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黒髪の凝視  作者: 砂山 海


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3/8

第三話~尾行~

 半月ほど経った頃、森本さんに対する不信や違和感は更に増していった。

 私は午前中の作業の合間、トイレのために席を立った。静かに廊下へ出ると別室から忙しそうな声が聞こえてくる。第二営業部からだ。経理ではそんな騒がしくなることはないため、大変だなと思いつつ誰もいない廊下を歩いていく。

 階段脇にあるトイレは正直、そんなにピカピカと綺麗なわけではない。清掃業者の人が定期的に掃除してくれているものの、長年の汚れがタイルにこびりついていて年季を感じさせる。

 もう少しこの辺にもお金かけてくれたらなぁ。

 個室に入り用を足すと、ふうっと小さな溜息。居心地が悪い職場では無いものの、時折こうして一人になる時間が欲しい。贅沢なのだろうか。

 とはいえほんの数分でも落ち着けたので私は個室から出ると、手を洗う。鏡の縁にある黒く腐食した部分や、きっと磨いても落ちないだろう鱗汚れに目が行く。多少潔癖症な所もあるから、こういうのはどうしても気になってしまうのだ。

 ハンカチで手を拭いてからそうっとドアを開けて廊下に出る。誰もいない廊下をコツコツと私のハイヒールの音だけが響く。外は薄曇りのため、日中だけど廊下もどこか暗く感じる。エアコンの効いている室内とは違い、少しじとっとした湿気がまとわりついて鬱陶しさを感じていた時だった。

 不意に背中がゾクリとした。

 じわりと背中に汗が滲み、嫌な冷たさを感じる。目の前を凝視するものの、特に何も無い。このまま足早に戻ろう。そう思ったものの、好奇心には勝てずに振り向いてしまった。

 森本さんがいた。少し遠く、階段の辺りからじっとこちらを見ている。

 やや遠目という以上に黒い髪に隠れ、その表情がわからない。けれど身体の向きから、こちらを見ているんだというのがわかった。彼女はだらんと手を横に下ろし、まるで何かの怪異のようにただ立っている。

 見てはいけないものを見てしまった!

 そんな本能的な恐怖が私を勢いよく前を向かせる。そうして明らかな急ぎ足でカツカツカツと廊下に硬質な音を響かせ、経理部へと向かった。

 いやどうせ、そこに入っても席が隣だから完全に逃げ切れるわけじゃない。それでも他の誰かがいる空間と、長い廊下に二人だけというのは全然違う。私はもう、うっすら涙目になりながら経理部の前まで来ると、やや勢いよくドアを開けた。

 一斉に視線が集中する。けれどそれは当たり前だけど、人のぬくもりある視線。

 私は息苦しさを堪えつつ、何とか正常な呼吸を意識しながら小さく頭を下げて自分の席へと戻った。背中はもうベッタリとシャツが張り付き、気持ち悪い。額にも汗をかいているけど、そこは奇妙に冷たかった。

 少し遅れ、またドアが開いた。確認しなくてもわかったけど、私は一応横目で見る。ドアを開けた森本さんはそうっと閉じ、ゆっくりと私の隣にある自分の机に戻り、音も無く座った。

 そうしてやがて、カタカタと私の半分くらいの速度でキーボードを叩き始める。

 私は何も訊けなかった。彼女の方を向く事すらできなかった。訊きたい事は山ほどあるのに、もう口を開く事さえ何か祟られるとさえ本気で思っている。隣にいるのは同じ部署で働く同僚ではなく、どこか山奥の得体の知れない何かとしか思えなかったから。

 やや冷えた汗のせいか、やたら右側が冷たく感じた。


 たまたまの一回ならば、私だってそれきりで終わっただろう。無理にでも勘違いだと自分に言い聞かせ、乗り越えたかもしれない。

 けれどそれは続いた。何度も。日によっては二度も、三度も……。

 あの階段で私を見られていた時はビックリしたのが強くて、ただ怖かった。けれどそれからほぼ毎日続くことにより、次第に怒りが私の中で湧き上がってきたのも事実。

 ただ、何も言えなかった。それは森本さんに対して得体の知れなさを感じているというのもあったけど、単純に私よりずっと大きかったから。

 体格差というのは単純に恐ろしい。もし揉み合いになった時、きっと私はその体格差で圧倒されるだろう。そして心理的な威圧感もある。常に見下ろされ、こちらが見上げると言うのは屈服感を植え付けられてしまう。

