第五話~田町美也~
翌日、私は日に日に増す疲労感に押し潰されそうになりながら何とか出社した。
このままだと間もなくおかしくなってしまう。一人じゃどうにもできない。そんな不安から抜け出したい一心で、同僚の田町美也さんをランチに誘った。
「お昼一緒に? いいよー」
「急でごめんなさい。奢るんで」
「そんなのいいから。あ、じゃあお店だけ決めておいてくれたら嬉しいな。どこでもいいからね、マジで」
この職場で唯一、私が相談できる相手が田町さんだった。ほがらかで話しやすい雰囲気を常にまとっており、二つ年上だからなのか私のことをよく気にかけてくれる人。他の誰にもしないような話も、田町さんならと甘えてしまうことが多い。
ランチの誘いを快諾してくれた田町さんに少し心救われた。だから今は右隣からの視線をあからさまに無視する。刺さるような視線が私を振り向かせようとするけど、何とか堪えながらキーボードを叩く力をほんの少し強めた。
お昼休憩に入ると私はすぐに田町さんと会社を出て、徒歩五分のところにあるうどん屋に入った。店内はサラリーマン達で混んでいたけど、どうにか奥の二人席に座ることができた私達はすぐにそれぞれ注文する。
「こういっちゃあれだけど、珍しいね。何かあったの?」
「森本さんのことなんですが」
その名前を口にした途端、田町さんの頬が引きつった。
「あー、彼女ねぇ。北野さん、教育係だから大変でしょ」
「それもあるんですけど、最近帰り道をつけられてるみたいなんですよね」
そう切り出し、私はここ数日の帰り道の出来事をなるべく細かく伝えた。田町さんは終始真剣な顔で聞いてくれていたが、注文したうどんが到着したので私は話をまとめる。
「そんなことが続いてるんですけど、田町さんから見て何か心当たりというか変わった様子ってわかります? 私、恨まれてるのか何なのかもわからなくて」
私は傍にあった箸置きから箸を田町さんに手渡す。そうして二人とも小さく手を合わせたが、まだうどんには手をつけないでいた。
「ちょっとわからないなぁ。確かに森本さん、どこかつかみどころのない人に思えるよね。他の人ともあまり話さないし、話しかけにくい雰囲気あるもんね」
「まぁ、あまり言うと悪口になっちゃうと思うんですけど、そうなんですよね。なんか怖いと言うか……」
そう、まだ何を言われたわけでもないし、されたわけでもない。だからこれといって悪口をあげつらうのも違うのかな、とは思っている。
「北野さんがそう思うのはわかるよ。私も正直、帰り道で毎日そんな感じで一緒だったら怖いだろうから。でも、もしかしたら単に帰り道が一緒なだけかもしれないもんね」
「それだけだといいんですけど」
釈然としないまま、私はうどんをすする。さすがにこの店で二十分も三十分も居座るのは他のお客さんにもよろしくないだろう。
「まぁ森本さんもまだここに来て日が浅いし、緊張しているだけなのかもね。性格的な問題も大きいんじゃないかな」
柔和な笑みを浮かべ、田町さんが一味唐辛子をたっぷりかけたうどんをすする。私はその言葉に釈然としないものの、飲み込むしかなかった。
「北野さんもさ、今は多少慣れたけど最初はちょっと近寄りがたい感じだったよー」
「さすがにあんなには酷くないと思いますけど」
私は苦笑いを浮かべ、山菜と共にうどんをすすった。
田町さんとは私が新入社員として入社してから、ずっと一緒にいる。彼女の性格や敵意のなさそうな見た目、そして世話焼きなところが相談したいと思える最大の理由だった。他にも社員はいるけど、とてもこんな相談はできない。
それというのも私は学生時代にいじめに遭い、無視され続けることが多かった。
理由は明白。中学生の時にクラスで仲が良かった女子に告白をしたから。私はいけると思ったけど、彼女は違った。次の日からキモイ女と言われ同性から嫌悪され、異性からは色欲の目で見られた。
人間不信。それが今でも尾を引いている。入社してからも先輩社員には距離を置いていたし、同僚もそう。表面上はうまく付き合うようにしているけど、深入りしないしさせない。それが私の処世術。
けれど田町さんは違った。ごく自然に懐に入り込むような感じで、私と接してくれた。それでも私は距離を置いていたものの、いつの間にか気を許してしまって今ではこうして時折相談している。人たらしとはこういう人を言うのだろう。
「ごめんごめん。まぁ、確かにちょっと森本さんは変わってるよね」
「ちょっと、ですかねぇ。しかし、よくあんなんで営業部に一年いましたよね」
田町さんのコップに水を注ぎ、私のも補充する。
「営業向きじゃないのは確かよね。そうだ、営業部の人に知り合いいない? その人に営業部時代のことを訊いたら、何か新しい発見でもあるんじゃないかな」
