野崎サナの見る世界
サナは、姉に言っていないことがある。いくつもある。
たとえばさっき、キオネアを人質に取るかどうか、という話をしたときに、
――あの人が、本当に妖精の国の王子さまだとしたら、その遺体にも価値があるの。妖精たちはきっと回収に来る。だから遺体を人質に取って、わたしたちが元の世界に帰れるよう、お話しするの。
とサナは言った。
でももしかしたら、雪の妖精は遺体が残らないかもしれない。
なんせ、人間とは体の作りが違う。
胸の奥にあるという雪の結晶――コアを破壊されなければ、死ぬことはないのだから。
じゃあそのコアが砕けたとき、人間と同じように遺体は残るの?
むしろ肉体も粉々に砕け散ってしまう可能性がある。
溶けて消えてしまうという可能性もある。
葬儀に遺体が必要かどうかもわからない。
そもそも葬儀を行うかどうかもわからない。
相手は雪の妖精なんだ。こっちの常識で考えて、作戦を練ってはダメだ。
サナはわかっていた。
今巻きこまれているこの事態は、何もかもが不確かで、あらゆる可能性を考える必要があって、ポジティブな要素は一つもなくて――そして、どれだけ考えても、自分の想像の外からやってくる何かに、盤面をすべてひっくり返されてしまう危険性があるのだと。
サナはわかっていたけれど……。
でも、優を元気づける方法がこれしかなかった。
わかりやすい目標を掲げるしかなかったのだ。
それに、考える意味がないのかと言えば、そんなことはない。どれだけ不確かでも、わかっていることを繋ぎ合わせて生きる道を探すしかない。
そう思っていたところに、怪物が現れた。
想像の外からではないけれど、これも盤面をひっくり返す事態だ。
サナがどれだけ考えようと、怪物と出会うだけですべてが終わる。それでもサナは必死に考える。
一時的でいいから、なんとか逃げ延びる方法はないか。
すると、もう一度、盤面がひっくり返った。
サナのこれまでの経験上、予測不可能な出来事というものは、たいてい悪い意味で訪れる。
でも今回は違った。
春原隼人が助けに来てくれたのだ。彼はたぶん、自分の行動が無謀だと知りながらも、サナと優を守るために、怪物に斬りかかった。
怪物にダメージはなさそうだったけれど、なぜか動きが止まった。隼人の持っている氷の剣をじっと見つめていたかと思うと、急に逃げてしまったのだ。
いったい何が起こったの?
サナにはわからないけど、でも大事な情報の一つとして、頭の中に入れておいた。
あの氷の剣は、かまくらの中にあったものだ。キオネアが刺され、みんなで逃げ出すときに隼人が持ち出すのを、サナは見ていた。
つまり怪物は、キオネアに関係している人物かもしれない。
本当にそうなのかはわからないけど、とにかく使えそうな情報をたくさんストックしておくことが大事だ。
いずれにせよ、あの氷の剣は怪物に対する切り札となり得る。ヴァンパイアに対する十字架のように。
隼人はもう一つ、面白いものを持ってきてくれた。
「これ、かまくらの近くで拾ったんだ。たぶん、キオネアが首から提げていたネックレスだと思うんだけど……」
そう言って、アスタリスクの形の宝石が中央にくっついているネックレスを、ポケットから取り出した。
サナもよく覚えている。
キオネアが話をしている間、ずっと握りしめていた。心の拠り所なのかもしれない。
隙を見て奪えないかと考えたけれど、あのときのキオネアに隙なんかなくて、結局諦めたのだ。それを隼人が持っている。
「ねえ、それ、どうするの?」
サナが聞くと、隼人は頭をかいて、
「どーすっかなあ。一応拾っといたんだけど」
「じゃあ、わたしにくれない?」
「お? なんだ? 欲しいのか? まあ、確かに可愛いもんな」
可愛いから欲しいわけじゃない。
でも訂正する必要もなかった。
「と言ってもなぁ。これはキオネアの物だ。あいつに返さなきゃならない」
「キオネアは死んだでしょ?」
「お、おいおい。お前は盗賊かよ。死んだ奴のネックレスなら貰ってもいいってか」
隼人がドン引きしていた。
こういうところで常識を発揮しないでほしい。
駆け引きしている場合じゃないのに。
「あのねえ、サナは盗賊じゃない! ちゃんと考えがあって言っているの!」
優が文句を言った。でも余計なことまで喋っている気がする。
「なんだよ、考えって」
「それは、その。私にもわからないけど」
誤魔化し方が下手だ。
「お前の方が姉だろ」
「うるさいなあ。サナは頭がいいの! 私よりもいいの! だから私は弾避けでいいの!」
「お、おお。プライドないのかよ……」
どうするべきだろう。
隼人にすべてを打ち明けて、協力を仰いだ方がいい?
