第四話~信号待ち~
「お疲れ様でした」
今日も仕事が落ち着いていたので、定時で上がる事が出来た。私はいつものようにササっと荷物をまとめ、会社から逃げるように退社する。
昨日の一件は帰宅してからも尾を引いていた。
最寄り駅についてからも常に後ろを気にしていたし、帰り道にいつも寄るコンビニだって行けなかった。そうしてオートロックのマンションに帰ってからもすぐにカーテンを閉め、閉塞感と息苦しさの沼にずっと沈められていたかのよう。
部屋の外から物音がすればもう確認なんかできず、ただ恐がるばかり。せっかく会社から解放されたというのに、ずうっとストレスが積み重なっていた。
それは寝て起きてからも変わらず、会社を休んでしまおうかとも考えた。
けれどそうしたところで何も変わらない。会社に行かなければ森本さんに会わないだろうけど、でもこの不安は絶対に拭えないから。それなら確認のため、会社に行った方が良いだろうと気持ちを奮い立たせたのだった。
そしてその確認はこの帰り道にある。
昨日、私の後をつけてきたのは偶然だったのか。それとも意図しての行動なのかを知りたかった。もし偶然ならば、それでいい。ただ意図してのものならば、本格的に何か考える必要があるからだ。
そうして私はカツカツと若干足早で駅へと向かう。やや曇天模様からの夕暮れの風はいつもなら涼しく感じるけれど、今は妙に悪寒を刺激する。振り返りたい衝動が背中をかきむしるけど、今はまだ我慢の時。
目的地が見えてきた。私は少し速度を緩め、調整する。もどかしさと気持ち悪さの狭間に気がおかしくなりそうになるけど、今日はこのために出社したと言っても過言じゃない。私はやがて前に集う人の背に並ぶよう歩を緩め、足を止めた。
ここは昨日森本さんを確認した、鏡のような壁面のあるビル。
まだ車道側の信号が青になったばかりなので、車は一切減速をせずに行き交う。私は昨日と同じように軽く天を見上げ、それから何気なくビル壁の反射を利用して後ろを確認する。
……いた。やっぱり、いた。
昨日と同じように十メートルくらい後方に、ポツンと森本さんが不自然な位置で立っていた。あの位置からならば、私に気付いているはずだ。
森本さんは昨日と同じように、黙って両手をだらりと垂れ下げたまま立っている。顔を隠した前髪の奥で、きっと私を凝視しているだろう。ぎょろりとした目が、まるで暗闇から獲物を狙うように。
信号が明滅を始めた。
もういい、もう早く変わって。そう願っていても、無機質な機械は定められた時間でしか変わらない。わかっているけど、苛立つ。後ろにいる森本さんはまだ動かないとわかっているものの、もう確認すべきことが終わったので後は逃げ帰りたいという一心が胸を占める。
私は前の方へ潜り込むように入る。傍にいた中年女性に舌打ちされたような気がしたけど、そんなものは後ろの恐怖の前には無に等しい。最前列でつま先をトントントンと打ち付け、爆発しそうになる気持ちをそこから逃がす。
たまらず、もう一度反射を利用して後ろを確認する。すると、森本さんがいなかった。
どこに行ったのかと焦り、私は思わず右側へと振り返る。先程舌打ちしただろう中年女性がじろりと睨みつけてくるけど、気にしない。いや、気にならなかった。それよりも森本さんがどこに行ったのか、それだけが気がかりだった。
いない……。
きっとどこか別の道に行ったのだろう。都合の良い想像だけど、そう思いたかった。私は再び前を向く。車道側の信号が赤へと変わり、間もなく横断歩道の信号が青になる。ふうっと溜息をつきかけたその時、左肩がずうんと気怠くなった。
まさか。
私は背筋に奇妙な汗を感じるよりも先に、左後ろを振り向いた。そのはずみで、背中のブラウスが汗でべとりと貼り付く。
私の左後ろ二人挟んですぐ後ろに、森本さんが立っていた。その二人が背の低い中年男性と若い女性だったからか、あからさまに目立っている。
森本さんの表情は重たい前髪で相変わらず隠されている。だから表情も、どこを見ているのかもわからない。けれど、私にはわかる。じいっと、私を見ているはず。
見下すようなぎょろりとした目で。
私はもう急いで顔を前に戻すと、丁度信号が青に変わった。前のめりで二歩三歩フライング気味につっかかるように前に飛び出すと、そのまま足早に向こう側の人波に潜り込む。
そこからはもう、走った。
見栄も外聞もない。すぐ側まで接近されていた恐怖と困惑が私をただ突き動かすばかり。叫び出したい気持ちを全て足の動きに変え、つま先で走る。
運動は得意じゃない。日常的に体も動かしていない。それでも死に物狂いになれば不格好で非効率的でも、動く。私は駅に到着してもその勢いのまま改札口を通り抜け、最短で乗り場へと向かった。
家に帰って鍵を閉めるまで、生きた心地がしなかった。
そして今日、私は一切振り向く事無く帰り道を急いだ。
背中に森本さんを感じつつ、カツカツとアスファルトをハイヒールで強く叩きながら。振り返ればきっといる。そんな切迫した思いが私の背を濡らし続けていた。




