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ブレッド・コロシアム ――”敗者のいない世界の罠” 今日、ぼくはAIと生まれ変わる  作者: Hamin
第2章 王家の谷

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8話 泥と風の谷

谷は、赤かった。

両側にそびえる崖《がけ》は、さびた鉄のような赤茶色をしている。

その間を、風が笛のような音を立てて吹き抜けていく。

ひゅう、ひゅうう。

口を開けると、砂がじゃりっと歯に当たった。

「ここが、王家の谷。バトルバレー」

美咲《みさき》さんが、崖を見上げて言った。

「昔の勇者たちが、大会の前にこもった場所」

崖のところどころに、四角い穴があいていた。

近づいてみると、それは岩をくりぬいてつくった部屋だった。

壁には、色あせた絵が描かれている。

鎧《よろい》を着た戦士たちが、並んで剣をかかげている絵。

その中に、ひとりだけ、剣を持たずに素手で構えている戦士がいた。

(なんで、この人だけ武器を持ってないんだろう)

ネオが、その絵の前で、しばらく動かなかった。


◇ ◇ ◇


予選まで、あと29日。

谷での毎日は、こうだった。

日の出前に起きて、午前中は古武術の時間。

昼からは、アーマーを着て、谷の奥の泉まで行って帰ってくる。往復30キロ。

ネオの補助があれば、アーマーは時速10キロほどで歩ける。それでも、夕方には足の裏が焼けるように熱くなった。

夜は、テントの前でたき火をかこむ。

中継ドローンは、一日中ぼくたちの頭の上をついてくる。

ネオも、ときどき近くからぼくたちを撮ったり、声を中継に送ったりしているようだ。

美咲さんは、寝る時間と、川で体を洗う時間だけ撮影を止める「撮影ブロック」を申しこんでいた。止められるのは、一日に10時間まで。

(残りの14時間、ぼくは世界じゅうに見られてるのか)

考えないことにした。


◇ ◇ ◇


古武術の時間は、退屈だった。

美咲さんは、ほとんど何も言わない。

ただ、ゆっくりと動いてみせる。

右手を前に。左足を少し引く。体の重さを、片方の足から、もう片方の足へ。

水の中を歩くみたいに、ゆっくり、ゆっくり。

ぼくは、それをまねる。

「もっと、こう、パンチとかキックとかは?」

「ない」

「じゃあ、いつ強くなるんですか」

美咲さんは、動きを止めずに言った。

「足すんじゃなくて、引くの」

「引く?」

「力を足して動こうとすると、体はかたくなる。いらない力を引いていくと、体は勝手に動く」

わかったような、わからないような。

ぼくは、ゆっくりと腕を前に出した。

肩が、ぴくりと上がる。

(あ、力、入ってる)

引こうとすると、今度は腕ごと下がってしまう。

ゆっくり動くのは、速く動くより、ずっと難しかった。


半日続けると、太ももがぷるぷると震《ふる》えた。

昼が近づくと、美咲さんは、岩の部屋から木刀を二本持ってきた。

受けとった瞬間、腕が、がくんと下がった。

重い。

剣道部で振っていた木刀の、倍の重さはありそうだった。

「これ、重すぎませんか」

「本物のエラストマーの刀は、もっと重い。鎧の上から斬《き》るために、厚く、重く作られてるから」


素振り、百本。

十本で、肩が焼けるように熱くなった。

三十本で、木刀の先が、ふらふらとぶれはじめた。

竹刀なら、手首で振れた。

でも、この木刀は、手首では振れない。腕の力でも足りない。

(……足から?)

