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春原隼人の無謀な挑戦


 キオネアがトゲに貫かれたあのとき、隼人は何もできなかった。

 勇ましく、壁にかかっている氷の剣を手に取ったのだけれど、その後、足が動かなかった。


 自分が助けに入っても無意味だと、そう思ったのだ。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 怪物がえた。

 あまりの凄まじさに隼人の思考が吹っ飛んだ。


 その後のことはあまり覚えていない。

 黒野が逃げろと叫んでいたような気がする。だから隼人は、怪物の横を通り過ぎて必死に逃げた。周りの子どもたちのことなんて考える余裕はなかった。怪物が自分を追ってきているような気がして、振り返ることもできなかった。


 気がついたとき、雪林の中で隼人は一人だった。


 呼吸ができない。胸が苦しい。

 吐きそうになるくらい、むせた。

 胃液は出なかったけど、涙は溢れてきた。


 とりあえず涙を拭って、呼吸を整える。冷たい空気が肺の中に入ってきて、そのおかげで少しだけ冷静になった。


「みんなはどこに……?」


 周囲を見回したけれど、やっぱり誰もいない。


 自分以外の他の四人は、一緒に逃げたのか?


 ふと、自分の右手が冷たいことに気がついた。

 氷の剣を握りしめたままだった。無意識のうちに持ってきてしまったらしい。

 手袋ごしでも冷気を感じ取ることができる。


 こんな物を持っていても、何の意味もない。

 氷の剣を雪の上に投げつける。砕けるようなことはなく、ぽすんと柔らかい音を立てて、積もっている雪に埋まった。


 肝心な時に、隼人は動けなかった。

 キオネアを見殺しにしてしまった。


 思い返せば、自分の人生はいつもこうだ。


 たとえば両親が離婚すると言ったときに、


「俺のことなんて考えないで、好きに生きればいいよ」


 と理解のあるフリをした。かっこつけたのだ。

 そもそも両親の仲は、すでに修復不可能なほど悪かった。


 でも、たとえ離婚を避けられなかったとしても、二人に本気でぶつかればよかった。

 嫌だと言えばよかった。

 ふざけるなと怒鳴ればよかった。

 言いたいことがたくさんあったのに、そのすべてを飲み込んで、隼人は物わかりのいい息子を演じた。


 あのときは、二人にぶつかる労力を無意味だと思ったのだ。


 そんなことをしても、父さんと母さんは何も変わらなかっただろう。

 でも隼人の心が前に進むためには必要なことだったと、今になってわかる。


 飲み込んだ言葉は、隼人の腹の中でずっとくすぶり続けている。燃えた石が胃の中にあるみたいだ。


 気持ち悪くてどうしようもない。

 でも、もう吐き出すことはできない。


 あの日、あのときにしか、吐き出すことができなかったのだ。


『どうせ無意味だろう』と『やっぱり無意味だった』には、大きな違いがある。それがわかっているのに、隼人はいつも一歩を踏み出すことができない。


 見かけだけはポジティブに、元気よくへらへらしていれば、それで物事はなんとなく進んでくれる。人生というものをそう学習していた。


 そして今、隼人は新しい後悔を飲み込んだ。

 キオネアを助けるために動かなかったという――燃え盛る石を胃の中に落とした。


「……戻ろう」


 さっき放り投げた氷の剣を拾いなおす。何も持っていないよりはマシだ。

 それから自分の足跡を辿りなおして、かまくらがあった場所の近くまで戻った。


 ふと、足元に何か落ちているのが見えた。

 

「これは、ネックレスか?」


 アスタリスクの形をしている宝石が、中心にくっついている。

 キオネアが首からげていた物だ。話している途中で、ときどき握りしめていたのを覚えている。


 でも、どうしてこんなところに落ちている?


