第7話 十九層
六月二十日。
午前五時四十分。
◇
《アイアン・ホーク》本部前。
三十五人の潜航者達が、最後の確認を行っていた。
「緊急石。」
「全員分、確認済み。」
「治療薬。」
「規定数以上。」
「食料。」
「予備含め問題ありません。」
ギルドマスター。
グレイ・ハワード。
六十三歳。
その隣には、副ギルドマスターのリディア・ハワード。
「全員いるな?」
「はい。」
潜航者、二十四名。
ポーター、八名。
医療職、三名。
総勢、三十五名。
「出発する。」
装備。
問題なし。
人員。
問題なし。
計画。
予定通り。
三十五人は、地下へ向かった。
◇
午前八時十二分。
第五層。
「第一灯、残量八割六分。」
「第二灯、八割四分。」
「帰還分は?」
「別管理。手を付けてません。」
「了解。」
隊列は止まらない。
斥候。
前衛。
ポーター。
医療職。
後衛。
誰かが細かく指示を出さなくても、それぞれが自分の仕事をしている。
「前方、ゴブリン二。」
「処理する。」
前衛三人が出る。
二分後。
隊列は再び動き始めた。
討伐、二。
負傷、ゼロ。
創業四十一年。
積み重ねた時間は、設備や潜航記録だけに残るものではない。
人にも残る。
◇
午後三時十二分。
第十八層。
「全員、いるな?」
「確認しました。」
「負傷者?」
「ゼロです。」
「装備損失?」
「ありません。」
予定より三十一分早い到着だった。
《アイアン・ホーク》。
最高到達階層、第十八層。
ここまでは、彼らにとって既知の地下である。
この先。
一つ下。
第十九層。
そこから先は。
四十一年の歴史を持つ彼らにも、十分な記録がない。
◇
午後六時。
第十八層、野営地。
机の上に地図が広げられていた。
グレイの指が、第十九層の入口から伸びる一本の線をなぞる。
「明日は、ここまでだ。」
指が止まる。
「三キロ。」
若い潜航者が地図を見る。
「状況が良くてもですか?」
「戻る。」
「まだ行けそうでも?」
「戻る。」
グレイは地図から目を上げた。
「十九層は、成果を取りに行く場所じゃない。今回は知りに行く。」
リディアが確認事項を書き込む。
「撤退基準は?」
「既存記録との重大な不一致。未知の魔物。帰還時間に影響する負傷者。」
グレイが全員を見る。
「どれか一つで撤退する。異論は?」
「ありません。」
会議は、それで終わった。
無謀な計画ではなかった。
むしろ。
慎重だった。
◇
六月二十一日。
午前六時十三分。
第十九層。
「……広いな。」
レンズの先に、巨大な石造迷宮が広がっている。
通路幅、およそ九メートル。
高さ、およそ七メートル。
左右の壁には、巨大な石柱が一定間隔で並ぶ。
前方には長い直線。
その先は暗い。
「記録と照合。」
「一致しています。」
「進む。」
三十五人が迷宮へ入った。
◇
午前六時四十七分。
入口から八百二十メートル。
「左通路。」
「記録通りです。」
「右は?」
「同じです。」
◇
午前七時十一分。
一・四キロ地点。
「採取物、確認。」
「前回記録より多いですね。」
「最低限だけ採れ。」
「いいんですか?」
「今日は地図を持って帰る。」
「了解。」
順調だった。
◇
午前七時三十八分。
二・一キロ地点。
「止まれ。」
グレイが右手を上げた。
三十五人が止まる。
前方。
異常なし。
後方。
異常なし。
「どうしました?」
グレイは答えず、長い通路を見た。
「……音がない。」
リディアも周囲を見る。
静かだった。
あまりにも。
「魔物……。」
既存記録では、この区画で複数種の魔物が確認されている。
ここまで。
一体もいない。
「撤退する。」
即決だった。
「まだ何も――」
「記録と違う。」
グレイが振り返る。
「撤退基準だ。隊列反転。帰るぞ。」
誰も反論しなかった。
判断は遅くない。
むしろ、早かった。
それでも。
「――っ!」
鈍い音。
隊列中央の男が、横へ吹き飛んだ。
「敵!」
一斉に剣が抜かれる。
盾が上がる。
魔術師達が杖を構えた。
「どこだ!」
「右!」
右側の壁。
何もいない。
「救護!」
胸当てを裂かれた男へ、医療職が動こうとした。
「待て!」
グレイの声。
壁が。
揺れた。
「……何だ?」
石の中から、頭が現れた。
続いて肩。
腕。
人に近い。
だが、その輪郭は水面に映った影のように揺らいでいる。
