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ブレッド・コロシアム ――”敗者のいない世界の罠” 今日、ぼくはAIと生まれ変わる  作者: Hamin
第1章 ノクターン

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5話 隠れ里のノクターン

夜明け前に、ぼくとネオは山に入った。

美咲《みさき》さんには、何も言ってこなかった。

言えば、止められる気がした。

それに、あの辺境伯《へんきょうはく》の顔を、もう一度見る勇気がなかった。

ネオは、車輪で器用に山道を登っていく。

ぼくは、その後ろを息を切らしてついていった。

「ほんとに、こっちで合ってる?」

『我ガ記憶ニ、誤リナシ。……タブン』

「たぶんって言った!?」

『冗談ナリ』

ロボットが、冗談を言った。

ぼくは、思わず少し笑った。

この世界に来て、初めて笑った気がした。


◇ ◇ ◇


霧《きり》が濃《こ》くなってきた。

木々の向こうから、水の音が聞こえる。

細い滝《たき》だった。

ネオは迷わず、滝の裏側へ回りこんだ。

岩のすきまに、人ひとりがやっと通れるくらいの道がある。

冷たいしぶきが頬《ほお》を打ち、口の中に、かすかに苔《こけ》の味がした。

しぶきを浴びながら、そこを抜けると――

霧が、晴れた。

小さな谷に、石垣の上に建つわらぶき屋根の家が十軒ほど、寄りそうように並んでいた。どの家にも、古風な縁側《えんがわ》がついている。

田んぼがあり、畑があり、細い煙《けむり》が何本も空へのぼっている。

まるで、日本の昔話に出てくる村だった。

(ここ……本当に異世界?)

そのとき、音が聞こえた。

音楽だった。

ゆっくりとした、やさしい曲。

ひとつひとつの音が、夜の終わりの空気に溶けていく。

ぼくは、その音に引かれるように歩き出した。


◇ ◇ ◇


村のいちばん奥に、古い家があった。

開け放たれた縁側の向こうで、ひとりの老人が、見たことのない楽器を奏でている。

ピアノに似ているけれど、ずっと小さい。木の箱の中から聞こえる音は、ささやくように細かった。

白い髪。白いひげ。

やせているのに、背中はまっすぐだった。

曲が終わるまで、ぼくは声をかけられなかった。

最後の音が消えると、老人は鍵盤から手を離し、ぼくを見ずに言った。

「ノクターン、という曲だ」

「ノクターン……?」

「夜想曲。夜に思いをめぐらせる曲。遠い世界の、ショパンという人がつくった」

ショパン。

音楽の授業で、名前だけは聞いたことがある。

「どうして、この世界で」

老人は答えなかった。

ゆっくりと立ち上がり、縁側に出てくる。

ネオのレンズが、激しくまたたいた。

『……シェン、ロウ』

老人の目が、ネオの上で止まった。

ほんの一瞬《いっしゅん》、その目が大きく見開かれた気がした。

「……そうか。おまえが、ここへ連れてきたか」


◇ ◇ ◇


シェンロウと呼ばれた老人は、ぼくを縁側に座らせ、湯のみにお茶をいれてくれた。

あたたかい。

かじかんでいた指が、少しずつほどけていく。

ひと口飲むと、少し苦くて、あとからほんのり甘かった。囲炉裏《いろり》の煙のにおいが、湯気にまじっている。

ぼくは、思いきって聞いた。

「あの……コロシアムで、どうすれば勝てるんですか」

シェンロウは、お茶をひと口すすった。

それから、静かに言った。

「勝ったら、次は何をする?」

ぼくは、口を開きかけて、止まった。

勝ったら。

勝ったら、帰れる。

帰ったら、受験。

受験したら、高校。

高校に行ったら――

何をする?

