詩織とキオネア
鮎川詩織は、雪林の中で一人、声を出さずに泣いた。
泣いていてもどうにもならなかった。
ここにはお父さんもお母さんもいない。助けてくれる人は誰もいない。涙はただ、雪の上に落ちて消えるだけ。そこに雪が降り積もって、詩織が泣いた後さえ残らない。
自分の命も、きっと同じだ。
ここで怪物に殺されたら、殺された後すら残らずに消えていく。お父さんとお母さんはこの先ずっと、詩織が生きていると信じて探し続けるだろう。そんなの嫌だ。
涙を拭って立ち上がる。
自分の力で、どうにかしなきゃ!
と、気合を入れたのは良いけれど、やっぱり周囲には何もない。
降り積もる雪と、同じような樹木が連なるばかり。
逃げるにしても、戦うにしても、指針がない。
かまくらでまとまっていた子どもたちは、散り散りに逃げてしまった。
このままじゃ、怪物に一人一人追い詰められ、殺されていくのがオチだ。
どうしたって戦力がいる。
「あのとき……黒野はなんと言っていたっけ?」
キオネアがトゲに貫かれたあのとき――黒野はなぜか「大丈夫だ」というようなことを口にしていた、ような気がする。
必死だったからあまり覚えていないけれど。
詩織は必死にあのときの記憶を掘り返す。
どうして黒野は大丈夫だと言ったの?
妖精の……コア。コアと言っていた。コアに傷がついていないから大丈夫、だったかな?
だんだん思い出してきた。
雪の妖精は、胸の奥にあるコアを壊されない限り死なない、だったような気がする。
でもどうして黒野が、そんなことを知っているの? 彼は何者?
詩織にはわからないことが多すぎる。かまくらの中でキオネアが語ってくれた情報は、この迷宮についての、ほんの一部でしかなかった。その奥には、もっと複雑な事情がたくさんたくさん絡みあい、渦を巻いているのかもしれない。
国の土地が足りないとか、領土争いとか、ぶっそうなこと言っていたしね……。
そのすべてを詩織が知る必要はない。これは「雪の妖精の国に行き、その問題を解決しなきゃ!」といった甘い話じゃないのだ。
詩織は、妖精たちの巨大なパワーゲームに巻き込まれた、非力な人間でしかなかった。できることは限られている。
ここから生きて脱出する方法さえわかれば、それでいい。
「まずは黒野くんを探そう」
彼はなんらかの情報を持っている。それに、ここは任せろ、とも言っていた。
もしかしたらキオネアのことを助けてくれたかもしれない。もしそうだとするなら、早いところ黒野とキオネアの二人に合流した方がいい。
詩織はきびすを返して、自分の足跡を逆にたどり始めた。
怪物が追ってくる危険性も考えて、ときどき足元の雪をぐちゃぐちゃにしたり、変な方向に足跡をつけたり、木の影に身を隠したりしながら移動した。
まあ、こんなことをしていても、見つかるときは見つかるだろうし、死ぬときは死ぬだろう。
それでも、できることは、ちゃんとやっておきたかった。
慎重に歩いたから、けっこう時間がかかってしまった。
でも無事に、崩壊したかまくらのところに戻ってくることができた。
かまくらは、壁が半分以上崩れ、天井は崩落し、暖かな空気が見る影もなかった。イスやベッド、アンティーク調のランプも壊れている。
そんなかまくらの近くに、誰かが仰向けに倒れていた。
キオネアだ。
目を開けている。詩織が近づくと、瞳を動かしてこっちを見た。
