10話 氷の中の少女
足首のはれがひいたのは、5日後だった。
その間、ぼくはアーマーを着ずに、ゆっくり動くことだけを続けた。
ふしぎなことに、痛い足首をかばってゆっくり動くと、いらない力が、少しだけわかるようになった。
(痛いところをかばうと、ほかの場所に力が入る)
(じゃあ、痛くなくても、同じことをしてるのかも)
口には出さなかった。
でも、ノートには書いた。
◇ ◇ ◇
その日、ぼくたちは谷の北側へ向かった。
北の谷は、南とはまるでちがう世界だった。
雪山から吹きおろす風が、鎧のすきまから入りこんでくる。
吐く息が、白く凍る。
足もとの霜が、ざくざくと音を立てる。
「北の岩場は、昔、罪人を閉じこめる場所だったらしい」
美咲さんが言った。
「なんでそんなところに」
「熱い場所ばかり歩いていたら、寒さに弱いアーマーになる。両方、知っておかないと」
岩場の角を曲がったときだった。
ネオが、急に止まった。
『生体反応、アリ』
「え?」
ネオのレンズが、岩の割れ目を照らす。
そこに、氷の柱があった。
人の背丈ほどの、青白い氷。
その中に――
少女が、いた。
◇ ◇ ◇
ぼくと同じくらいの年に見えた。
短い金色の髪。
ぼろぼろの革の服。
背中には、折れた弓と矢。
目を閉じて、膝を抱えたまま、氷の中に閉じこめられている。
氷の前に、木の札が立てられていた。
見たことのない文字。
『翻訳ス。……罪人・スパイ。動カスナ』
ぼくは、息をのんだ。
氷の表面に、手を当てる。
冷たさが、鎧ごしにも伝わってきた。
少女の腕が見える。
袖のすきまからのぞく肌が、赤くひび割れていた。
かきこわしたような、細い傷あと。
唇は、紫色だった。
『生体反応、微弱。体温、低下中。……長クハ、持タヌ』
≪関わるな≫
ジャッジの声が、すぐに来た。
≪スパイだぞ≫
≪動かすなって書いてある≫
≪助けたら、おまえまで罪人だ≫
≪おまえには、関係ない≫
関係ない。
辺境伯の前で、ぼくが言ったのと、同じ言葉だ。
ぼくは、美咲さんを見た。
美咲さんは、黙ってぼくを見ていた。
止めもしない。うながしもしない。
(ぼくが、決めるのか)
頭の中に、いくつもの顔が浮かんだ。
ガラクタの山で空回りしていた、ネオのレンズ。
配給所で、パンをもらえなかった子ども。
ぼくは、氷に手を当てたまま言った。
「……出そう」
声が、少しふるえた。
でも、取り消さなかった。
◇ ◇ ◇
氷は、かたかった。
鎧の拳で殴ると、表面に小さなひびが入るだけで、手首がじんとしびれた。
「力を、一か所に集めすぎ」
美咲さんが言った。
「どうすれば」
美咲さんは、答えなかった。
ぼくは、古武術の時間を思い出した。
足すんじゃなくて、引く。
拳を、引いた。
今度は、手のひらを氷に当てる。
足の裏から、膝、腰、背中、肩、腕へと、ゆっくり重さを流していく。
ネオが、その流れに合わせて、鎧の腕を押した。
ぴしっ。
ぴしぴしっ。
ひびが、氷の中を蜘蛛の巣のように広がっていく。
がらがらと、氷がくずれた。
少女の体が、前に倒れてくる。
ぼくは、とっさに鎧の腕で受け止めた。
軽かった。
びっくりするくらい、軽かった。
◇ ◇ ◇
辺境伯の病院は、谷の入口から馬車で半日の町にあった。
美咲さんは、リンクスの少ない予算から、いちばん高い回復薬を買った。
「いいんですか。お金……」
「助けると決めたのは、あなた。お金を出すと決めたのは、わたし」
病院へ向かう馬車の中で、少女はずっと眠っていた。
がたごとと、車輪が石を踏む音。
毛布にくるまれた少女の腕を、美咲さんがそっと出した。
ひじの内側や手首が、赤くかさかさにひび割れている。
美咲さんは、腰の袋から小さな容器を取りだして、白いクリームを指にとった。
ひび割れたところに、うすく、ていねいにのばしていく。
ほのかに、草のようなにおいがした。
「暖かい土地で育った、肌が弱い子なんだと思う。寒さと乾燥で、すぐにこうなる」
「そんな子が、なんで、あんな寒い場所に……」
美咲さんは、答えなかった。
少女の眉が、眠ったまま、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
消毒薬のにおいがする白い部屋で、少女は一度だけ目を開けた。
青い目だった。
ぼくを見るなり、少女は叫んだ。
「Don't touch me!(さわらないで!)」
ネオが、二秒遅れて訳す。
『……サワルナ、ト言ッテイル』
「わかってるよ、今のは」
少女は、毛布を体に巻きつけて、ベッドのすみへ下がった。
ぼくは、ゆっくりと言った。
「ぼくは、レン。きみは?」
ネオが訳す。
二秒。三秒。
少女は、ネオとぼくを見比べた。
それから、小さく言った。
「……Vesca.」
「ヴェスカ」
くり返すと、ヴェスカはぷいと顔をそむけた。
しばらくして、窓のほうを向いたまま、ぼそりと言った。
「Why did you help me?(どうして、助けたの?)」
ネオが訳す前に、ぼくはなんとなく意味がわかった気がした。
でも、答えられなかった。
自分でも、よくわからなかったから。
ネオが訳し終わるころには、ヴェスカはもう目を閉じていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
病室のベッドは、空っぽだった。
窓が、開いている。
冷たい風が、白いカーテンを揺らしていた。
枕の上に、一本のきれいな羽根が置いてあった。
灰色の、矢羽根。
ぼくは、それを拾い上げた。
指先が、まだかすかに冷たかった。
(礼も言わずに、行っちゃった)
でも、なぜか、腹は立たなかった。
ぼくは矢羽根を、ノートのページのあいだにはさんだ。