 怪物との戦いで、吹っ飛んだのかもしれない。

 一応、ネックレスを拾って、ポケットに入れておくことにした。


 さらに歩を進める。どこで怪物と鉢合わせするかわからない。

 木の裏に隠れながら、慎重に歩いた。


 それで正解だった。


 驚いたことに、怪物はまだ、崩壊したかまくらの近くにとどまっていたのだ。

 すぐそばにはキオネアが倒れている。怪物は、そんなキオネアの顔を覗きこんでいる。何かを確認している様子だ。

 いったい何が起こっているのかわからない。


 キオネアはまだ生きている?

 怪物がトドメを刺そうとしている瞬間とか?


 もしそうだとしたら、助けに行く必要がある。

 でもここで飛び出しても、やっぱり無駄に死ぬだけだろう。

 あいつらの戦いは、人間が割って入れるようなものじゃなかった。


 もう少し様子を見ていたい。


 怪物は、しばらくキオネアのことを眺めていた。そして、ふいに体をひるがえして、隼人が隠れている方に向かって歩き出した。


 おいおい! まさか、ここに隠れているのがバレたのか?


 隼人は自分の口元を両手で押さえて、必死に息を殺した。怪物はどんどん近づいてくる。小声で何かつぶやいているのが聞こえる。


「……おれがささえなきゃ。おれがささえなきゃ」


 と、何回も同じ言葉を繰り返している。


 どういう意味?


 もちろん、考えている余裕はない。

 隼人の心臓がバクバクと猛烈に動く。その鼓動音でバレるんじゃないかと思い、さらに焦る。深呼吸はできない。自分の体を落ち着かせるすべがない。頼むから静かにしてくれと、自分の体に、心臓に頼んだ。


 もうダメだ。緊張で心臓が破裂しそうだ。

 押さえている口元から、荒い息が漏れる。


 怪物がさらに近づいてくる。なんて恐ろしい姿をしているんだろう。体中から、雪の結晶がトゲのように生えている。顔もトゲに埋もれてしまってよくわからないけど、かろうじて見えるブルーの瞳がやけにキレイで、不覚にも隼人は見惚れてしまった。


 思考に、一瞬の空白ができる。


 そのおかげで、心臓の鼓動も、呼吸も、元に戻っていた。


 怪物の進路が少しズレた。

 隼人が隠れているのとは違う木の横を通り過ぎて、そのまま雪林の奥へと消えていった。

 どうやらバレてはいなかったらしい。


 それでも隼人は、すぐに息を吐くようなことはしなかった。こっちを油断させるための罠かもしれない。いきなり目の前に現れるかもしれない。


 怪物の気配が、雪林の至る所からにじみ出ているようだ。隼人の被害妄想から来ている幻覚なのか、本当に怪物が近くに潜んでいるのか、隼人本人には確かめようがない。


 少し離れたところに、キオネアが倒れている。

 立ち上がる気配はない。

 早く様子を見に行かなくちゃならない。


 あれも罠だとしたら?

 わざとキオネアにトドメを刺さず、心配になって駆け寄ってきた人間を捕まえようとしていたら?


 悪い想像はいくらでもできる。

 そして罠の可能性はゼロじゃないどころか、かなり高いと隼人は思う。


 今の自分がキオネアに駆け寄って、何ができる?

 ケガを治すことも、病院に連れていくこともできないのに。


 氷の剣を握りしめる。それでも足は動かない。

 ここで行かないのは、怯えているからじゃない。危険だからだ。自分にそう言い聞かせる。


 怪物の気配はしない。

 キオネアは倒れている。

 隼人は息を殺して、木の裏に隠れ続ける。


 何も起きないまま、時間だけが過ぎていく。


 どこからか、ぼす、ぼす、と音が聞こえた。これは、積もる雪を踏みしめる足音だ。

 キオネアのところに誰かが近づいてきたのだ。

 隼人はもう一度、息を殺した。


 まず青いマフラーが目に入った。長い黒髪を揺らし、おどおどしたような仕草でその子はやってきた。


 確か名前は――鮎川詩織あゆかわしおりだったっけ。


 かまくらの中に、最後にやってきた女の子だ。

 口うるさかった野崎姉妹と違って、隼人の中で印象は薄い。


 詩織は、周りを何回も何回も確認しながら、慎重にキオネアに近づいていった。

 そしてキオネアの横にしゃがみこんだ。

 詩織の口が動いている。

 

 ……二人は言葉を交わしている?


