第六話~缶コーヒー~
午後の仕事が一段落し、私はトイレ休憩を済ませた。個室から出る時、ドアをそっと開け外をうかがう。そしてトイレから出る時にまた森本さんがいないかと辺りを見回した。どうもいないみたい。そうして思わず安堵の溜息をついた時だった。
「どうしたの?」
声をかけてきたのは第二営業部の松下瑠衣さんだった。私と同期入社で、営業部の人の中ではまだ話しやすい。営業部の中で相談するなら彼女だと思っていただけに、ちょうど良かった。
「あぁ、松下さん。ちょっと聞きたいことがあって。今、大丈夫?」
「いいよ、今ヒマだから」
快活な笑顔でそう答えてくれるだけで、どんなに心が軽くなることか。誰かとあまり話さない私からすれば、もうそれだけで嬉しかった。
立ち話もなんだからと私達は休憩室へ移動し、缶コーヒーを彼女に手渡した。別にいいのにと笑って言ってくれたけど、折角時間を取ってもらったのだからこのくらいはしたい。
時間が時間だけに、他に人がいない。お昼時なら混み合って会話すらままならないような場所なのに、今は少しの声でも響く。だから声量を落とすように心がけていた。
「珍しいね、北野さんが私を頼るなんて。何かあったの?」
「うちの部署の森本さんって人のことなんだけど、知ってるよね?」
ほぼ同時に缶コーヒーを開けると、喉を潤すために一口飲んだ。
「あぁ、森本さんね。もちろん知ってるよ」
「前は営業部だったんでしょ。どんな人だったか教えてほしいの」
「どんなって……」
思い出すように唇をとがらせ、腕組みをする。けれどその時間はすぐ終わり、視線が合わさった。
「見たまんまかな。無口で、あまり話題にも参加しないで、正直何を考えているのかわからない人って感じ。全然営業向きじゃないよね」
「そうなの。だからなんで営業部にいたのかなって思って」
すると松下さんは苦笑しながら缶コーヒーを傾けた。
「うちの会社、これと言って決め手のない人はみんな営業部で採用するからね。鴨川さん言ってたよ、とにかく最初は営業部に入れて数増やすって。辞めるならそれでもいいし、続けられそうならやってもらうって」
「あぁ、あの人らしい……」
鴨川さんは人事部の古参で、確か役職は課長。古い考えの人で若い人からは人望が無いけど、上には結構気に入られているみたいだ。滅多に会わないけど、武勇伝と昭和を引きずったセクハラの言動が多いので私も苦手。
「だから北野さんみたいに最初から経理の人は珍しいのよ。私は営業好きだから問題無かったけどね」
「私は簿記一級持ってたし、ファイナンシャルプランナー二級も持ってたからね」
「だからだよ。一級持ってる新卒なんてそうそういないからね」
褒められ嬉しくなるけど、口が緩む前に話題を戻す。
「で、森本さんの働きぶりはどうだったの?」
「想像してる通り。全然ダメ。一年で一度も契約取れてないんだもの。営業に同席しても何もできないし、むしろ相手からクレームだってあったのよ。怖いって」
黒髪で刺青も無く、黙ってる女性が怖いだなんてクレーム聞いたことない。そんなのは森本さんくらいだろう。
「まぁ、そうだろうね。でもそれって森本さんだけじゃなくて」
「鴨川さんが悪い」
私達は小さく笑い合う。なんだか心が通じ合っている気がして、笑い声以上に嬉しさが大きく押し寄せてきた。そうして二人とも鴨川さんがいないか辺りを確認すると、今度はもう少しだけ大きな声で笑う。
「で、経理に来てからはどうなの?」
私は缶コーヒーから口を離すと、小首を捻る。
「まぁ正直、周囲とはちょっとね。仕事ぶりも可もなく不可もなくというか、若干物覚え悪いかも。でもまぁ、何とかやってけそうではあるかな。仕事に関しては」
「仕事に関しては、ね」
松下さんが苦笑しながら缶コーヒーに口付けた。
ここで尾行されているとか監視されているかのようだとか言うつもりはなかった。下手に相談すれば広まるし、ましてや松下さんは営業部の人間。普段関わりが無いから、自分の部署で何を話すかわからない。