どうやら生きているらしい。
「だ、大丈夫?」
詩織は慌てて駆けよった。
「……ああ」
「体、動かした方がいい? それとも動かすのは危険?」
仰向けで倒れているわけだから、つまり背中が雪に接している。雪の妖精だから寒さには強いだろうけど、その体勢でいいのか気になった。
「とりあえず、このままでいい。後もう少しすれば、体を動かすことができるようになる」
「そう」
すごい回復力だ。
ほとんど全身を貫かれていたのに。
「なあ、どうして僕は生きているんだ?」
「どうしてって……」
聞かれても困る。
詩織は何も知らない。
「私はなりふり構わず逃げただけだから、わからないよ。でも黒野くんが『後は任せろ』って言っていたから、彼が助けたんじゃないの?」
詩織はその可能性にかけて、この場所に戻ってきたのだ。でも周囲に黒野はいなかった。
春原隼人も、野崎優も、野崎サナもいない。
みんなはどこに行ってしまったのかな。
「黒野が?」
キオネアは納得がいっていないようだ。でも考えたところで答えは出ないと判断したのか、
「まあ、いい」
それ以上の詮索を避けた。
キオネアは、ゆっくりと上体を起こして、近くの木にもたれかけるようにして座った。詩織はすぐそばで、立ったまま彼を見守る。初めて会った時のような力強さがなくなっていた。怪物に殺されかけたことで、彼の中の何かが失われてしまったみたいだ。
銀色の髪も、ガラス玉のような青い瞳も、白磁のように滑らかな肌も――その何もかもが、くすんで見える。
近くの木の枝に積もっていた雪が、どさどさと落ちた。キオネアはその音に驚き、頭を抱えてうずくまってしまった。
「だ、大丈夫だよ。雪が落ちただけ――」
詩織がそう声をかけたけど、キオネアは顔を上げない。
うずくまったその背中が震えている。
初めて会ったときに助けてくれた。怪物との間に割って入り、華麗な剣技で怪物をしりぞけた。自分こそが怪物を倒すのだと豪語していた――その彼が、音に怯えて、何もできずに震えている。
詩織は、キオネアのその姿にショックを受けた。
あなたに助けを求めて、ここまで来たのに。
あなただけが希望なのに。
そう言いたかった。
こんな状況なんだ。他力本願にだってなる。人間の力でどうにかできる問題じゃないし、そもそも勝手に拉致してきたのは雪の妖精の方だ。
この怒りは、この失望は、当然の感情だ。
でも同時に、キオネア一人に責任を負わせるのは違うかもしれないとも、思った。彼は一人で、この迷宮に来てくれた。
人間を助けようとしてくれた。
同族のやり方に反発してまで、助けようとしてくれたんだ。
頼ってばかりいちゃ、ダメだ。
詩織は、キオネアの背中にそっと手を伸ばした。でも触っていいのかわからず、一度は手を引っ込めた。
何度かちゅうちょしているうちに、けっこうな時間が経ってしまった。
それでもキオネアの震えは止まらない。これはもう、放っておくわけにはいかない。
――優しく触れてみる。
キオネアはびくっと全身を震わせたけれど、詩織が撫でていると、じょじょに落ち着きを取り戻していった。詩織は雪の上に膝をついて、キオネアをふわりと抱きしめた。
やっぱり人間の体温とは違った。冷たい。
でも人間と同じ柔らかさだ。
「大丈夫だよ。大丈夫」
頭を撫でてみる。キオネアは文句を言わないで、されるがままになっている。
こんな感じで、いいのかな……?