 どうやらキオネアには意識があるらしい。

 怪物がやってくるような感じでもない。あれは罠じゃなかったんだ。

 隼人は安心して、ほっと、息を吐いた。


 ここで自分も出るべきなんじゃないか?


 よう、大丈夫だったか――そう声をかけながら姿を現して、詩織とキオネアの三人で、この先どうすればいいのか、話し合うべきなんじゃないか?


 そう思ったけど、隼人の足は動かない。なんというか、重い。重くて重くて、仕方がない。

 ムリヤリ動かそうとしてもダメだ。木の影から出られない。

 二人の方に進めない。


 どうして動けないのか、自分でもわからない。


 あそこはもう安全だとわかっているのに。

 罠じゃないとわかっているのに。


 少し遅れて気がついた。


 ――これは罪悪感だ。


 隼人は、詩織を罠の確認のために使った。倒れているキオネアに近づいても大丈夫かどうか、詩織の行動で試したのだ。それが隼人の心に重りをつけた。


 最っ悪だ……!


 詩織が姿を現したとき、すぐに声をかけるべきだったんだ。俺が先に確かめに行くと、そう提案するべきだったんだ。それを、木の影からこそこそと盗み見て、安全だとわかってから話しかけに行こうなんて、虫が良すぎる。


 どうして自分は、いつもこうなんだろう。

 行動できないんだろう。


 そのときは賢い選択をしているつもりなのに、後になって、罪悪感で圧し潰されそうになっている。

 卑怯なことをするのなら、最後まで卑怯なことをするべきだ。後悔なんてしないで、その卑怯さにプライドを持つべきだ。それもできず、自己嫌悪でぐだぐだと。


 ほんと、自分が嫌になる。


 隼人はため息をついた。身をひるがえして、二人とは正反対の方向に進む。そっちに向かうときは、簡単に足が動いた。


 こっちは、怪物が進んでいった方角だ。

 でもこれでいい。

 次に怪物と会ったときに、一矢報いてやる。


 隼人はそう覚悟を決めた。


 もうこの時点で隼人の目的が、迷宮から脱出することでも、怪物から逃げることでも、誰かを守ることでもなくなっていた。


 勝ち目のない怪物に挑むこと。

 ただそれだけのために隼人は動き出した。


 隼人本人に、迷走している自覚はない。

 無謀とも言える行動だけど、でも無意味とは言い切れないのが厄介だ。


 ここで動かなければ、隼人はダメになってしまう。それが間違っているのか、正しいのかはわからない。少なくとも隼人本人がそう考えている、ということが重要だった。


 迷宮の中で迷走。


 まるでマイナスにマイナスをかけ合わせたらプラスになる、とでもいったような感じで、この隼人の行動が結果として良い方向に実を結ぶことになる。


 怪物の足跡は、人間の物と似ていた。でもその周囲に、足から生えているトゲが刺さった跡だろう、小さな穴がいくつも空いていた。だから後を追うことは簡単だった。


 氷の剣を握りしめて、歩く。

 怪物と鉢合わせする危険なんてまったく考えずに進む。


「きゃああああああああああああ!」


 悲鳴が聞こえてきた。女の子の声だ。

 隼人は走り出した。


 今度は、慎重に木の影から様子を見るなんてことはしない。走った勢いのまま、声が聞こえてきた場所に飛び出す。


 野崎優と、野崎サナの二人が、怪物に襲われているところだった。


「やめろおおおおおおッ!」


 隼人は怪物の背後から走って近づき、氷の剣を振りかぶった。

 これまでの人生で剣を振ったことなんてなかった。

 誰かを攻撃しようなんて思ったことはなかった。


 それでも持ち前の運動能力を発揮して、鋭く、剣を振り下ろした――その刃は、やっぱり怪物の体まで届かなかった。体中に生えているトゲが鎧の役割も果たしているらしい。

 剣を弾かれて、隼人はよろめいた。


