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ブレッド・コロシアム ――”敗者のいない世界の罠” 今日、ぼくはAIと生まれ変わる  作者: Hamin
第2章 王家の谷

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12話 〈翔の章〉影の務め

百キロ極限走の前の夜。

宰相府《さいしょうふ》の長い廊下に、翔の足音は、ひとつも響かなかった。

かかとをつけない。足の指のつけ根で、床をなでるように。

真田《さなだ》の忍びの歩き方だ。


突き当たりの扉の前で、翔は片ひざをついた。

「入れ」

部屋の中で、パクスが、窓の外の夜景を見ていた。

「明日の予選のとき、ひとつ頼みたい」

パクスは、振り返らずに言った。

「イグニシアの芽。この代役を、スタートから少しのあいだだけ、気にかけてくれ」

パクスは、窓に映る自分の顔を見ながら続けた。

「あのリンクスが、忍びのおまえの目から見て、危ない者たちかどうか知りたい。見きわめたら、あとは、おまえの速さで上位を目指せばいい」

「……あの、支持率0%のリンクスを、ですか」

「0%だからだ。弱い者は、ときどき、思いもよらないことをする」

翔は、頭を下げた。


部屋を出るとき、廊下の暗がりに、黒い外套《がいとう》の男が立っていた。

顔をおおう仮面。

影秘の毒針の、ヴァイパ。

翔とすれちがうとき、ヴァイパは、仮面の奥で、くっと笑った。

翔は、目を合わせなかった。

あの男とは、同じ主君に仕えていても、同じ道は歩かない。

3年前、そう決めたのだ。


◇ ◇ ◇


3年前。

ロマ王国に来て、ひと月がたったころ。

パクスは、13歳の翔に、最初の務めを与えた。

「北の領地の、ベルク伯爵《はくしゃく》の屋敷を調べてほしい」

その冬、北の領地では、配給のパンが足りなくなっていた。

伯爵は「麦《むぎ》が不作だった」と言っている。

けれど、伯爵の屋敷からは、毎晩、宴《うたげ》の音楽が聞こえてくるという。


翔は、ひとりで屋敷にしのびこんだ。

屋根の雪を、ひとつも落とさずに渡る。

見張りの兵の、息のリズムを数える。吸って、吐いて、そのすきまに、影から影へ。

屋敷の地下に、鍵《かぎ》のかかった扉があった。

鍵穴《かぎあな》に、細い針金《はりがね》を二本さしこむ。

かちり。

扉の向こうは、天井までとどく麦袋の山だった。

乾いた麦の、甘いにおいが、地下室いっぱいにこもっていた。


◇ ◇ ◇


翔の報告の翌朝、パクスの兵が、伯爵の屋敷に入った。

その日の昼、北の領地の配給所に、焼きたてのパンが山のように届いた。

翔は、配給所の前から、それを見ていた。

やせた子どもが、両手でパンをかかえて、かぶりついている。

その横で、母親が、声を出さずに泣いていた。

翔は、自分の世界の、焼けた村を思い出した。

冬が来るたびに、倒れていった子どもたち。

自分には、何もできなかった。


「よく、やってくれた」

いつのまにか、兵たちを連れて配給所をおとずれたパクスが、翔のとなりに立っていた。

「わたしはね、翔。誰も飢えず、誰も負けて苦しまない国をつくりたいのだ」

パクスは、配給所の行列を見下ろしていた。

その横顔は、さびしそうで、それでいて、まっすぐだった。


数日後、ベルク伯爵は、王都に呼び出された。

翔の胸の奥で、何かが、かちりと音を立てた。

主君と共に、正しき世をつくる。

祖父に聞かれて、答えられなかった問い。

正しき世とは、何だ。

(……これだ)

