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黒髪の凝視  作者: 砂山 海


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2/8

第二話~凝視~

 一週間は手取り足取り教えた。

 上司からは過保護と言われたけど、新人の時に一度言われただけで放置され、聞き直せば「教えたでしょ」と叱られたのがトラウマになっている。もうあんな目に遭う人をなくしたい、そんな一心だった。

 それでも彼女は若干物覚えが悪そうだった。自分が大卒四年目で慣れてきたからか、なおさらそう思う。一通り教えたし、これ以上はわからなかったらいつでも訊いてと伝えた。ここからはもう自立心を促すしかない。

 それに、あまり森本さんと話したくなかった。

 例えば初日、午前中の仕事が一段落して課長が「お昼にしようか」と声をかけた時だった。私はちらと横目で彼女を見、手が止まったのを確認してからゆっくりと顔を向け精一杯の笑顔で「お昼、どうするの?」と声をかけた。

「あ……いえ……」

 うつむき、何か言っていたのだけど聞き取れなかった。もうこの時点で気持ちが萎えたけれど、初日だからもう少し絡んだ方が良いだろうと思い直して森本さんの方へと向き直った。

「お弁当あるのならいいんだけど、もし無かったら食べに行こうか」

 すると森本さんが前髪の奥からギロリと私を凝視してきた。その大きな目はまるで私を吸いこもうとするような圧があり、思わず笑顔が強張った。

「あの……一人で……」

 低く、ぼそぼそと話した中でかろうじてそれだけが聞き取れた。

 私はもう背中に奇妙な冷たさを感じ、愛想笑いをしながら逃げるように席を立つしかなかった。それはもう得体の知れなさを受け入れたくなくて。

 ひとまず形だけでも誘えたからいいかと思いながら、社会人にもなってまともなコミュニケーションの一つも取れないのかと、その時は腹立たしさもあった。

 また森本さんは話題の一つも振ってこない。むしろ会話が成り立たない。

 話し好きとかそうでないかとか、性格上の問題もあるだろう。来たばかり、入ったばかりならばなおさらだと私も一定の理解を示している。

 ただ、彼女のそれは度を越している。

「あのさ、休日とかどんな事をしているの?」

 これも初日の午後、仕事が谷間に入って少し暇になった時に私は柄にもなくそんな質問をした。他の同僚とは滅多にしないけど、さすがに新しく入ってきた人には少しくらい気を遣いたかったから。

「特に、何も」

 こう言われた時、会話をシャットアウトしたいのかなと察した私の胸が痛んだ。でも質問の仕方が悪かったのかもしれない。

「あー、じゃあ何か好きなものとかは?」

「何も……」

 話しにくい。会話の糸口が見当たらないな。

「そう言えば午後から雨降るみたいだね」

「……はい」

 それきり私は会話を諦めた。

 二日目、三日目も何とか合間を見て話しかけてみたものの、ずうっとこんな感じ。私だってそんなにコミュ力強いわけじゃないけど、もう少し会話ができる。

 けれど森本さんの場合、壁に向かって話しているかのよう。

 これじゃあどこに行っても駄目だろう。営業なんて最も向いていない。だからここに移動となったのだろうけど、ここだって最低限の意思疎通は必要だ。一体何を考えているのだろうか。

 一事が万事そんな感じなので、私も次第に余計な事を話さなくなっていった。

 私だって、教える側だって愛嬌のある人ややる気のある人には熱心に教えたい。だけど森本さんはそれが一切無い。だから教えても理解しているかわからないし、訊いてこないからこっちも理解したんだとばかり思う。

 それでミスが多いのだからどうしようもない。

 結局、後始末をするのは私。まぁ、それはいい。百歩譲って、新人だから仕方ないと頑張って飲み込める。

 ただ気になっているのは……あの目。視線だ。

 自分の仕事をしている最中に、不意に感じる奇妙な圧。それはいつだって右隣から。

 そして今もそう。

 そうっとパソコンに向かって仕事をしているフリをしながらゆっくりとこっそりと、森本さんの方を見る。すると一瞬だけ会うあの重たい前髪の奥の目、ぎょろりとした大きな眼が私を凝視していた。

