛛を見る。
巣を見る。
六頭の洞ラバを見る。
そして。
「迂回する」
◇
戦わない。
パウエルは、そう判断した。
確認できた蜘蛛は三体。
だが、確認できない場所に何体いるのかは分からない。
巣の規模も不明。
戦闘になれば、洞ラバが暴れる可能性もある。
そして何より。
彼らがここへ来た目的は。
蜘蛛を倒すことではない。
「測量」
「迂回路を探します」
◇
結果。
戦闘は起きなかった。
負傷者、ゼロ。
洞ラバ、六頭。
すべて無事。
その代わり。
彼らが失った時間は、三時間十一分。
追加された移動距離は、一・七キロ。
戦えば。
人が傷つくかもしれない。
戦わなくても。
時間と金は失われる。
ダンジョンでは。
戦わないという判断にも。
値段がつく。
◇
午後六時五十二分。
野営地。
洞ラバへ飼料が配られる。
脚を確認し、背を見る。荷擦れがないことを確認してから、ようやく人間達の食事になった。
「……疲れた」
レオンが木の根元へ座り込み、脚を伸ばす。
「まだ二日目だよ」
ノアが隣へ腰を下ろした。
「言うなよ」
少し離れた場所では、測量担当が今日書き足した地図を広げている。
予定していた線から大きく膨らみながら。
それでも。
線は確実に東へ伸びていた。
◇
二日目。
彼らは前へ進んだ。
地図も伸びた。
これまで記録の乏しかった地下森林も確認した。
遠征として。
成果がないわけではない。
しかし。
《リレントレス・ウルフ》が必要としているものは。
地図だけではなかった。
◇
同時刻。
地上。
《リレントレス・ウルフ》本部。
「今頃どこだ?」
ダリルが聞いた。
「分かりません」
エマは帳簿から顔を上げない。
「十層は越えたかな」
「昨日も同じこと聞きましたよ」
「聞いたか?」
「聞きました」
◇
ダンジョン内部と地上を結ぶ、常時使用可能な通信手段はない。
潜航した者達が今どこにいるのか。
何と遭遇しているのか。
予定通り進んでいるのか。
地上にいる者には分からない。
遠征する者には。
進む仕事がある。
そして。
送り出した者には。
待つ仕事がある。
◇
この時。
ダリルは知らない。
遠征隊が地下森林へ到達したことを。
巨大な蜘蛛の巣を避け、三時間十一分を失ったことを。
そして。
彼らが探しているものには。
まだ届いていないことを。
◇
遠征二日目。
消費した食料。
消費した飼料。
魔術触媒。
人件費。
そして。
時間。
五百十二金貨を投じた東部遠征。
まだ。
ギルドに金をもたらすものは。
一つも見つかっていない。
◇
翌朝。
彼らは。
さらに東へ向かう。
この先で。
《リレントレス・ウルフ》は。
創立以来。
初めてとなるものを発見する。