地面を踏む足の裏から、膝《ひざ》、腰、背中、肩へ。

体ぜんぶをつなげて振り下ろしたとき、一本だけ、木刀が、ひゅっと風を切った。


◇ ◇ ◇


素振りのあとは、形稽古《かたげいこ》だった。

中学の剣道部でも、木刀で「面」「小手」「胴」の基本の打ちをやったことはある。

でも、あれは、決まった場所を、決まった順に、軽く打つだけだった。

これは、まるでちがった。

木刀を持って向かい合い、打つ側と受ける側が、決められた順番どおりに、技を出し合う。

「わたしが打つ。あなたは、決められたとおりに受けて、返す」

美咲さんの木刀が、まっすぐ、ぼくの頭に向かってくる。

かあん。

乾いた音がして、手のひらが、じんとしびれた。

美咲さんの返しの一撃は、ぼくの額の手前、指一本分のところで、ぴたりと止まった。

前髪が、木刀の起こした風で、ふわりとゆれた。

「木刀は、竹刀とちがう。本気で当てたら、骨が折れる。だから、打つ力と同じくらい、止める力がいる」

同じ形を、何十回もくり返した。


くり返すうちに、少しずつ、わかってきたことがある。

相手との、距離。半歩近すぎると、受ける前に打たれる。半歩遠いと、返しが届かない。

相手が動きはじめる、その一瞬《いっしゅん》。美咲さんは、肩より先に、腰が動く。

受けるのが早すぎても、遅すぎてもだめ。ちょうどの瞬間がある。

そして、足の運びと木刀の動きがばらばらだと、どちらも、うまくいかない。


休みのあいだ、美咲さんは、水筒の水を飲みながら言った。

「戦国時代の武士はね、刀だけじゃなくて、弓も、槍《やり》も、組み打ちも、馬に乗って戦うことも、ぜんぶ身につけたの。終わりのころには、鉄砲まで」

「馬……」

「あなたの場合は、アーマーが馬みたいなもの。乗りこなせないと、戦えない」

美咲さんは、木刀を肩にかついだ。

「槍と弓は、そのうち。それに、ひとりで強くなっても、戦いには勝てない。仲間と組んで戦う稽古も、いつかやる」

汗《あせ》が目に入って、しみる。

(これで、本当に戦えるようになるのかよ)


◇ ◇ ◇


昼からの30キロは、もっときつかった。

アーマーを着ると、目線がぐんと高くなる。

赤い岩の道が、どこまでもまっすぐ続いている。

最初の5キロは、楽しかった。

風を切る感じが、ゲームの中のキャラクターみたいで。

10キロで、肩がこった。

15キロ地点、谷の奥の泉で折り返すとき、アーマーを脱いで、水に足をひたした。

足の裏に、白い豆がいくつもできていた。

氷みたいに冷たい水が、熱をもった豆にしみる。

「いってえ……」

声が出た。

でも、冷たさが痛みを少しずつ吸いとっていくようで、しばらく足を上げられなかった。

美咲さんは、ぼくの足を見ても、何も言わなかった。

ただ、自分の腰の袋から、うすい布を一枚出して、ぼくの横に置いた。

足をふく布だった。

帰りの15キロは、足の裏がじんじんして、もう何も考えられなかった。


◇ ◇ ◇


夜。

たき火が、ぱちんとはぜる。

焦げた薪のにおいが、髪にしみつく。

美咲さんは、ランプの下に、一枚の紙を置いた。

『x+y=10

x−y=2』


「……これ、数学ですよね」

「そう」

「異世界に来てまで?」

「毎晩、一問だけ」

ぼくは、紙をネオのほうへすべらせた。

「ネオ、これ解いて」

『x=6、y=4ナリ』

一秒もかからなかった。

「ほら。AIがあれば、こういうの、いらないじゃないですか」


美咲さんは、怒らなかった。

ただ、二つの式の下に、すっと線を一本引いて、その下に、一行だけ書き足した。

『この式は、何を表している?』

「え?」

「ネオに聞いてみて」

ぼくはネオを見た。

ネオのレンズが、ちかちかと点滅した。

『……不明。式ノミデハ、意味ヲ持タヌ』


美咲さんは、紙を折りたたんで、ぼくの上着のポケットに入れた。

「答えは、AIが出せる。でも、式をつくるのは、その場にいる人だけ」

それだけ言うと、美咲さんは自分のテントに行ってしまった。

ぼくは、たき火を見つめた。

式を、つくる。

その意味が、まだよくわからなかった。


◇ ◇ ◇


その夜。

寝袋にくるまっていると、テントの外から、かすかな声が聞こえた。

ネオだ。

予備電池から充電中のネオが、寝言のようにつぶやいている。

『……カゲ……ミツ……』


「ネオ?」

声をかけると、レンズがぼんやり光った。

『……何カ、言イシカ』

「今、カゲミツって」

『……記憶ニ、ナシ』

ネオのレンズは、すうっと暗くなった。

風が、テントの布をばたばたと鳴らしていた。

昼間、岩の部屋で見た絵を、ぼくは思い出した。

武器を持たずに、素手で構えていた、あの戦士。


眠れなくなって、ぼくはランプを持ってテントを出た。

岩の部屋の中は、昼間よりずっと冷たかった。

ランプの明かりを、壁の絵に近づける。

色あせた戦士の体が、ゆらゆらとゆれる光の中に浮《う》かびあがった。

右手を前に。左足を少し引いて。

体の重さを、うしろの足に、ほんの少しだけ残して。

(……あれ?)

ぼくは、その場で、絵と同じ形をとってみた。

午前中、美咲さんがゆっくりと見せていた動き。

その途中の、ひとつの形と、そっくりだった。

背中が、ぞくりとした。

ランプの油が、じじっと小さな音を立てた。

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