いやでも、サナはまだ他の人を信用していない。
黒野が怪しいのは確かだけど、それ以外の人だって、怪しくないわけじゃない。
命を懸けて助けてくれた隼人も?
まだ信用できないの?
自問自答する。
「あ、そういえばな。キオネアは死んでねえぞ」
「え? 死んでいない?」
優とサナが、同時に聞き返した。
隼人はうなずいて、
「生きているのを見た。今は鮎川と一緒にいるはずだ」
「鮎川って、詩織さん?」と優が聞く。
「そうそう。鮎川詩織」
あの二人が一緒にいる?
どういう経緯でそうなったの?
「あれだけの攻撃を受けて、どうやって生き延びたの? あの後、奇跡の逆転をしたの? もしかして黒野が助けたとか?」
サナが聞くと、隼人は「どれでもない」と言った。続けて、
「なぜか怪物はトドメを刺さなかったんだよ」
「どうして?」
「俺に聞くなよ。俺は遠くから見ていただけだ。怪物は、なぜかキオネアを見逃した。その後に詩織がやってきた。そして二人で会話をし始めた。俺が知っているのはそれだけだ」
すると、ここで優が割って入って、
「遠くから見ていただけ? どうして隼人は、詩織とキオネアに合流しなかったの?」
「……別にいいだろ」
なぜか隼人は、そっぽを向いてしまった。すねているらしい。
こういう情報のノイズがサナは嫌いだった。
隼人の反応から、おそらく彼のコンプレックスを刺激するような何かがあったのだと推測できる。
実は恥ずかしがり屋で二人に話しかけられなかったとか、キオネアに罪悪感を抱いているとか、そういったものかも。
詩織のことが好きというパターンもあるかな。あ、でもその場合は、嫉妬に駆られて割りこんだ方が自然かもしれない。
隼人の行動に、合理的な理由を当てはめない方がいいだろうと、サナは判断した。まあ、これは隼人に限ったことではないけれど。
人はそこまで合理的に動かない。もしかしたら、雪の妖精も。
詩織が戻ってきたのは気になる。彼女の正体も、雪の妖精かもしれない。ガラス玉のような青い瞳はしていなかったけれど、そんなのカラーコンタクトで隠せるし、そもそもこれが雪の妖精の条件であるかわからない。
考え始めたらキリがない。
ここであれこれ話し合っていても埒が明かない。
サナは、隣にいる優の袖を引っ張った。これだけで意思疎通が完了した。
優が一歩前に出て、
「キオネアが生きているのなら、私たちもかまくらに戻ろう。みんなで一緒にいた方がいいし、何よりも、私たちが頼れる戦力はキオネアしかいないんだ」
「俺もそこそこ戦えるぜ」
隼人は冗談のつもりで言ったのだろうけど、
「さっきはありがとう。ほんっとうに感謝している。でもなるべく無茶はしないで。隼人には死んでほしくないの」
優が真正面から、隼人の冗談を打ち抜いた。優は続けて、
「生きて帰って、あんたに恩を返すんだから」
恥ずかしそうにうつむいて、少し、はにかみながら言った。
姉の人たらしが炸裂した瞬間である。
「お、おう」
隼人はものすごい勢いで視線を逸らした。
これはお姉ちゃんに惚れたかもしれないなぁ。
すると隼人は元気よく走り出して、
「よし! 行くぞ。二人とも俺についてこい!」
親指を上げて、自分の顔に向けた。
なんというか、わかりやすい性格をしている。
ネックレスを受け取りそこねちゃったけど、まだ隼人が持っていてもいいかな。
「あ、ちょっと! もう少し慎重に歩きなさいって!」
そういう優も慎重さに欠けているというか、彼女の声もたいがい大きいとサナは思った。優は歩き出す前に、サナに目線を合わせて、にっこりと笑った。そして右手を差し出してくる。姉の手は大きく、手袋ごしでも暖かい。
少し離れたところで、隼人がはしゃぐように飛び回っている。もちろん氷の剣はしっかりと握ったままだ。
このメンバーなら、なんとかなる気がする。
サナにしては珍しく、楽観的にそう思った。
「あれ? 誰か倒れている。二人とも来てくれ!」
隼人が、焦ったような声で言った。こちらに振り返ったその顔は、さっきまでの浮かれた表情から一変し、とても不安げだ。
優とサナは顔を見合わせてから、早足で隼人のところに向かった。
本当に誰かが倒れていた。
姿勢はうつ伏せだけど、顔が雪に埋もれているわけじゃない。キオネアが着ていたような、丈の長い白いコートを着ていて、そのコートの上にも雪はそんなに積もっていない。つまり、この人が倒れてからあまり時間は経っていない。
髪の毛は薄い紫色をしている。もちろん見覚えはない。
隼人がそっと近づいて、倒れている人の肩をぽんぽんと叩いた。なんの反応もない。
少しの時間を置いてから、隼人はその人を反転させて、仰向けの姿勢にした。
「うわっ!」
隼人がばっと飛びのいた。
その人の顔に、いくつもいくつもヒビが走っていたからだ。
まるで陶器が人の形をしているみたい。
耳を澄ますと、パキパキと音が聞こえてくる。ヒビは、現在進行形でひどくなっているらしい。現に、サナの見ている前でも顔のヒビがさらに深くなった。頬の亀裂がまぶたにまで届いたけれど、目を開ける様子はない。
おそらく、このまぶたの下は、ガラス玉のように青い瞳をしているはず。
――この人は、雪の妖精だ。
でも、いったい誰なの?