 そして強くこちらが出れば逆恨みされるかもしれない。それが怖かった。

 職場の後輩にそんなことを考えるのは本来おかしいし、ありえない。狂った妄想に囚われ、相当失礼な誤解をしているだけかもしれない。そう考える事もあったけど、でも何も言わない彼女がじっと私の方を見ていれば、そんな私側の非も揺らぐ。

 そうした葛藤や視線のせいで、職場に来る事、居る事が辛くなってきた。

 だっていつだって彼女の視線を感じるのだから……。

 お昼やトイレ休憩などで席を離れても、傍にいる気配がある。いや実際、いる。つい先日もお昼買いに行った時に私の後ろでレジ待ちしていたし、珍しく外食していたら離れた席で食べていた。

 そしてそれを一言も話題に出さない森本さん。私も訊くに訊けないまま時が過ぎた。


 さらに三日前から、尾行されている事に気付いた。

 もしかしたらもっと前からあったのかもしれない。けれど、気付いたのは三日前。そしてそれは偶然の産物でもあった。

 その日の私は仕事を定時前に終え、若干の余裕があった。メールチェックをしたり、もうすっかり頭に入っている明日の予定を何度も確認し、時間を潰していた。時折他の同僚に目を向ければ、みな手段は違えど同じような感じ。

「それじゃ、お疲れ様でした」

 定時きっかりに仕事を終えると、私は急いで荷物をまとめて会社を出た。前からそうだったけど、最近は輪をかけて会社にいたくない。一分一秒でも離れ、家に帰りたかった。

 デスクワークなので帰り道を歩いている時に身体の凝り固まりを感じる。人波の合間にふうっと溜息をつき、信号待ちの時に天を仰いで背中をこっそり伸ばす。まだ陽が高い空を見れば、若干心が軽くなる。明るい時間に帰れると、得した気分になれるから。

 今度は首周りのストレッチを兼ねて、自然な様子で周囲を見回す。毎日通る道なのに、入った事のないお店やビルばかり。あぁそうだ、あそこのカレー屋なんかも気になっているのに結局……。

 見てはいけないものが偶然見えた瞬間、私の脳天から背中にかけて巨大な氷柱が落ちたかのような衝撃が走った。

 それは鏡のようになったビルの壁面に反射した人影。手足の先が冷たく痺れ、動悸が早まるのと比例して呼吸も浅くなる。見間違いであって欲しい、そうであって欲しい。そう願いつつ、私はまたゆっくりとそちらへ目を向けた。

 森本さんだ。

 信号待ちをしている私達のやや後ろ、不自然な位置にぽつんと立っている。

 あの顔を覆うような長い髪の毛にだらりと垂らした両の手、そして男性とほぼ変わらない背の高さ。それらが異様に際立っており、見間違えるわけがない。

 なんで森本さん、ここにいるの? 前は会社を出てから逆方向に歩いて行ったのに。そっちが帰り道じゃないの?

 車道の信号が明滅し始めた。もうすぐここが渡れるようになる。

 私はもう一度彼女の方を確認した。すると、ゆっくりと歩き出すのが見え、急いで前を向く。車道の信号は赤に変わり、間もなく横断歩道が青になる。けれど、それが長い。背後からは静かに近付く森本さんがいる。

 少しでも逃れようと、私は隙間を縫って前に出る。得体の知れなさが会社から飛び出して来たかのような怖ろしさに、私はもう頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 そうして一番前に立つと、信号が青になった。

 どこか間抜けな誘導音がやけに耳につく。私は足早に横断歩道を渡り切ると、普段曲がらない道へ行こうかと一瞬迷う。ただ、どう行ったところで目的地が駅だと知られているかもしれない。

 だから私はそのまま直進し、人波に隠れるようにしながらひたすら前へ前へと進む。段々息が上がってくるけど、かまわない。他の名も知らない人にどう思われてもいい。それよりも森本さんと関わりたくなかった。

 もし肩でもつかまれたら、心臓発作でも起こしてしまうんじゃないだろうか。

 そんな妄想が頭から離れない。そんなこと、あるわけないのに。でも、拭いきれない。私をじっと見るあの目、髪の毛の奥から凝視する視線が私をおかしくさせている。

 目の前の信号が変わりかけていた。私はもう誘導音の鳴っていない横断歩道を走って渡り、完全に引き離す。そうして赤になってから振り返ると、背後に車が行き交う。森本さんの姿はもうどこにも見えない。

 私がどこの駅で降りているか、それは誰にも言っていない。会社の誰にも、どの辺に住んでいるのか言ったことが無い。だから電車に乗ってしまえばもう大丈夫だろう。

 ただそれでも、背中にまとわりつくような黒い影のようなものは晴れないままだった。

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