第七話~スマホ~
「お先に失礼します、お疲れ様でした」
終業時間になると投げるようにそう挨拶し、私はすぐさま経理部を飛び出した。もう一分一秒も今は森本さんの傍にいたくない。その一心だけで足早に会社を後にする。
一瞬見えた課長の呆気にとられた顔、他の人達の眉根をひそめた顔が脳裏をかすめた。けれどそんなもの、どうでもいい。どんな噂をされ、どんな陰口を言われてもかまわない。だってみんな、私ほど森本さんの視線を受けていないだろうから。
あの怖ろしい眼差し、気配無く傍に立っている怖さを知らないんだ。
ビルの間を舞う不規則な夕暮れの風が、ねっとりと絡みつく。額をじっとり湿らせるのはまだ暑さ残る風のせいか、それとも後ろから迫る恐怖なのかはわからない。
振り向かなくてもわかる。今日もまた、追ってきてるんだろうというのが。
無機質な人達をすり抜け、少しでも先を目指す。いつもは最短距離で行くけど、今日は前の信号が赤ならばわざと曲がった。足を止めたくなかったのと、足取りをわからなくさせるため。
それでもこの風のせいか、ずっと背後の嫌な感じが拭いきれない。
交差点に差し掛かるたび、甲高く妙に大きな誘導音が頭の中をかき乱す。雑踏や街のざわめきはぼんやりしているのに、それだけがはっきりと聞こえる。
不意にまぶたに何か当たった。
「……雨?」
歩道の途中で立ち止まり、手をかざす。すると小粒の雨がパラパラと降り注ぎ、アスファルトを染め上げていくのが見えた。寒くはないけど、濡れるのは嫌だ。
目の前の横断歩道は赤のまま。ここを渡れば駅まではすぐ。足を止めたくはなかったけど、ここを曲がらないと遠回りになってしまう。だからもう仕方なしに足を止め、私はおそるおそる振り返った。
いない。
大きな男の人はチラホラいるけど、大きな女の人はいない。森本さんならばその雰囲気、立ち姿ですぐ目につくけれど、どこにもその姿は無かった。
私を見失ったのだろう。
溜息が雨に溶けた。重くなる空に反して私の心は少し軽くなり、青に変わった横断歩道を悠々と歩く。あんなに嫌がっていた雨でさえ、少しくらい打たれるのもいいかとすら思えてくる。
心なんて、見え方一つなのだろう。
それでも本降りになる前に駅には入りたかったので、小走りで向かった。
駅に入ると、私を含め軽く濡れた人達が多いからかわずかに眉根を歪ませる臭気と湿気に嫌気がさした。まぁ、それも仕方のないこと。今は一刻も早く家に帰り、心の平穏を取り戻したい。何なら帰りにちょっと良いケーキでも買って、自分の機嫌をとってあげてもいいだろう。
改札口の近くに来た時、私はスマホを取り出そうとした。が、無い。
「えっ? あれ?」
服の上をパタパタと叩き、何度もあさる。手にしていたバッグの中には無いとわかっていても、開けて何度も中を確認する。けれど、無い。どこにも無い。
会社に置き忘れてきたのだろうか。最近、余計な事を考える機会が多いからかハッキリと覚えていないんだよなぁ……。
幸い財布はあるから切符は買える。けれどもし、スマホを本当に無くしたとなれば大問題だ。何もかもを入れているため、解約してまた再契約して設定し直して……考えるだけでうんざりする。
明日会社に戻ったら、よく探してみよう。
先程までの気持ちがすっかり萎え、気だるげに財布を取り出そうとした時だった。
「北野さん」
ぼそりと不意に背後から声をかけられた。聞き覚えのある低音の響きにゾッとしながらおそるおそる振り返れば、森本さんが立っていた。
私は全身の毛が逆立ったかのような恐怖と驚きに襲われ、思わず「ひぃっ」と短く叫んでしまった。
行き交う人波が私達を見ているのかどうか、わからない。もう様々な音がぼやけ、世界が彩を失っていく。灰色の流れの中、私は駅の通路で立ち尽くすばかり。
「驚かせてしまいましたか。すみません……」
ギロリと舐めるような視線がもう一度私を身震いさせた。
一体どうして私を呼び止めたんだろうか。さっぱりわからない。追いつかれたのはきっと、私があれこれ浅知恵を使って尾行を振り切ろうとしてたからだろう。
結局無駄なことをしただけだった。
数秒の沈黙の後、会話のボールがこちらに渡されていることに気付いた。私は強張った顔で何とか森本さんの顔を見る。
「えっと……どうかしたの?」
相変わらずじいっと私を見ている。その目、その視線が私を貫く。そうして後頭部辺りにゾワゾワとした気持ち悪さを這わせる。
「あの……大事なお話が、あります」
音のぼやける世界で、なお彼女の声は小さく聞き取りにくかった。
大事な話とは何だろうと一瞬考えたものの、すぐにその疑問を頭の中で潰す。そんなもの、どうでもいい。ここは会社ではないし、そこから離れればもう関係のない人。それに今はただ何とか帰って、一人きりになりたかった。
「あ、あぁー……えっと、ちょっと急いでいるから。ごめんね、また明日会社で」
ひきつった笑顔でなんとかそう言い、私は逃げるようにその脇を通り過ぎようとした。
「北野さん」
もう一度呼び止められた。無視するのが可哀想とかそういうのではなく、逆恨みされないため私は再び笑顔を向ける。
「ごめん。またね」
「これ、北野さんのですよね」
すうっと森本さんがバッグから取り出したのは見覚えのあるスマホケースだった。花火と花をあしらった、少し傷付いたクリアケースは私のもので間違いない。それを森本さんは中指と親指でつまむように持っていた。
「え……どうして、それを?」
私はもう見つかった安堵よりも先に、森本さんがそれを持っていることに恐怖した。
「お話があります」
今度はもう少しハッキリと、森本さんが言葉を発する。私はもう動けなかった。今、私はスマホを人質にされている。ここで断ったり無視しようものなら、それがどんな扱いをされるかわからない。
きっと私は泣きそうな顔をしている。けれどもう隠す事さえもおっくうになり、そのままうなずいた。
「では、立ち話も何ですから……」
森本さんが再びバッグに私のスマホをしまった。そうして辺りをゆっくり見回すと、ある一点で動きが止まる。何事かとその視線の先を追えば、喫茶店があるのに気付いた。存在は知っていたけど、一度も入ったことのない場所。だから中の状況がどんな風なのか、さっぱりわからなかった。
それでも私は従うしかなかった。