「撃て!」
炎が走った。
人型の胸へ直撃する。
はずだった。
「……抜けた?」
炎は身体を通り抜け、そのまま背後の石壁へ叩きつけられた。
剣士が踏み込む。
一閃。
刃もまた、人型をすり抜けた。
「下がれ!」
人型は、そのまま石壁の中へ消えた。
「……壁を抜けたぞ。」
「中央へ寄れ! 壁から離れろ!」
隊列が一気に通路中央へ集まる。
左右の壁まで、およそ四メートル。
「これなら――」
「下!」
石床から腕が伸びた。
「ぐっ!」
潜航者の足を薙ぐ。
男が倒れる。
「床もだ!」
「上!」
今度は天井。
顔が現れる。
消える。
「右壁!」
「いない!」
「後ろ!」
現れる。
消える。
攻撃が届かない。
「落ち着け!」
グレイの声が飛ぶ。
「攻撃できるなら、触れる瞬間がある!」
古参の盾役が前へ出た。
「俺が受ける!」
盾を構える。
「来い!」
床が揺らぐ。
「そこだ!」
腕が現れた。
盾を抜ける。
胸へ伸びる。
「今!」
剣が走った。
槍が脇腹を貫く。
直後、炎が叩き込まれた。
「ギィィィィィッ!」
血が飛ぶ。
「通った!」
「攻撃の瞬間だ!」
「触れる時だけ、こっちも触れる!」
グレイが即座に指示を飛ばす。
「前衛、攻撃を誘え! 魔術師は合図まで撃つな!」
「了解!」
左の石柱。
輪郭が揺れる。
「左!」
人型が現れる。
前衛が半歩下がった。
腕が伸びる。
「今だ!」
剣が肩を裂いた。
「ギィッ!」
「天井!」
「来るぞ!」
盾役が身体を入れる。
爪が盾をすり抜けた瞬間。
「撃て!」
炎が直撃する。
人型が床へ落ちた。
「いける!」
誰かが叫んだ。
戦えている。
傷も与えている。
倒せるかもしれない。
そう思った。
「後ろ!」
声が飛んだ。
遅かった。
「がっ――!」
古参の潜航者が、背中から壁へ叩きつけられた。
胸に深い傷。
剣が手から落ちる。
男の身体が崩れた。
「救護!」
「行きます!」
医療職が動く。
「待て!」
倒れた男の肩が。
壁へ沈んだ。
「……え?」
石の中から、腕が伸びている。
男の肩を掴んでいた。
「持っていかれる!」
一人が男の腕を掴んだ。
もう一人が腰へ飛びつく。
「引け!」
二人で引く。
だが。
止まらない。
肩が少しずつ、石の中へ沈んでいく。
「もう一人!」
三人目が脚を掴む。
「せぇの!」
「っ……!」
動かない。
壁の向こうから。
何かが引いている。
「斬れ!」
「見えねえ!」
剣が石壁を叩く。
火花が散る。
石片が飛ぶ。
届かない。
「くそっ!」
「引け! 絶対離すな!」
男の頭が壁へ近づいていく。
「リディア!」
「……。」
リディアは壁を見る。
倒れた男。
必死に引く三人。
そして。
少し離れた石柱。
「攻撃させます。」
「何?」
「実体化させる!」
リディアが盾役を指した。
「柱の前!」
「了解!」
盾役が走った。
石柱ぎりぎりへ身体を寄せる。
「来い!」
何も起きない。
「引け! 引け!」
男の頭が、さらに壁へ近づく。
「来いよ!!」
盾役が石柱を叩いた。
「こっちだ!!」
石柱の表面が揺れた。
「来る!」
腕。
盾を抜ける。
胸へ伸びる。
輪郭が濃くなる。
「今!!」
剣が肩を斬り裂いた。
槍が脇腹へ突き刺さる。
炎が叩き込まれる。
「ギィィィィィッ!!」
壁の中から悲鳴が響いた。
「緩んだ!」
「引けえええ!!」
三人が一斉に身体を反らす。
ズルッ。
男の身体が、壁から抜けた。
三人とも後ろへ倒れ込む。
「救護班まで運べ!」
「はい!」
二人が男の両脇を抱える。
「前衛! 壁を見ろ!」
「右、異常なし!」
「床!」
「見てる!」
二人は走れない。
男の踵が石床を擦る。
ズルッ。
ズルッ。
「来るぞ!」
「左壁!」
前衛が一斉に向きを変えた。
「止まるな!」
二人は振り返らない。
男を引く。
ズルッ。
ズルッ。
数メートル。
たった数メートル。
それが。
遠い。
「救護!」
「ここへ!」
通路中央。
救護班が待っている。
二人が男を滑り込ませた。
「下がって!」
治療師が胸当てを外す。
「止血!」
「はい!」
「治療薬!」
「ここです!」
その数メートル先では。
剣が鳴る。
魔法が石壁を照らす。
「右!」
「今だ!」
前衛が敵を抑える。
その後ろで。
救護が続く。
「……脈、落ちてます。」
「続けて!」
