9話 ジャッジの夜
谷に来て、10日がたった。
ぼくは、あせっていた。
ゆっくり動くことと、重い木刀の型をくり返すことだけの毎日。
中継のコメント欄には、毎日のように同じような言葉が並ぶ。
『イグニシア、今日も太極拳w』
『おじいちゃんの体操かよ』
『予選なしで即終了』
≪ほら、みんなわかってる≫
≪このままじゃ、間に合わない≫
ぼくは、夜中にこっそり、ネオの中の一般AIに打ちこんだ。
『最速で強くなる訓練メニューを出して』
答えは、すぐに出た。
『全力ダッシュ50メートル×10本。高所カラノ跳躍着地20回。重量物ノ持チ上ゲ……』
(これだ)
次の日の夜明け前、ぼくは美咲さんが起きる前に、ぼくのテントを抜け出した。
◇ ◇ ◇
空気が、刺すように冷たい。
星がまだ、谷の上に残っている。
ぼくは、アーマーなしで、谷の林の中を全力で走った。
一本。二本。
息が、焼けるように熱い。
五本目で、足の豆がつぶれた。
じんと熱い痛みが、なぜか、少しだけ心地よかった。強くなっていく音が、足の裏から聞こえる気がした。
かまわず、跳躍に移る。
林の中の岩の上から、地面へ飛び降りる。
十回。十五回。
十八回目。
着地した瞬間、右の足首が、ぐきりと内側に曲がった。
「……っ!」
声にならない痛みが、足首から頭のてっぺんまで駆けのぼった。
ぼくは、岩の上にうずくまった。
足首が、どくどくと脈打っている。
◇ ◇ ◇
「なんで、ひとりでやったの」
テントに戻ると、美咲さんはそれだけ聞いて、ぼくの足首を見た。
川の水でぬらした布を、ぐるぐると巻いていく。
ひやりとして、そのあと、じんじんと痛んだ。
「AIが、このメニューがいいって」
「そのAIに、何を伝えた?」
「……最速で強くなる方法」
「あなたの足の豆のことは?」
「……」
「谷に来て、まだ10日だってことは? アーマーなしで林の中を全力で走ったことがないってことは?」
ぼくは、何も言えなかった。
AIは、ぼくの足首を見ていない。
ぼくが、何も伝えなかったから。
山を下りた夜に、美咲さんに言われたことを思い出す。
目的。状況。制約。
(状況を、ひとつも書いてなかった)
「AIはね」
美咲さんは、布の端を結びながら言った。
「聞かれたことに、いちばんよさそうな答えを返す。でも、あなたの足の豆も、足首の細さも、あなたが言わなければ知らない」
ぼくは、新幹線の中の自分を思い出した。
『高校、どこに行けばいい?』
あのときも、ぼくは何も伝えていなかった。
何が好きなのか。何が苦手なのか。何が怖いのか。
伝えられるものを、ぼくは何も持っていなかった。
布を巻き終えると、美咲さんは、テントの外で、ゆっくりと腕を動かしはじめた。
毎朝、見せてくれる、あの動き。
「そのゆっくりした動き、どこから来たんですか」
美咲さんは、動きを止めずに答えた。
「千代先生から聞いた話だけどね」
「体の力を抜いて、相手の力を使う。その知恵は、ずっと昔の中国で生まれたんだって。言い伝えでは、何千年も前」
「それから、千五百年くらい前に建てられた少林寺というお寺では、お坊さんたちが、平和を守るための武道として、拳法を伝えてきた。昔は、国の皇帝を助けて戦ったこともある、中国でいちばん強いと言われた人たちだったそうよ」
「太極拳のように、ゆっくり動く拳法が形になったのは、もっとずっとあと」
美咲さんの手が、空気をなでるように、すうっと横に流れた。
「体の使い方の知恵は、海を渡って、日本にも届いた。武士たちは、それを剣や組み打ちの技に育てた。そして戦国時代に、伊賀や甲賀の忍びが、自分たちの作法と術として、とことん磨きあげた。……って、千代先生は言ってた」
「それ、本当なんですか」
「どこまでが本当で、どこからが言い伝えなのか、わたしにもわからない。でも」
美咲さんは、腕を下ろした。
「何百年も、何千年も、誰かが、誰かに手わたしてきた動き。それだけは、たしか」
◇ ◇ ◇
その日の午後、足首に布を巻いたまま、アーマーを着た。
休めと言われたのに、休みたくなかった。
遅れを、取り戻したかった。
「ネオ、もっと速く!」
『了解』
ネオが、アーマーの脚の出力を上げる。
でも、ぼくの体がついていかない。