ふと、ヒビ割れたその頬に、一筋の、水の跡があることに気がついた。
泣いていたのかもしれない。
「こいつをどうする?」
隼人が困ったように言った。
優もサナも、すぐには返事をすることができない。
ここに置いて行っていいのかな。
それとも、背負ってでも連れていくべきなのかな。
何も親切心からそう考えたわけじゃない。ここから脱出するために必要なカードとなるかどうかが重要だ。
サナは、姉を助けると誓ったときに、いったん道徳心を封印すると決めたのだ。
直後、隼人の後ろの樹木が、青く光り出した。それが無数の斬撃による、隙間のない残光なのだと知ったのは、辺りいったいが吹き飛んだ後だった。
「伏せろ!」
隼人が叫んだ。その声を聞くよりも早く、優とサナは雪の上にダイブした。
まるで巨大なミキサーの中に放りこまれたような暴風と、どこが発生源なのかもわからない青の刃が飛び交う。
木の枝に幹、葉っぱや雪――そのすべてが舞い上がり、空中で細かく細かく斬り刻まれて、雨のように落ちてきた。
優が、サナの上に覆いかぶさってくれた。その背中に枝か何かが落ちているのだろう、ぱらぱらと音がする。
「うぐ! いたッ! あいたた!」
「お、お姉ちゃん! 大丈夫?」
「大丈夫! たいしたことないよ」
サナを心配させないためなのか、元気よく優が答えた。
ここからでは優の顔を見ることはできないけど、きっと笑顔でいるだろう。
優の両腕に包まれて、嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。今までの人生で、この腕に何度助けられたことだろう。
姉の腕は力強く、姉の手はあったかく、姉の指は優しさであふれていた。
しばらくして、嵐が過ぎ去った。
優とサナは、おそるおそる顔を上げる。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「いいってことよ!」
少し離れたところで、隼人も立ち上がっているのも見えた。
仰向けに倒れている妖精がどこにもいない。サナは焦って辺りを見回した。すぐに見つかった。さっきと同じところに倒れていた。落ちてきた葉っぱや木の枝、雪などが降り積もっていて、その姿を隠していたのだ。
顔の部分の塵をどかしてみたけれど、相変わらずヒビ割れた状態のままだ。やっぱり目を覚ます様子はない。でもさっきの暴風で、新しい傷が増えたというわけでもない。
サナは、ほっと息をついた。
良かった。みんな無事だ。
それだけわかったら、すぐに状況の確認をする必要がある。
ぐるりと周囲を見回してみたけれど、見える範囲に樹木がまったくなかった。見渡す限りに雪原が広がっているだけ――。
これだけ視界がひらけても、この世界の果ては見えなかった。
人工の建造物も、自然の山々も存在しない。ひらけたことで、不自然さがさらに上がった気がする。
サナは、仰向けに倒れている妖精をもう一度見た。
この妖精は罠だったの?
近づいてきた人間を殺すために、怪物が仕掛けたとか?
でもそれにしては、襲ってきた風と刃の精度が低かった気がする。樹木ばかりが切り裂かれて、子どもたちには傷一つついていない。
ひゅっと、サナの横を何かが通り過ぎた。その何かと、別の何かが激突する。
再び風が吹き荒れ、青い閃光が飛び交った。
サナは両腕を顔の前に上げて、なんとか風をやりすごす。優がポンチョを広げて、サナをすっぽり包むように、背後から抱きしめた。今度はうつ伏せになるほどじゃなかったけれど、それでもすさまじい衝撃だ。
何かと何かがようやく止まる。
サナが見たのは、二人の雪の妖精が、つばぜり合いをしているところだった。