「はい!」
十秒。
二十秒。
「……。」
治療師の手が止まった。
「どうだ!」
グレイは前を向いたまま聞いた。
返事がない。
「どうした!」
数秒。
そして。
「……死亡です。」
一瞬だけ。
剣の音しか聞こえなかった。
グレイが目を閉じる。
一秒。
開く。
「担架へ。」
「……はい。」
「連れて帰る。」
前方。
人型の輪郭が、再び壁へ消れた。
「全隊!」
グレイが剣を構えたまま叫ぶ。
「撤退する!」
「待って!」
リディアだった。
「荷物を捨てます。」
「採取物か?」
「全部です。」
「何?」
古参の潜航者が振り向く。
「帰還に必要なものだけ残します。」
「十九層用の装備までか?」
「はい。」
「金貨何枚分あると思ってる!」
「分かっています。」
リディアは担架を見た。
「でも。」
「十九層には、もう戻りません。」
「リディア――」
「今必要なのは、戦うための荷物じゃない。」
負傷者を見る。
担架を見る。
「帰るための荷物です。」
古参がグレイを見る。
「ギルドマスター!」
グレイも娘を見る。
一秒。
「聞いたな!」
声が迷宮へ響く。
「帰還に不要な荷は全部捨てろ!」
「急げ!」
ポーター達が動いた。
採取物。
予備装備。
調査器具。
十九層で使うために何日もかけて準備した物資。
次々と石床へ置かれていく。
「こんなものまで?」
「置け!」
「でも――」
「命より高いなら持っていけ!」
手が止まる。
「……ありません。」
「なら置け!」
荷が落ちる。
金になるもの。
金を払ったもの。
何日もかけて準備したもの。
持ち帰るために。
ここまで運んできたもの。
全部。
置いていった。
ただ。
一つ。
担架だけは。
誰も置かなかった。
「行くぞ!」
三十四人。
そして。
一人。
《アイアン・ホーク》は、第十九層を捨てた。
◇
午前九時十四分。
第十八層。
「後方!」
「異常なし!」
「止まるな!」
死亡、一名。
重傷、三名。
軽傷、七名。
彼らが第十九層へ持ち込んだ荷物の多くは。
もうない。
それでも。
三十五人は。
まだ一緒だった。
◇
午前十一時五十二分。
第十七層。
「追跡なし!」
「担架交代!」
「俺が持つ!」
「次、十五分で代われ!」
◇
午後四時二十七分。
第十五層。
まだ。
歩く。
◇
六月二十二日。
午前七時四十一分。
第十二層。
まだ。
歩く。
担架も。
一緒に。
◇
午前十一時十三分。
第九層。
「止まれ。」
別の声だった。
《アイアン・ホーク》の隊列が止まる。
前方。
潜航者達。
胸に。
狼の紋章。
◇
《リレントレス・ウルフ》。
◇
先頭にいたパウエルが。
ゆっくりと剣から手を離した。
「……グレイさん。」
「パウエルか。」
パウエルの視線が、帰還隊を追う。
泥。
血。
割れた盾。
欠けた防具。
そして。
異様に少ない荷物。
「……何があったんです?」
グレイは短く答えた。
「十九層。」
パウエルは、それ以上聞かなかった。
「そっちは?」
「十層までです。」
「……そうか。」
グレイが、パウエルの後ろを見る。
レオン。
ノア。
ミア。
若い潜航者達。
「気をつけろ。」
「はい。」
二つの隊列が。
ゆっくりとすれ違う。
壊れた盾。
血の付いた防具。
肩を借りて歩く者。
担架に乗せられた負傷者。
そして。
最後の一台。
布に覆われていた。
「……。」
レオンは、それを見た。
何も聞かなかった。
《アイアン・ホーク》が通り過ぎていく。
足音が。
迷宮の奥へ消えていった。
◇
一方は。
地上へ。
一方は。
地下へ。
◇
同じ第九層で。
二つのギルドは。
すれ違った。
◇
「……パウエルさん。」
「何だ。」
レオンは。
彼らが消えた通路を見ていた。
「潜るんですか?」
パウエルも、しばらく同じ方向を見ていた。
それから。
下へ続く道へ目を向ける。
「十層までだ。」
剣の位置を直す。
「行くぞ。」
「……はい。」
レオンが前を向いた。
隊列が。
再び動き始める。
地下へ。
◇
地上へ戻る。
《アイアン・ホーク》。
地下へ向かう。
《リレントレス・ウルフ》。
◇
この時。
レオン達は。
まだ知らない。
自分達も。
この夏。
地図のない場所へ。
向かうことを。
◇
その十二日後。
◇
《リレントレス・ウルフ》。
東部遠征。
◇
決行日が。
決まった。




