怪物
重なる樹木の隙間を、巨大な影が通り過ぎた。
最初はシルエットしか見えなかった。
詩織はその場から動けず、謎の影を視線だけで追う。
まるでクイズのように、木と木の間でちょっとだけ姿を見せては、すぐに木の影へと入りこんでしまう。
でもそいつは、隠れながら徐々に近づいてきた。
だんだん姿形がはっきりしてくる。
二足歩行をしている。かなりの猫背で、人間よりも動物に近い。身長は二メートル以上あるだろう。色は全体的に青く、月明りを結晶のように反射している。
動く氷の彫像みたい。
そして、なんといっても特徴的なのは、ハリネズミのように体中からいくつものトゲが突き出ていることだった。
怪物だ、と詩織は思った。
その怪物が、顔をこちらに向けた。ガラス玉のような眼球が、詩織を捉えた。その瞳からは憎悪が感じられた。
私は、何か恨まれるようなことをしたの?
そう聞きたかった。でもその前に、
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
謎の怪物が吼えた。
空気が震えて、周囲の枝から雪という雪が落ちた。詩織の上からも降ってきたから、慌てて頭をかばった。ちょっとした衝撃が全身にぶつかってくる。量も重みもないから、痛いと言うほどじゃなかったけれど。
問題なのは、怪物を見失ったことだ。
「どこ? どこに行ったの?」
怪物が吼えて周囲の雪を落としたのは、狙った行動なのかもしれない。必死に辺りを見回したけれど、怪物の姿は見えない。影すらも捉えられない。
詩織は、じりじりと後ずさって、すぐ近くの大木に背中を預けた。
どこからやってくる?
そもそも敵なの? 悪い奴なの?
でも良い奴だったらこんな近づき方はしないはずだ。精神的に追い詰めるように這いよって来て……まるでこっちの反応を楽しんでいるみたい。
詩織は左右を何回も確認し、見えない闇の奥をなんとか見ようと目をこらす。
ふわりと、冷たい両手が詩織の肩に乗せられた。
あまりにも優しい手つきに、振り返るのが恐ろしかった。視界の隅に、青い氷のような手が見える。
――つぅかまぁえた。
ひび割れたような声音で、背後のそいつが言った。
詩織はその一言で放心した。
「おい! 何やってんだ!」
横合いから大きな声が聞こえてきたおかげで、詩織はかろうじて意識を手放さずにすんだ。
誰かがこっちに向かって走ってくる。最初は老人かと思った。だって髪の毛が真っ白だったから。でも近づくにつれて、同い年くらいの男の子だとわかった。
白に見えた髪も、色素の抜けた色ではなく、光輝く銀に近かった。
その男の子が、怒ったような表情をしながらこっちをにらんでいる。彼の片手には青色の剣が握られていた。
詩織の肩に置かれていた青い手が、びくりと震えて、離れていった。でも肩の上には、嫌な冷気の感覚が残ったままだ。
男の子は走ってきて、そんな詩織の肩を強引につかんだ。ぐいっと引っ張って、自分の背後に押し込める。その拍子に嫌な冷気が吹き飛んでいった。
男の子は詩織を守るように割って入ってくれた、ということらしい。彼の着ている白いコートの裾がたなびいていて、まるでマントのよう。
体格は細身ですらっとしているけど、筋肉質なのがわかる。髪の毛はやっぱり銀色で、一本一本が絹のように滑らかだ。
男の子が振り返って、
「もう大丈夫だ。後は任せろ」
と言った。ここに迷い込んでから初めて聞いた言葉は力強くて、涙が出そうになるくらい嬉しかった。
男の子の顔をまじまじと見つめる。肌は白く、鼻筋が通っている。瞳は怪物と同じく氷の玉をはめたように冷たく透き通っているけれど、そこには詩織を心配する温かな色がちゃんとあった。
男の子の握っている剣は、雪の結晶のような形をしていた。
例えるなら、アスタリスク(*)の、上の線を下よりも三倍長くしたような形だ。そのすべてが氷でできているように見える。
斬ったら砕けてしまうんじゃないの?
そもそも冷たくないのかな?
男の子は素手で、氷の柄を握りしめている。そんな男の子の向こう側に、トゲだらけの怪物がいる。大きくなった雪の結晶が体中のそこかしこから突き出ているような外見をしていて、詩織は冬の朝の、ざくざくとした霜を連想した。
あの怪物からは、やっぱり明確に憎悪を感じる。さっきまであれに肩をつかまれていたのかと、背筋に冷たいものが走った。
もし振り返っていたらどうなっていたのかな。仲良くお茶をしたとは考えにくいけれど。
空気がより一層冷える。
氷の怪物と相対する、氷の剣を持った男の子。
私の目の前で何が起こっているの?