 背中を氷の刃で貫かれたような感覚に襲われる。頭を後ろからざっくりと切られたかのような、心の底から震え上がりそうな強い痛みのような気色悪さ。

 それがもう嫌で嫌で、たまらない。

 私の視線に気付くなり、森本さんは静かに自分のパソコンに向き直る。カタカタとキーボードを打つ音だけがオフィスに広がり、誰も何も無かったかのよう。そんなこの場に、私の心臓の音が聞こえそうなほど激しく鳴っている。

 落ち着け、落ち着け……。

 おまじないのようにそう心の中で唱え、荒ぶる鼓動を抑えつけようとする。そうして目を閉じ、深呼吸。静かに大きく吸い、吐く。また吸って、吐き出す。そうして少し鼓動が落ち着いたと思い、静かに目を開けた。

 目の前のパソコンにはやりかけのエクセルの画面。いつも通りの日常、いつもの仕事。そう自分を納得させてキーボードに再び指を置こうとした時、違和感を感じた。

 ざわりと少し粗めのスポンジで背中を撫でられたかのような、気色悪い痛みを伴う不快感。

 反射的に右側へ目を向ける。けれどそこに森本さんはいなかった。

 え……いない? さっきまでいたのに?

 私が目を閉じていたのは体感ほんの数秒くらい、長くても三十秒だろう。その間にいなくなるなんてと頭の中で疑念を抱きつつも、ザラついた猫の舌で私の背を舐めるような不快感は相変わらずある。

「あのぅ」

 不意に背後から聞こえた声、私は全身が総毛立ち思わずパソコンに向かって大きく目を見開く。反射した画面から私の顔がぼんやり映り、凄い顔をしているのがわかる。それが他の人に見られているのかどうかは、もう関係無い。

 ただもう、森本さんの世界に閉じ込められているかのよう。

 静かに、でも徐々に息が荒くなる。後ろを振り向いてはいけない気がしたけど、でも彼女は人間。そう、人間なんだ。そうわかっているのに、どこか信じきれない思いも生まれて躊躇してしまう。

 後ろにいる。間違いなく、後ろにいる……。

 背中の汗が止まらない。ブラウスがもうべっとりと貼り付き、気持ち悪い。けれどそのままだと、いつまでそうしているのかもわからない。じっとしているべきか、それとも思い切って動くべきか。

 そんな迷いを数秒抱いた後、私は思い切って振り返った。

 影を感じた。そうして黒い壁が私を覆っており、視線が上がるにつれ心が冷えていく。私の目の前はまだ彼女のお腹部分。大きく早くなる鼓動と共に、おそるおそる視線を上げていく。

 不意に目が合う両の眼はきっとこれ以上なく大きく見開かれ、私を見下ろすように凝視していた。重たげな漆黒の前髪から覗くそれは私の心を射抜き、壊すかのような威圧感。思わず息を呑み込み、震える心を抱きつつゆっくりと貼り付いた唇を引き剥がす。

「なに? 何かあるの?」

 すると森本さんの顔が強張る。一瞬その目力を更に強くした後、ゆっくりと私から顔をそらした。

「あ……いえ……大丈夫です」

 長い髪に隠れ、よく見えない表情が更に見えなくなる。ぼそっとそれだけ呟いたかと思えば、まるで幽霊のようにすうっと音もなく席に戻った。

 キィッと椅子のきしむ音がわずかに響く。それで森本さんの質量を確認すると、私は耳の奥まで血液が激しく流れる音がするくらい鼓動が荒れていた。たったそれだけの動作に、私の精神が荒く削られていくかのよう。

 森本さんはこういう人なんだ。慣れればきっと、問題無い。

 無理矢理納得しようとするけど、キーボードを叩く指先が震えて打ち間違いが頻発する。私は先程の光景を思い出してしまい、心に暗い影が棲みつくのを感じていた。

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