「営業部の知り合い……」
いるにはいるけど、最近は話をしていないから声かけにくい。でも今はそんなことにこだわっている場合じゃないだろう。
「そうですね。そうしてみます」
私は底に沈んだうどんをかき集め、口に運んだ。
久々の一人きりじゃないランチを堪能すると、悩みを吐き出せたからか心が軽くなった。なるべく人と関わらないような人生を送っているけど、こういうことがあると人のぬくもりというものを強く感じる。
人は一人じゃ生きられない。
そんな当たり前のことすら、感動じみて再確認してしまう。でも私にとって、それはたまにでいい。どんな人だって親密になれば衝突するし、食い違いも出てくる。つかず離れずくらいがちょうどよいのだろう。
昼休憩を終えると、私は早速仕事にとりかかった。そんなに急ぐ仕事は無いものの、気分が心地良い今はとにかく何かに打ち込みたい。だから普段後回しにしているデータ整理に集中する。
「あの……すみません」
二十分ほどしたところで、不意に右側からぼそっと声をかけられた。その瞬間、一気に温度が下がったような気がしたからか思わずビクリと肩を震わせる。右肩がずんと重くなるような感覚の中、さすがに無視するわけにはいかないと自分を鼓舞する。
これも仕事だから。
「どうしたの?」
覚悟を決めてゆっくりと森本さんの方を向く。彼女はもうこちらの方を向いていた。長く重たい前髪の奥で、大きな目だけがギラついている。私の胸がキュッと冷たくなったけど、つばを飲み込み堪える。
「ここの収支が合わないんですけど」
彼女がわずかに首を動かした。森本さんのパソコンには収支計算ソフトが表示されており、確かに総計がおかしなことになっている。
「見直しはしたの?」
「はい……二度しました」
「その部署から上がってるデータは?」
「ここにまとめてます。一部、PDFファイルになっています」
口頭ではちょっとわかりにくい。これはもう、実際に私が確認した方が早いだろう。
「ちょっと見せてもらっていいかな」
「あ……は、はい」
森本さんが席を立とうとし、私がそこに座ろうとした時だった。彼女がまだ机についていた左手に、勢い余った私の右手が不意に触れてしまう。
それはゾッとするほど冷たかった。
あまりにも冷たく、まるで人の温度ではないそれに驚いた私は一瞬にして肝が冷えた。私は思わず目を大きく開き、喉の際まで出かかった叫び声を必死に抑え込む。唇を強く硬く引き締め、すぐ手を離すと何事も無さそうに森本さんの席に着いた。
何でこんなに冷たいんだろう、冷房が直接当たる席でもないのに……。
まるで直前まで氷に触れていたかのような肌の温度。もしくは六年前に亡くなったお爺ちゃんのお別れの時に触れた感覚が私の中に走る。
本当に彼女、森本さんは生きているのだろうか。そんな大前提すら崩れそうになる。
そんな森本さんは今、私の背後に立っている。ただそれだけでずうんと言い知れぬ圧が私にのしかかり、後頭部にあの視線が刺さっているのだから。
ただ、呼吸音が不思議と聞こえなかった……。
そして、首筋に感じるはずの風が無い。
けれど、今は仕事に集中する時間だろう。異様さ、異常さに驚き逃げるわけにはいかない。その点、私はドライなのかもしれない。その問題に集中していれば、少なくとも他の何かを忘れられるのだから。
念入りにチェックしていくと、一ヶ所入力ミスがあるのに気付いた。これは送られてきた元データが間違っており、私みたいに何年もやっていれば気付くもの。けれどまだ経理部として日が浅い森本さんなら、気付かなくて当然だろう。
「ここ、単価間違ってるね。送られてきたデータの入力ミスだろうけど」
「……すみません」
背後からの声はまるで自分のミスを謝るかのような感じだった。さすがにこれに責任を負わせる必要はないので、私はゆっくりと振り返り安心させるよう笑顔を作る。
「いや、これは慣れてないとわからないから仕方ないよ。また何か変なところに気付いたら教えて」
「わかりました……」
その表情はよくわからない。ただ、見上げる格好になっているからか、その目は冷たく見えた。
私はそそくさと自分の席に戻ると、再びパソコンと向かい合う。ただ、まだ触れた手にあの冷たい感触が残っている。気持ち悪くて拭いたいけど、さすがに表立っては出来ない。
だってそうしてしまうと、森本さんに恨まれたりでもしたら困るから。
しばらく困った挙句、私は足を掻くふりをしながら触れてしまった右手の甲をスカートで拭う。右横からの視線が気になるけど、見れば確実に気付かれる。だから足元にだけ視線を落とし、何度かそうしてから再びパソコンに向き直った。
それでも気味の悪さは最後まで拭いきれなかった。