「まぁ、うちも人手不足だし辞めさせないようにしてあげて。一応あの人、希望異動部署で経理を挙げてたんだし」
「経理に?」
私が眉根を寄せると、松下さんがこくりとうなずいた。
「そう。まぁ、営業向きじゃないしシステムとか総務って柄でもないでしょ。よくわからないけど、経理ならマイペースでやれると思ったんじゃないかな」
そう言うなり、くいっと松下さんが缶コーヒーを傾けた。
「そろそろお客さんとの打ち合わせに向かうから、今日はこれで。また何かあったらいつでも声かけてね」
「ありがとう」
松下さんを見送ってから、私もそろそろ戻らないとと思い経理部へと歩を進める。
しかし、どうして森本さんの希望部署が経理だったんだろうか……。
戻る道すがら、そればかりが頭を占めていた。特に計算が得意そうだったり、何か資格を持っているという話も聞かない。真面目に取り組んでいるものの物覚えは悪く、どうしても消去法で決めたんじゃないかと思ってしまう。
いやでも、そこに何らかの意図があるのなら彼女の秘密がわかるかもしれない。
そう意気込んであれこれ考えてみたものの、結局何一つこれだという理由が思い当たらないまま経理部のドアの前まで辿り着いてしまった。それもそうだ、彼女が何を考えているのかなんてきっと誰にもわからないのだろうから。
静かに入室すると、森本さんがいないことに気付いた。私はどこかほっとしつつ自分の机に目を向けると、おやっと目を見張る。
そこには缶コーヒーが置かれていたから。
もう少し近付くと、缶コーヒーの下に何やらメモがあるのに気付く。自分の席に戻ってから汗をかいた缶コーヒーの下に置かれていたそれを手に取る。
『先程はありがとうございました 森本』
缶コーヒーからの結露が文字を滲ませていた。そうでなくとも線が揺れ、どこか角ばった奇妙な字体。下手というわけじゃなく、明朝体を頑張って手書きで書いたかのような感じなのだが不安をあおるような印象を受ける。
森本さんが書いたからだろうか。いや、この感じは誰だって同じ思いを抱くだろう。
確認のため右隣を見る。森本さんはまだ戻ってきていない。
果たしてこれは飲んでもいいものなのだろうか。そんな葛藤が生まれ、なかなか缶を手に取れない。けれど缶だし、何かを混入させることは不可能だろう。それに開封された形跡もない。
手に取ると、ぺちゃりと結露が手につく。冷たさは幾らかそのまま私のてのひらに吸収されるけど、大半が残ったまま。数秒じっと見詰めていたけど、やっぱり飲むのが怖くなってきた。
でも捨てるのはもったいないので、私はティッシュで結露を拭きとると引き出しの二段目を開けてそこに入れた。そしてその下にあったメモはそっと手の中でくしゃくしゃに小さくしてから、ゴミ箱の奥の方へと押し込む。
まるで完全犯罪の達成感を抱いていると、ドアが開いた。
ぬうっと森本さんがかなり静かに入ってきて、そうっとドアを閉めた。私はすぐに視線を戻し、意味もなくデータファイルを開いて確認するふりを始める。
森本さんは何も言わない。ただ、じっと私を見ているのがわかる。右上からの視線が刺さり、不快と好奇心が同時に疼く。気になるけど、目を合わせたらどうにかなってしまいそう。
それが怖くて仕事をしているフリを続けていると、やがて森本さんがそっと座った。
視線の圧が途切れたのはそれから五分ほど後だったろうか。ずうっと圧を感じていた右側頭部を撫でるように髪をかき上げ、まとわりついていたものを拭う。そうしてそのまま右手をキーボードに持っていくと、目の端で森本さんの方を見た。
カタカタとゆっくり何か打ち込んでいた。私の速度の半分以下だけど、仕事を再開してくれたんだ。そう思うと心がふっと軽くなり、張り詰めていた緊張の弦が緩む。
だからつい、森本さんの表情が気になった。仕事に集中している今ならば、一瞬盗み見してもわからないだろう。そんな考えが私の視線を動かしていた。
目が合った。
