妹は怪物
野崎優は、妹のサナの手を引いて、雪林の中を歩いていた。
子どもたちはみんな、散り散りになってしまった。
頼りのキオネアは、きっと助からないだろう。こうなったら、自力で元の世界に帰るしかない。
自分はどうなってもいい。
サナだけは、絶対に守らなきゃ……!
そう決意したものの、この先どうすればいいのかまったくわからない。
拠点として使っていたかまくらはもうない。見渡す限り、雪と林しかないこんな場所では、腰を下ろして休憩することもできない。
歩いているのに体が冷えてきた。
ここにライターかマッチがあれば、樹木を燃やして暖を取れるかもしれないのに。
でもそんなことをしたら、あっという間に怪物に見つかってしまうか。
いや、そもそもここの樹木は雪で湿気ているから、火は点かない。
……頭が上手く回っていない気がする。
どうすればいい? どうすればいいの?
サナの手をぎゅっと握った。
するとサナが、
「ねえ、お姉ちゃん。かまくらに戻ろう」
と言った。
優は少しかがんで、サナと目線を合わせた。
「ど、どうしたの? サナ? 疲れたの? あんなところに戻っても意味ないよ。死んじゃうだけだよ」
「キオネアさんを人質に取ろう」
サナが突拍子もないことを言いだした。
「え? え? どういうこと?」
「これって、ギリシャ神話みたいなの」
サナが詳しく語ってくれたのは、次のような話だった。
◇
その昔。
クレタ島に、ミノス王という名前の王さまがいた。
ミノス王は、とある出来事から、海の神さまであるポセイドンを怒らせてしまう。
その罰として、ミノス王の妻である王妃パシパエが、神聖な白い牛を愛するという呪いを受けた。そしてパシパエは、頭が牛で体が人間の怪物ミノタウロスを産んでしまう。
ミノタウロスを野放しにしておくわけにはいかない。
ミノス王は、名工ダイダロスに命じて巨大迷宮ラビュリントスを造らせ、そこへミノタウロスを閉じ込めることにした。
ラビュリントスは、一度入ったら二度と出られないという、とんでもない難易度の迷宮だった。
その迷宮に、アテナイという国の王子――テセウスが挑むことになる。
当時、アテナイはクレタへ、九年ごとに、七人の少年と七人の少女を生贄として差し出していた。
その生贄の一団に身分を隠して加わった王子テセウスは、ミノタウロス討伐に挑む。
テセウスは見事にミノタウロスを倒し、迷宮からも脱出した。
◇
「確かに似ているかも」
優がつぶやくと、サナはこんな状況なのに目を輝かせて、
「わたしは、この話がとっても好きなんだ!」
「そ、そうなんだ。でもごめん、声をもっと小さくして」
「この神話の何がおもしろいって、テセウスが迷宮から脱出した方法なんだよ。彼は迷宮に入る前に、ミノス王の娘のアリアドネから、赤い糸をもらっているの! その糸を入り口からずっと垂らしながら進んだおかげで、ミノタウロスを倒した後に、迷宮から脱出することができたの!」
「わかったから、声を小さく」
サナはこういう話に詳しい。
世界各地の民話や神話、歴史といった話が大好きなのだ。
「アリアドネは、王子テセウスに一目ぼれをしていたんだよ。だから助けたの」
さすがに声量を落としてくれた。サナは続けて、
「でも、この後テセウスは、自分を助けてくれたアリアドネを、途中で立ちよったナクソス島ってところに置き去りにしてしまうの」
「え? なんで?」
「病気だったからとか、ナクソス島に住んでいる酒の神バッカスがアリアドネを気に入ったからとか、いろいろな説があるんだけど……とにかく、テセウスとアリアドネは一緒になれなかったの」
それは、なんともまあ、ひどい話だ。
アリアドネもうかばれない。
「それで?」
優が尋ねると、サナはきょとんとした顔をした。
「え? これで終わりだけど」
終わり?
いったい、なんの話だったの?
自分たちが巻き込まれているこの状況は、確かにその神話と似ているけど。
ただそれを言いたかっただけ?