詩織が落ちこんだときに、お母さんがいつもしてくれることを、マネしてみたのだけれど。
妹や弟がいるわけじゃないから、こういうことをしたのは初めてだ。
もう一度、頭を撫でてみる。すると頭を少しだけこちらに傾けてきた。もっと撫でてほしいのかもしれない。まるで猫みたい。
可愛くて、少し笑ってしまった。
髪の毛はサラサラで、いいなぁ、羨ましいなぁと思う。
ずっと触っていられる。
しばらくそうしていると、キオネアが、
「もう大丈夫」
とキオネアは言い、ゆっくりと顔を上げて、詩織に向き直った。
真正面から見つめてくる。
そのガラス玉のような青い瞳に、吸い込まれそうになる。
「ありがとう。シオリ」
「名前……憶えていてくれたの?」
「もちろんだよ。僕には君たちを守る責任があるからね。それなのに……」
キオネアは、自分の右手を見つめた。
全身の震えは止まったけれど、指先はまだ震えていた。
詩織は何か声をかけようとして、
「くしゅん!」
シリアスな空気を壊すようなくしゃみをしてしまった。
キオネアは驚いたようにこちらを見た。それからもう一度、自分の手に視線を向けた。震えが止まっていた。
キオネアはふっと笑って、
「ねえ、シオリ。少しいいかな?」
「少しって? 何が?」
キオネアはそれに答えず、立ち上がって、崩壊したかまくらの方に向かった。魔法を使ったのだろう、周囲の雪を集めて固めて、最初にあったのよりも二回りほど小さなかまくらをあっという間に作り上げた。
さらに魔法を使って、かまくら全体の姿を消してしまう。
これで安心、というわけじゃない。怪物はさっき、これと同じような隠蔽魔法を突破して襲いかかってきた。
何もしないよりはマシ、という程度かもしれない。
キオネアが右手を動かして、透明な何かをつかんだ。かまくらの扉だった。それを開けてから振り返って、
「話を聞いてほしいんだ」
「どんな話?」
「いろいろ」
そんなことをしている場合なの?
ああ、でも、今のキオネアに必要なことなのかな。
「ま、いいよ」
詩織はエスコートされる形で、かまくらに入った。
暖かな空気が、全身を包む。
中にはベッドもテーブルもなかったけど、木製のイスが二脚だけ置かれていた。さっきの襲撃で、かろうじて壊れなかったイスだ。
キオネアと向き合うように、イスに座った。
二人して顔を見合わせる。キオネアはなぜかそっと視線を逸らした。
でも気まずいというわけじゃない。
その状態のまま、しばらく時間が過ぎる。話を聞いてほしいと言ったはずのキオネアが、なかなか喋り始めない。
ここは詩織が口火を切るしかないか。
「それで、どうしたの?」
「……僕は、」
「僕は?」
「弟がいるんだ」
「え? 弟?」
詩織が想像していたのとは別の角度から、話が始まった。
そしてキオネアは語った。
ものすごい才能を持っている弟との確執。
いつ継承順位がひっくり返るかわからない焦燥感。
才能ある弟、アイオーンのコアは、十二花結晶という形をしている。それを人工的に再現しようとした組織がいたけど、失敗した。
誰が被検体だったのかキオネアは知らないけど、不運なそいつは、同族である雪の妖精を殺しまわるような怪物になってしまった。
だから怪物は、できそこないの十二花と呼ばれている。
その十二花さえ倒せれば、キオネアが父の後を継ぐことに文句は出ないだろう。
でも――
「あの十二花に負けてしまったことで、心の中の何かが、ぽっきり折れてしまったんだ。何も僕が後を継ぐ必要なんてない。弟のアイオーンが継げばいい。そう思ったんだよ」
「……」
アイオーンが本当にすごい妖精なら、そっちの方がいいかもしれない。
詩織もそう思ったけれど、部外者が口を出していい問題じゃない。
「僕は、どうすればいい?」
「私にはわからないよ」
でもね、と詩織は続ける。
「迷ったときは、せいいっぱい迷えばいい。とことん迷えば、答えはきっと見つかるよ」
「とことん迷う、か」
「なんてね。ここに連れてこられて、とことん迷ったけど、私はまだ答えを見つけていないんだ。だから、いまいち実感の湧かない言葉なんだけどね」
そもそも答えってなんだろう。
脱出することが答え?
お母さんが言っていたのは物理的な迷宮のことじゃなくて、もっとこう、心が迷ったときに意味を持つような言葉な気がする。
いや……同じことなのかな?