横目どうしだったが、重たい髪の毛越しにギラギラした目が私の視線を完全にとらえていた。そうしてゆっくり私の方へ顔を向け、じいっと。
私はもう目を丸くして肩を震わせ、叫び声をあげないようにするだけで精一杯。一瞬心臓が止まったかのような驚きと恐怖に、何もかもが凍りつく感覚に襲われる。目の前が白み、音が世界から遠ざかったかのよう。
そして息が止まっているのに気付いて自分のパソコンに目を向けた時、ゆっくりと息を吐く。けれど身体中が脈動するような血の流れが私をクラクラさせる。
間違った。
見てしまった。
見られた。
私はもうじっとしていられず、立ち上がるなりよろけながらドアの外へ出る。とにかくどこでも良かった。ただ、森本さんから離れたかった。その一心は足をもつれさせながら、何とかトイレの個室へと私を運ぶ。
ガチャリと震える手で鍵をかけると、そのままドアに両手をつきうなだれた。
まぶたの裏で鮮明によみがえるあの眼差し。私はそれを嫌って目を開けると、不意に視界がぐらついた。眩暈だ。そして心臓が苦しいほど早鳴っている。私は左手をドアについたまま、右手で胸を押さえた。
「うっ……おえっ……」
喉が渇き、奥がぺっとりとくっつくような感覚に思わずえずく。更に視界が揺らぎ、ぎゅっと目を閉じればパタパタと数滴床に落ちる音がした。そのせいか鼻の奥が重く、更に息苦しさを増幅させる。
こんなとこでなにしてるんだろう、私……。
荒い呼吸を繰り返し、胸がトイレの臭気で満たされる。目元の化粧はもう乱れてしまったけど、直せない。人前に出られる顔じゃない上、ここから出たくない。でもそんなことはかなわないと百も承知。
キィっと音が鳴ったような気がした。耳鳴りが酷い。さっきから淀んだ空気が乱れる感じがするけど、眩暈の余波だろう。
もう頭がおかしくなりそうだ。
やがて呼吸が落ち着くと、私はトイレットペーパーで鼻をかんだ。少しざらついた紙質がティッシュよりも硬く、何度も拭えば鼻が真っ赤になりそう。だから必要最小限の使用で目元を含めそれなりに綺麗にすると、もう一度溜息をついてからそれを流した。
戻るしかないか。
いつまでもここにいたって仕方ない。戻らなければ課長に怒られるし、それを無視していればきっと事態は大事になっていくだろう。そうなったら何を言えばいい。森本さんと目が合ったから逃げました、怖かったから逃げました。
そんな言い訳、通じるわけがない。
もう一度溜息をつくと、私はトイレの鍵を開けた。そうしてうつむきながらドアを開けて出るなり、何かにぶつかり尻もちをついた。私は訳がわからず顔を上げると、目の前に濃いグレーのスカートが見えた。
「大丈夫、ですか?」
そこにいたのは森本さんだった。ぬぼっと両手を横にし、ややうつむいているからかいつも以上に表情が見えない。まさかここにいるとは思っていなかったからか、私は思わず「うわぁ」と叫んでしまった。
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
もうすっかり恐怖に支配された私はなりふり構わずその脇をすり抜け、走って逃げ出す。目立つとか目立たないとか、世間の目とか、もうそんなのどうでもよかった。廊下にどれほどハイヒールの音が響き渡っても構わない。
足を止められなかった。焼けつく肺の痛みを感じつつも、止められなかった。廊下には誰もいない。誰かいればきっと、日常に戻れる。誰もいない今は、私と森本さんだけの世界に閉じ込められたかのよう。
妙に廊下が長く感じる。背後から静かに迫ってくるのが、振り向かなくてもわかった。もがくように溺れるように手足を動かし、見えない何かをかきわける。廊下の空気が妙にねっとりと絡みつき、淀んだ匂いが鼻をついた。
それでもようやく経理部のドアを開けた時、私は救われたような気持ちになった。化粧のことをすっかり忘れ、汗びっしょりになりながらも笑みがこぼれる。眉根が寄った視線がいっせいに降り注いでも、私は森本さんと二人きりじゃないことだけが嬉しかった。