足首が痛い。肩に力が入る。腕がかたまる。
「もっと速く動けって言ってるだろ!」
『……命令ノママニ』
鎧の脚が、勝手に前へ出た。
ぼくの体は、置いていかれた。
ぐしゃっ。
ぼくは、泥の中に顔から倒れた。
泥が、兜のすきまから流れこんで、口の中まで入ってきた。
じゃりっと砂が歯にあたる。土と、鉄くさい水の味がした。
頭の上で、中継ドローンがブーンと回っている。
中継のコメントが、さっそく流れたらしい。
『顔から行ったw』
『芸人かよ』
泥の中で、ぼくは動けなかった。
足音が近づいてきた。
美咲さんが、泥の中にしゃがみこんだ。
手を貸すでもなく、怒るでもなく、ひとつだけ聞いた。
「今、体のどこに、力が入ってた?」
「……どこって」
「倒れる直前」
ぼくは、泥の中で考えた。
肩。腕。歯。
ぜんぶ、かたかった。
「……ぜんぶ」
美咲さんは、それ以上何も言わずに立ち上がった。
そのあとも、二回転んだ。
転ぶたびに、泥だらけのまま、起き上がった。
◇ ◇ ◇
夜、雨が降りだした。
テントの布を、雨粒がぱらぱらと叩く。
ぬれた布の、かびくさいにおい。
足首が、ずきずきと痛む。
≪弱い≫
≪才能がない≫
≪逃げろ≫
≪また負ける≫
≪2年生にも負けた≫
≪どうせ、最下位だ≫
頭の奥の、低い声。
小学生のころから、ずっとぼくについてくる声。
ぼくは、その声に、こっそり名前をつけていた。
ジャッジ。
審判。いつも、ぼくに判定を下すから。
誰にも言ったことはない。名前をつけたら、少しは怖くなくなる気がしたのに、ちっとも小さくならなかった。
涙が、耳のほうへ流れていった。
声を出さないように、寝袋のはしをかんだ。
テントの入り口が、そっと開いた。
美咲さんだった。
美咲さんは、何も言わずに、ぼくの横に座った。
しばらくして、ぽつりと言った。
「服部家ではね、元服を迎える子に、昔から伝える習慣があるの」
「……習慣?」
「一年の目標。一か月の目標。一週間の目標。今日の目標。それを決めて、毎晩、一日をふりかえる」
美咲さんは、ランプを少し明るくした。
「千代先生も、毎晩、ノートをつけてた」
ぼくは、リュックからノートを出した。
辺境伯に返事をする前に、『目的』を書いた、あのノートだ。
新しいページを開く。
『今日できなかったこと』
・休めと言われたのに休まなかった
・AIに状況を伝えなかった
・ネオにどなった
・泥に倒れた
書くほど、ペンが重くなる。
そのとき。
……今日、ひとつだけ、できたことは?
あの、やわらかい声がした。
ジャッジの声とはちがう。
責めない。急がない。ただ、待っている声。
ぼくは、ペンを止めた。
ひとつだけ。
泥の中に倒れたあと、ぼくは、どうした?
……立った。
足首が痛くても、顔が泥だらけでも、立った。
三回倒れて、三回立った。
ぼくは、ページのいちばん下に、小さく書いた。
『今日できたこと 泥の中で、三回立ち上がった』
美咲さんは、それを見て、少しだけ口のはしをゆるめた。
「書くのが習慣になるまではね、誰かに見てもらうといいの。ひとりだと、すぐやめちゃうから」
「……美咲さんが、見るんですか」
「今のあなたには、わたしがいる。だから、安心して」
美咲さんは、ランプのつまみに手をのばした。
「そのかわり、一日でもさぼったら、そのノート、中継ドローンの前で読み上げるからね」
「やめてください!」
くすっと、美咲さんが笑う声がした。
それから、ランプが消えた。
暗闇の中で、雨の音だけが続いていた。
寝る前に、ぼくは小さな声で言った。
「ネオ。……どなって、ごめん」
『……許ス。いと、をかし』
「そこ、『をかし』じゃないだろ」
言ってから、ぼくは首をかしげた。
……あれ。をかしって、なんだっけ。
おかしい、じゃなかった。それは覚えている。でも、その先が出てこない。
『ヒントヲ、ヒトツ』
ネオが言った。
『隠レ里ニテ、我ハ、風ニ向カイテ、ソノ言葉ヲ使イシ。……我ハ、風ヲ、ケナシタカ? ホメタカ?』
「ほめた……んだと思う。たぶん」
『ナラバ、今宵ノ我ハ、汝ノ謝罪ヲ、ドウ受ケ取リシカ』
ぼくは、暗闇の中で考えた。
考えているうちに、まぶたが重くなってきた。
暗闇の中で、ネオのレンズがちかっと光った。
笑ったのかもしれない。