「ここは雪の迷宮だと思うの」
サナが言った。ちゃんと話には続きがあったみたいだ。
これで終わりだと言ったのは、『神話の説明はこれで終わりだよ』という意味か。
「迷宮?」
「壁はないし、道がいっぱいあるわけでもないけど、迷宮なの。だからきっと、キオネアさんはアリアドネの糸を持っていると思うの」
それで王子を人質に取ろうなんて言い出したのかな。
やっと話が繋がった。
「え~? いくらこの状況がミノタウロスの神話と似ているといってもさ。こっちは現実だよ? 誰も糸なんて持っていないって」
似ているけれど、同じじゃない。同じじゃなければ意味がない。
ここは迷宮ラビュリントスじゃない。もっとどうしようもない雪の牢獄だ。
空間は、四方八方に広がっている。入り口から糸を垂らしておいて、後でそれを辿って帰れるような作りじゃない。
そもそも誰も、糸なんて垂らしていなかった。
優の言葉に対して、サナはもう一度、きょとんとした顔をした。
「糸そのものを持っているわけないの。これはたとえ話なの」
「たとえ話?」
どういうこと?
「キオネアさんは、わたしたちと違って自分からこの迷宮に挑んだの。だったら、帰る手段だって用意しているはずなの。その手段を、アリアドネの糸になぞらえただけ。つまりキオネアさんは、外に出るための道具を持っているって言いたかったの」
「ああ、そういうことか。ごめんね、察しの悪いお姉ちゃんで」
「別にいいよ」
サナがにっこりと笑った。
察しが悪いことは否定してくれなかったな……。
でも確かに、サナの言う通りだ。キオネアだけ、他の子どもたちと違う条件でこの迷宮に入っていた。
あらかじめ、脱出するための方法を用意していてもおかしくない。
「自分の意思で迷宮にもぐりこんだのなら、その人は帰る手段を用意している。それか外に助けてくれる人がいる。神話はそういうことを教えてくれるの。似ているってことは、予測ができるってことなの」
「予測……」
同じじゃなければ意味がないと、優は思っていた。
でもサナは、似ている話から、今の状況に使えそうな知識を引っ張ってきたのだ。自分から迷宮に入ってきたのなら勝算がある、帰る方法だって用意している。だからそれを利用しろ、と。
サナの方が余裕もあって、賢くて――こんなんじゃ姉失格だと優は思った。
もっとしっかりしなきゃ!
優は気合を入れ直した。
「だからキオネアさんを見つけて、人質に取って、ここから脱出するの」
サナの意見は過激だけれど、でもそうするしか道はないような気がする。
そもそも向こうが一方的に、人間を生贄として拉致したんだ。
キオネアが助けてくれると言っていたのも、優やサナのことを思っての行動じゃないはず。
感謝する理由も、心配する理由もない。
あいつを人質に取っても、別に心は痛まない。
問題は別のところにある。
「でも、キオネアは全身を貫かれちゃったよね。あの様子じゃあ、たぶん生きていない、と思うよ」
優は言いながら、ついさっき見た光景を脳裏に思い描き、思わず顔をしかめた。
怪物のトゲがいくつもいくつも、キオネアの体を貫いていた。そんなキオネアを見捨てて二人は逃げてきたのだ。
「なおさら好都合なの」
「え?」
「お姉ちゃんもあの戦いを見たでしょ? 万全な状態のキオネアさんを人質取るなんてことはできないの」
それはまあ、確かに。
「別に、生きている必要もないの」
「え?」
今、なんて言った?
絶句している優に構わず、サナはたんたんと続ける。
「あの人が、本当に妖精の国の王子さまだとしたら、その遺体にも価値があるの。妖精たちはきっと回収に来る。だから遺体を人質に取って、わたしたちが元の世界に帰れるよう、お話しするの」
「……遺体って」
その言葉に、背筋がぞくりとした。
優は、サナのことを頭が良いと思っていた。
自分よりも遥かに賢いと、そう思っていた。
その認識は間違いじゃない。でも正しくもなかった。
私が思っているようなレベルじゃないんだ……!