誰も飢えない国。

それをつくろうとする主君。

それこそが、真田が仕えるべき相手ではないのか。


◇ ◇ ◇


その夜、パクスは、翔に言った。

「わたしの影になってほしい。国じゅうの貴族の動き、隣国の動き、金の流れ。見て、聞いて、わたしに知らせてほしい」

翔は、しばらく考えた。

それから、ひとつだけ、条件を出した。

「真田の刃は、正面からしか抜きませぬ。闇討ちは、いたしませぬ。人を斬《き》るのは、試合の場でだけ」

パクスは、少しだけ目を細めた。

「よかろう。……闇の仕事は、別の者にさせる」

別の者。

そのとき、部屋のすみの暗がりで、黒い外套が、かすかにゆれた気がした。


「もうひとつ、約束しよう」

パクスは言った。

「おまえたちがコロシアムピックで勝ったなら、王冠の願いで、おまえの世界への門を開くといい。この国のアーマーとエラストマーを、おまえの世界へ運ぶのだ。それで、おまえの世界の戦を終わらせればいい。わたしも、喜んで後押ししよう」

翔は、深く頭を下げた。

床についた手が、かすかにふるえていた。


その夜、パクスは、翔に、たたまれた一枚の服をわたした。

首から足首までつながった、うすい服。

赤かった。

「異世界から来た者のための服だ。命があぶなくなれば、元の世界へ帰してくれる」

パクスは言った。

「真田の赤備えにあわせて、赤く染めさせた。アーマーも、竜も、赤でそろえるといい」

翔は、その服を、両手で受けとった。

あたたかい手ざわりだった。


◇ ◇ ◇


宰相府から戻った翔は、宿舎の部屋で、小さな画面をひらいた。

イグニシアの芽の、中継の記録。

泥の中で転ぶ少年。

夜のランプの下で、紙とにらめっこしている少年。

氷の中から、スパイの少女を助け出す少年。

「……甘い」

翔は、つぶやいた。

敵国のスパイを助けて、何になる。


画面が、熱風の回廊の場面に切りかわった。

少年が、熱い風の中に、一歩を踏み入れる。

翔の目が、少年の足もとに吸いよせられた。

かかとを、つけていない。

足の指のつけ根で、岩をなでるように進んでいく。

体が、上下にまったくゆれない。

翔は、思わず身を乗りだした。

「……伊賀《いが》の、歩法」

真田の巻物《まきもの》に描かれていた、家康《いえやす》の本陣を守る者たちの歩き方と、同じだった。


まだ、未熟だ。足の運びに、迷いがある。

それでも、たしかに、あれは、忍びの足だった。

翔は、画面を閉じた。

窓の外で、第二首都へ向かう輸送車の列が、夜の道を走っていく。

「明日、この目で見る」

翔は、刀を手に取った。

さやの中で、刃が、かすかに鳴った。


部屋の戸が、そっと開いた。

楓と源太が、顔をのぞかせた。

3年前、翔といっしょに光の門をくぐった、霧隠《きりがくれ》の家の娘と、筧《かけい》の家の跡取《あとと》りだった。

「若。明日の予選の段取り、確かめておきますか」

「ああ」

翔は、二人を部屋に入れた。

小さな灯りの下で、三人は、地図の上に頭をよせた。


「……若。さっき、画面で、伊賀の、と言っていましたね」

楓が、小さな声で聞いた。

翔は、しばらく黙っていた。

「三百年前に、真田が破った者たちの、血だ」

源太が、ごくりとつばを飲んだ。

翔は、地図の上の、首都のコロシアムを、指でとんとたたいた。

「だからこそ、見ておきたい。……負けた側の血が、どこまで来られるのか」

(第2章 了)

うまくいかない夜にも、「今日できたこと」をひとつ見つけられますように。

第2章「王家の谷」を最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

足すのではなく、引く。蓮の修行は、まだ始まったばかりです。

★評価やブックマークは、ネオのレンズがちかっと光るくらい、作者のうれしい力になります。これからもよろしくお願いします。

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