「僕は、いい言葉だと思うよ」
「ありがとう。お母さんがいつも言ってくれていたの」
そう口にして、急に悲しくなった。今すぐにでも、家に帰りたかった。お母さんとお父さんに抱きしめてほしかった。そんな詩織の感情が、顔に出ていたのかもしれない。
キオネアが、急に詩織の頭を撫でた。彼の手の感触が冷たくて、驚きは二倍だ。
「ひゃあ!」
思わず悲鳴を上げてしまう。
「さっきのお返し」
キオネアがにっこりと笑った。まるでいたずら好きの、同年代の男の子みたい。
「話を聞いてくれて、ありがとう。シオリだけは、いや、今回巻きこまれてしまった子どもたちだけは、絶対に元の世界に帰すよ。やはり生贄を人間に肩代わりさせるのは間違っている。シオリのような子が殺されるのは、間違っているんだ」
「う、うん」
詩織のような子って。
どうして私が基準になっているの?
そう聞きたかったけど、自意識過剰みたいだったから止めた。
「みんなを救わなきゃならない。それが王子である僕の務めだ」
落ち込んでいる場合じゃないな、とキオネアは苦笑した。
それから急に真面目な顔になって、
「シオリ、君には恩がある」
「恩って、そんな大げさな……」
「大げさじゃない。何か、僕にしてほしいことはないか? 何でも言っていいよ。僕にできることなら、なんでもする」
「うーん」
キオネアにできること?
ぱっと言われても思いつかない。詩織は腕を組んで考えた。
今一番の望みは、
「ここから出たい」
「それは僕の責務だ。もっと個人的なことで構わない」
えー? 難しいな。
もう一度腕を組みなおして、考える。
考えて考えて考えて、下を向いて、かまくらの床に壊れたアンティーク調のランプが転がっているのを見つけた。
怪物の襲撃で壊れてしまったランプだ。
明かり。火。炎。焚火……。
忘れていたけれど、そういえば今日は一月一日だったっけ。
あ、そうだ!
「私の友達になってくれない?」
「友達?」
「あ、無理ならいいの。王子さまに対して図々しかったよね。ごめんごめん。忘れてください」
「いいよ」
「そうだよね。ダメだよね……って、あれ?」
聞き間違いじゃないよね?
詩織がおそるおそる、キオネアの顔を見ると、彼は力強くうなずいて、
「いいよ。友達になろう」
「え? うそ? ほんと? 友達になってくれるの?」
「あ、ああ」
「やったやった! ありがとう!」
生まれて初めて友達ができた!
もうこれで死んでもいい――わけがない。今は冗談でも、そんな言葉を口にしたくない。せっかく友達ができたんだ。生きて帰って、一緒にやりたいことがたくさんある。
「あれ? でもキオネアは人間界に来られるの?」
「そうだな……。王位はアイオーンに譲るつもりだが、国は今、未曽有の問題にぶつかっているしね」
そっか。王位は譲るのか。
どうしたらいいのかわからない、と言っていたけれど、もう決めたみたいだ。
「その問題が片付いた後でいいなら、いくらでも会いに行こう」
「うん! わかった!」
それがどれだけ時間のかかることか、詩織にはわからない。雪の妖精の時間感覚が、人間と同じとは限らない。
こういうときは浦島太郎の話を思い出す。
もしかしたら一生会えないかもしれない。
それでも詩織は嬉しかった。
自分には友達がいると思うだけで、生きる気力が湧いてくる。
だから、そんな友達に迷惑をかけたくない。
キオネアが直面している問題の、足かせになりたくない。
ここから無事に帰ることができたなら、キオネアとの日常を妄想するだけでいい。それが詩織の考える幸せだ。それだけで充分だ。
「よし。じゃあまずは、ここから脱出するために、他の子どもたちを探しに行こう」
キオネアが立ち上がり、先に進んで扉を開けてくれた。
詩織も後を追う。一緒にかまくらから出る。
暖かな空気の場所を後にして、冷たい戦場へと戻っていく。
「行こう、シオリ」
「うん!」
覚悟を決めて歩き出そうとしたところで、
「お久しぶりですね、キオネア兄さま」
声をかけられた。
もう一人の、雪の妖精が立っていた。
その妖精の顔は、どこかキオネアに似ていた。