妹は怪物だ。
この頭の良さは恐ろしいものだ。
優が、握っていた手の力を緩めた。サナの手を離そうとした。
次の瞬間――、
「わたしは、絶対にあきらめない。お姉ちゃんのことは、わたしが守る」
サナが言った。その声音は震えていた。
ああ、そうか。サナは私と同じなんだ――と、優はこのときに気がついた。
この最悪な状況の中で、せいいっぱい考えて、なんとか家に帰る方法を探し出そうとしている。
妹のことを絶対に守らなきゃ、と優は思っていた。
姉のことを絶対に守らなきゃ、とサナも思ってくれていた。
でもその覚悟には差があった。優の方が、足りなかった。
サナは思考の枷を外して、本当に、『絶対に守らなきゃ』と思っていたのだ。それなのに、そこまで考えてくれていた妹を恐ろしいと感じてしまった。
優は、そんな自分を恥じた。
ふううう、とお腹の底から息を吐く。
優もこれで覚悟を決めた。
遺体だろうとなんだろうと、人質に取る必要があるならやってやる。それが道徳的に良くないとしても、知ったことか!
優は雪の上に膝をついて、サナのことを真正面からぎゅうっと抱きしめた。
温かいなぁ。可愛いなぁ。
「うう、痛いよ、お姉ちゃん」
「ごめん、もう少しだけ」
こんなにも小さな体で、必死に考えているんだ。
サナは、本当にすごいなぁ。
姉としては頼りないかもしれないけど、でも今ここに父さんや母さんがいるわけじゃない。いざというときはこの体を盾にしてでも、サナを守る。
絶対に守る!
だからもう少しだけ、サナの体温を感じさせてほしい。
ぎゅうっとしていると、体の中にエネルギーが溜まっていくのがわかった。
しばらく抱きしめてから、体をそっと離す。サナは何が何だかわからない、という表情をしていたけど、優と目が合うと、にっこり笑った。
「サナは可愛いな! もう!」
「お姉ちゃんもね」
「うむ!」
そしてもう一度、手を繋ぎなおした。
「お姉ちゃん、あのかまくらに戻ろう」
「わかった。怪物と鉢合わせしないように、慎重に歩こうね」
そして優とサナの二人は、来た道を引き返すことにした。
雪がちらちらと降っているけれど、足跡を覆い隠すほどじゃない。元の場所に戻るのは簡単だ。
でも逆に言うなら、怪物が追ってくるのも簡単ということだ。これも、どうにかしなきゃいけない。
「そういえば、みんなでかまくらから逃げ出す前に、黒野がなんか喋っていたよね」
重要なことだった気がするけど、焦っていたから優はあまり覚えていなかった。
サナは思い出しているのか、宙をにらみ、
「『キオネアはまだ大丈夫だ。雪の妖精は、胸の奥にあるコアを壊されない限り死なない。だからここは任せて、走れ! 振り向かずに逃げるんだ!』……って言ってたよ」
サナのことだから、一言一句、合っていると思う。
そしてやっぱり黒野は、重要なことを喋っていた。
でも、
「どうして彼が、雪の妖精のことを知っているのかな」
優がつぶやくと、サナも首をかしげた。
「たぶんキオネアさんのお目付け役かなあって、わたしは思ったの。王子さま一人をこんな場所に送りこむのは、やっぱり変だし。だから人間のフリをして、キオネアさんのことを見張っていたと思うんだけど……」
サナも自信がないみたいだ。
情報がなさすぎて、どうとでも考えられるから、かもしれない。
「でもキオネアさんがピンチのときに、助けるようなそぶりを見せなかったの。だから、よくわからない。ごめんね、お姉ちゃん」
「謝らないの。サナはすごいんだから!」
「うん、ごめん」
優は少し笑って、サナの手を強く握りしめた。サナも握り返してきた。
「とりあえず、サナの考えが当たっているという前提で動こう。キオネアが生きているか死んでいるかわからない。どっちにしても、キオネアを人質に取る。黒野がキオネアのお目付け役だった場合のことを考えて、この先は、あまり彼に近づかないようにしよう」
「うん」
サナがうなずいた。その視線が、すすす、と優の右側にずれていく。サナの表情がどんどん険しくなっていく。
嫌な予感がした。
優も、そちらの方に視線を向ける。
怪物がいた。