『服部。何のために、高校へ行く?』

古川《ふるかわ》先生の声が、耳の奥でよみがえった。

同じだ。

同じ問いだ。

ぼくは、また答えられなかった。

シェンロウは、それ以上何も聞かなかった。

答えを待っているようにも、待っていないようにも見えた。


◇ ◇ ◇


ネオが、縁側の下でかたかたと車輪を鳴らした。

『いとをかし。この里の風、いとをかしき風なり』

ぼくは吹き出した。

「おかしい? 風がおかしいって、なに」

すると、シェンロウが初めて、少しだけ口元をゆるめた。

「『をかし』は、おかしい、ではないぞ」

「え?」

「昔の言葉では、趣がある、心がひかれる、という意味だ。『いと』は、とても。つまり、そやつは『この里の風は、とてもすてきだ』と言っておる」

ぼくはネオを見た。

ネオは、得意げにレンズを光らせている。

(ロボットに、古文で負けた……)


◇ ◇ ◇


シェンロウは、湯のみを置いて立ち上がった。

そして、縁側の板の上を歩きはじめた。

何も言わずに。

ぼくは、その足を見て、目を疑った。

音が、しない。

古い板の縁側なのに、きしむ音がまったくしない。

よく見ると、シェンロウのかかとは、床にほとんどついていなかった。

足の指のつけ根あたりで、すっと床をなでるように進んでいく。

体は、まったく上下に揺《ゆ》れない。

まるで、水の上をすべっているみたいだった。

縁側の端まで歩くと、シェンロウはまた戻ってきて、何事もなかったように座った。


ぼくは、立ち上がった。

まねをしてみたくなった。

一歩。

ぎしっ。

二歩。

ぎしぎしっ。

ひどい音だった。

ネオが、レンズを点滅させている。笑っているのかもしれない。

「くそ……」

もう一度。かかとを上げて、そっと。

ぎしっ。

だめだ。

何度やっても、板が鳴る。

シェンロウは、お茶を飲んでいた。

アドバイスは、ない。

ぼくが五回目に板を鳴らしたとき、シェンロウがひとつだけ聞いた。

「今、足の裏は、どこで床にふれている?」

ぼくは、自分の足を見下ろした。

どこで?

考えたこともなかった。

(かかと……いや、足の裏全体? 指?)

わからない。

自分の足なのに、わからない。


◇ ◇ ◇


日が高くなってきたころ、シェンロウはぼくの顔をじっと見つめた。

長い時間だった。

ぼくは、なんだか落ち着かなくなった。

「あの……ぼくの顔、なにかついてます?」

シェンロウは、ふっと目をそらした。

「……消えた弟子に、似ている」

それだけ言うと、シェンロウはまたクラヴィコードという、ピアノのずっと昔の祖先にあたる鍵盤楽器の前に座り、さっきの曲を奏ではじめた。

ノクターン。

ぼくは、その背中に、それ以上何も聞けなかった。


◇ ◇ ◇


山を下りたのは、夕方だった。

谷を出て、滝の裏の道を抜けると、岩の上に人影があった。

美咲さんだった。

「……なんで、ここに」

「あなたが山に入るところ、TV中継のドローン映像に映ってた」

美咲さんは岩から飛び降りた。

「わたしは、里には入れない。呼ばれていないから」

「呼ばれて……?」

美咲さんは、それには答えなかった。

暗くなりはじめた山道を、ぼくたちは並んで下りた。

ぼくは、ネオに聞いた。

「ネオ。ぼくは、どうしたらいい?」

ネオのレンズが、しばらく点滅した。

『問イガ、広スギル』

「は?」

『何ヲ、ドウシタイノカ。今、何ガ起キテイルノカ。何ヲ守ラネバナラヌノカ。ソレナクシテ、我ニ答エハ出セヌ』

ぼくは、ぽかんとした。

AIって、なんでも答えてくれるんじゃないのか。

美咲さんが、ポケットから小さなノートとペンを取り出して、ぼくに差し出した。

「書いてみたら」

「何を」

「質問を、分けるの。いちばん上に『目的』。何をしたいか。その下に『状況』。今、何が起きているか。それから『制約』。守らなきゃいけないこと」

ぼくはノートを受け取った。

星が、出はじめていた。

この世界の星は、ぼくの知っている星座とはちがう並び方をしていた。


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