 一撃で怪物を倒す――なんて。現実はそう都合よくいかないか。


 少しだけ、かっこよく女の子を助けるという夢を見ていた隼人は苦笑した。


 ここでようやく、怪物は隼人の方に視線を向けた。

 さっきの攻撃なんて、避けるまでもなかったのだろう。

 どこまでも舐められている。


「おい、無事か!」


 怪物の向こう側にいる野崎姉妹に声をかけた。


「う、うん! 私も妹も大丈夫!」


 返事が返ってきた。

 隼人は、自分に怪物の注意を向けさせて、野崎姉妹から引き離した方がいいと判断した。


 弾かれるとわかっていながら、何度も氷の剣を振った。

 怪物は防御をすることもなかったが、攻撃をしてくることもなかった。


 様子がおかしい。


 トゲの奥にある青い瞳が、じっと隼人のことを見つめている。

 いや、見ているのは隼人が握っている氷の剣だ。


 いったいなぜ……?


「おれが、ささえなきゃ」


 怪物が喋った。

 さっきすれ違ったときに聞いたのと、同じ言葉だった。

 もちろん意味はわからない。


 怪物は両腕を激しく振り回して、まるで駄々をこねる子どものように、当たり構わず暴れ始めた。


 隼人はすぐに距離を取った。

 野崎姉妹が離れたのも見えた。


 それでも怪物は、誰かを狙うというわけじゃなく、ひたすらに暴れた。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 えながら暴れ続けた。

 しばらくしてから、ふいに動きを止めた。


 隼人のことも、野崎姉妹のことも見えてはいないようだ。


 頭を抱えるようにうずくまった後、


「おれは、どうしてここに。おれは、いったい……」


 ぶつぶつと何かをつぶやいていた。


 その後、ゆっくりと立ち上がって、周囲の木々を吹っ飛ばしながら雪林の奥に去って行った。

 明らかに様子がおかしかったけれど、そもそもあの怪物に自我があるのかどうか、隼人は知らない。あれが怪物にとっての普通かもしれない。

 

 とにかく、助かった。

 何がなんだかわからないけど、助かったのだ。


 隼人は腰が抜けてしまい、雪の上にしりもちをついた。そこに優とサナが走って近づいてきて、


「ありがとう! 助かった!」「……ありがとうなの」


 お礼を言ってくれた。

 優が差し出してきた手を取って、立ち上がる。まだ足腰がうまく立たなくて、引っ張られた勢いのまま、優に抱きついてしまった。


「ご、ごめん」


 隼人は慌てて離れようとしたけれど、うまく体が動かない。優もサナも、隼人が恐怖からそうなっているのだとわかっていた。勇気を振り絞って助けに来てくれたとわかっていた。だから優しく抱きとめて、


「ありがとう」


 と言い、隼人の背中をぽんぽんと、優しく叩いてくれた。

 その言葉が、その仕草が、隼人の胃の中にあった燃え盛る石を砕いた。


 すうっと、体が軽くなる。

 隼人は、思わず夜空を見上げた。

 

 ――ああ、そうか。そういうことか。

 

 人生で初めて、『どうせ無意味』を突破して、行動してみた。

 初めてだからムチャクチャで、どうしようもないほど、やぶれかぶれで、一つ間違えたら死んでいた。今回の行動は、たまたまうまくいっただけだ。


 でも清々しかった。


 この絶望的な状況の中で、隼人の心は今までにないくらい、安らかだ。

『どうせ無意味』の先にあったのは、『やっぱり無意味』なんかじゃなかった。


 もしかしたらこの先みんな怪物に殺されて、すべてが無意味になってしまうかもしれないけれど、そのときはそのときだ。隼人にとっては、今この瞬間が人生のすべてだ。

 

 でももう二度と、あんな無茶はできないや。


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