詩織は混乱しながら、事態を見守る。
男の子が雪を踏みしめて、一歩で怪物のふところに飛び込んだ。そして氷の剣を振るう。怪物は腕から生えているトゲを伸ばして、剣の攻撃を受け止めた。きいん、という硬質な音が鳴った。
男の子は何度も剣を振った。怪物はそのたびに攻撃をかわしたり、トゲを伸ばして受け止めたりした。金属と金属がぶつかったときのような火花は飛び散らなかった。その代わりに結晶の欠片が飛び、月明りを反射する。キラキラとした輝きの合間に、剣を振ったあとの青い軌跡が、いくつもいくつも空間をなめていく。
なんてキレイな戦いだろう。詩織は思わず見惚れた。
恐怖と美しさは紙一重だ。
ずっと守りに動いていた怪物が、攻撃に転じた。
無数のトゲによって守られた怪物の体は、それ自体が凶器だ。少し動くだけでトゲつきの鉄球が体当たりしてくるのと同じだ。そんな攻撃を、男の子は受け止めた。かわせば詩織にぶつかるからだ。
実際にトゲの一つが、詩織の眼球数センチ前で止まった。まつ毛とトゲの先が触れている。
詩織は呼吸すら忘れて、固まった。
少しでも動けば殺されると思った。
しばらく膠着状態が続いた。トゲを辿るように目線だけを動かして、戦いがどうなったのかを確認する。男の子は無傷だった。
怪物を止め、なおかつ無数のトゲは、股下や脇などの隙間に通して器用に避けていた。
「うおおおおお!」
男の子は叫びながら、剣を振るった。
距離を詰めていたおかげで、トゲの防御の内側から攻撃をすることができたらしい。まともに剣が当たった怪物の右腕が、砕け散った。この残骸も、月光を反射しながらキラキラと輝き、雪に消えていく。
詩織の顔先にあったトゲが離れて、「ぷはあ」と呼吸ができた。
胸が苦しい。凍りついていた体を取り戻すように、心臓がバクバクと猛烈に動く。
怪物は残った左手で男の子をけん制しつつ、距離を取った。止めを刺そうと男の子が追撃したところに、さっきよりもさらに多いトゲが襲いかかった。まだ余力を残しているのだ。
男の子はすんでのところで立ち止まった。
三メートルほどの距離を隔てて、二人がにらみ合う。
しばらくしてから怪物は背を向けて、木の影に飛び込んだ。男の子はもう追わなかった。
くるりと詩織に向き直り、
「大丈夫?」
冷静に聞いてくる。あれだけ動き回っていたのに、呼吸も穏やかだ。見ていただけの詩織の方が、呼吸も荒いし疲弊していた。
男の子は、剣を左手に持ち替えて、右手をそっと差し出してきた。詩織はそれをつかんだ。別に倒れていたわけでも、しゃがんでいたわけでもないけど、動き出すために必要な握手だった。
男の子は素手だけど、こっちは手袋をしている。だから体温の差がわからない。
引っ張られるようにして一歩目を踏み出した。よかった、なんとか動く。恐怖で歩き方を忘れてはいなかったみたい。
「僕についてきて。他の子どもたちもいるよ」
「君はなに?」
詩織は『誰』ではなく『なに』と聞いた。男の子は人間の姿かたちをしているけれど、人間とは思えなかった。
かといって怪物というわけでもない。
命の恩人であり、謎の存在だ。
「僕は雪の妖精だ」
「妖精?」
「ここにいたら凍死してしまうよ。歩きながら話そう」
ということで、歩き始めていた男の子の後を追い、横に並んだ。
「僕の名前はキオネア。君は?」
「私は鮎川詩織」
「そうか。よろしく、シオリ」
謎の男の子――キオネアは、歩きながらしっかりと周囲を警戒していた。ときどき、目線が右に左に動いている。
「ねえ、雪の妖精ってどういうこと?」
「その名の通りだよ。僕は雪の妖精なんだ」
詩織が次の言葉を紡ぐ前に、キオネアは、
「君たち人間とは、違う世界に生きている存在だ。その世界に名前はないけど、妖精界と呼んだ方がわかりやすいかもね」
「じゃあここがその妖精界なの?」
「違う。ここは妖精たちが生み出した雪の牢獄だ」
「どういうこと?」
詩織たちが生きている人間界がある。キオネアたち雪の妖精が生きている妖精界がある。でもここは、そのどちらでもない世界らしい。
「さっきの怪物を見ただろう」
「うん」
「ここはね、あの怪物を閉じ込めておくための牢獄なんだよ。特別な場所なんだ」
一つ説明されると、わからないことが二つ増える。あの怪物と、妖精との関係はなんなのか。どうして詩織がこんなところに迷いこんでしまったのか。
「君をみんなのところに連れて行ったら、ちゃんと説明する」
「みんな?」
「さあ、ついたよ」
キオネアが雪林の先を指さした。詩織には何も見えない。するとキオネアが指をぱちんと鳴らした。雪がぶわっと舞い上がって、ひときわ大きな木の後ろにかまくらが出現した。
平屋ほどの大きさで、豪華なことに木製の扉までついている。ひっそりと佇むその姿は、まるで大人の影に隠れる子どものよう。
「魔法で隠しておかないと、怪物に襲われてしまうからね」
「隠す? じゃあ、あそこは安全なの?」
詩織が聞くと、キオネアはうなずいた。
「安全だよ。あのかまくらは、怪物と戦うための拠点だ」




