第一話~森本星羅~
カツカツカツと私のハイヒールが強くアスファルトを叩く。まるで私の足音では無いみたいに硬く、歪に。
まだ少し高い陽が傾き出した頃、それが疲れ切ったサラリーマン達を置き去りにするように響き渡る。それはビルの谷間に吸い込まれ、やがて周囲の人工音に吸収されていく。
あの子が来る。
私は強く唇を結び、足を止めない。行き交う人波を縫うようにしながらバッグを抱え、駅を目指す。息が荒いのは小走り気味だからか、それとも緊張のせいかわからない。
振り返れなかった。そんな事をしなくても、迫ってきているのがわかる。いやもう、すぐ後ろにいるかもしれない。もし振り向いてしまっているのを確認してしまうと、動けなくなってしまいそうだ。
全力では走れない。それは注目を集めすぎる。そうしてもし、明確な拒絶を突きつけたら何をされるかわからない。
だってあの子、何を考えているのか全くわからないから。
だから私は誤魔化せるくらいの速度で駅へと向かう。仮に声をかけられ、どうしてと言われてもいいように。
少し先の横断歩道の青信号が明滅する。これが救いだとばかりに私は更に速度を上げ、駆け込んだ。もう私の横には誰もいない。みな、前を急いで歩いている。
渡っている最中に赤信号に変わったけど、焦りよりも若干の安堵が生まれる。これで追いつけなくなったはずだ。
そのままの勢いで渡り切っても、なお私は足を止めない。あと三ブロック先に駅舎が見える。ビルから照り返した陽が一瞬目に入り、私はうっと目を細める。けれど止まらない。一瞬でも止まれば、追いつかれるかもしれないから。
べっとりと背に汗が滲む。生ぬるいビル風がそれを撫でると、まるで彼女の手がそうしているかのようでゾクリと震える。夢の中のように足が重く、ねっとりとした夕暮れの空気がやけに絡みつく。
息を荒くし、小走りの私を誰も見ない。色とりどりの服を着て、色んな年代の人がいるけどみな灰色のよう。そんな中で横断歩道の誘導音だけが妙に耳につく。
もう何日もこうだ。
最近は嫌で嫌で、会社に行きたくないとすら思っている。だけどきっと誰も信じない。誰も私と仲良くないから、話す事も出来ない。私の創り出した壁が私の自由を奪い、徐々に迫ってくるかのよう。
あの子が……森本星羅が来た時から全てがおかしくなった。
それは一ヶ月ほど前の出来事だった。
いつものように会社に出勤すると、何だか周囲がいつもよりざわついているのが気になった。けれど私は無関心を装いながら、自分の机にバッグを置くとパソコンを起動する。
オフィス街の一角にある築三十年のビル、それが私の職場。パソコンは二年前に入れ替えたため、不満はそれほどない。けれどトイレや休憩室など一部は改修されていない箇所もあるので、全体的に古ぼけた印象が強い。
周囲のざわつきが嫌でも聞こえてくる。私は今日のスケジュールを確認しながら、こっそりと聞き耳を立てた。
「なんか他の部署から人来るらしいよ」
「誰かわかる?」
「いやー、わかんない。まぁうちの部署、先月加藤さん辞めたから人足りないし丁度いいんじゃないかな」
向かい側の机のお喋りを盗み聞きし、私はやっと起動したパソコンでメールチェックしながら一人納得する。
そっか。やっと補充してくれたんだ。
中規模商社であるうちの会社は営業部がメインとなっている。その分、総務や経理は常に人手が足りない。営業で使えないと判断されたら足りない部署に回される事がよくあるので、これは特に驚く事ではない。ここはそういう会社なのだから。
ただ回されてきた人はすぐに辞めてしまう事が多かった。
第一にまず、営業よりも給料が下がるから。第二に畑違いの事をやるのに色んなスキルが必要で、それについていけなくなるから。第三に……これはこの会社の悪いところだけど、新人にみんな教えたがらない。
責任を取るのが嫌なのだろう。そして、自分の仕事を奪われるのも。
人手不足と言ってるくせに、自分の首を絞める事ばかりするのが本当に納得いかない。だから今度来る人には私がちゃんと教えてあげようかな。
メールチェックを終えて本日の業務に追加する内容を整理していると、より一層ざわついた。パソコンから顔を上げれば、課長が強張った笑顔をしながら「おはようございます」と入ってくる。
課長のすぐ後ろにいた人物を見て、私も思わずギョッとした。
それは一言で言えば異様、だった。
百七十センチはあるだろう背の高いその人は重たげな黒髪を腰のあたりまで伸ばしている。それだけならまだしも、前髪が長くて顔の半分が隠れていた。スカートを履いているので女性なのだろうというのがかろうじてわかる。
「えー、じゃあ朝礼を始めます」
課長がそう言うと、みんな起立した。経理部は私を含め、五人。うかがうようにこっそりみんなの表情を見れば、一様に硬かった。
「まず本日からここで働く事になった森本さんです」
紹介された彼女は小さく頭を下げた。重たげな黒髪が邪魔をして、よく顔が見えない。
「森本星羅です。営業部から本日付でこちらで働かせてもらうことになりました。よろしくお願いします」
背丈に見合わず聞き取れるかどうかの小さな声。私達はみんな眉根をひそめ、耳に意識を集中していた。そうしないとならないのは彼女の声が低かったからかもしれない。
そして顔を再び上げた時、私を含めみんな息を飲んだ。
前髪からわずかに覗く大きな目。どこか睨みつけるような異様さを孕んでおり、思わず背筋に冷たいものが走る。まるでお化け屋敷で見るようなその風貌にみんな固まった時だった。
「はい、ではよろしくお願いします」
課長が強張った笑顔のままパチパチと手を叩く。私も思い出したように手を叩くと、他のみんなも続いた。乾いた硬い拍手の音が小さく短く経理部に響き渡る。
「えぇと、席は北野さんの隣が空いてるのでそこに座って」
名前を呼ばれた私はビクッと身体を強張らせたけれど、先月いなくなった加藤さんの机がそのままだったから仕方ない。それに、一度は教えると決めたんだ。第一印象で全てを決めつけるべきじゃないだろう。
「北野さん。森本さんに教えてあげて下さいね。他の人も上手くフォローして、業務を滞りなく回すようにしましょう。では本日もよろしくお願いします」
課長が頭を下げ、私達もそれにならう。そうしてすぐ、課長が森本さんを連れて私の右隣の空いた机に案内してきた。
「じゃあここが今日から森本さんの席だから。北野さん、よろしくお願いね」
「わかりました」
そそくさと逃げるように課長が自分の席に戻ったのを見てから、私は森本さんに向き直った。私が百五十三センチしかないから、傍に立たれるとかなり威圧感がある。男性とは違った大きな女性特有の威圧感に飲まれそうになるけれど、何とか社会人四年目の意地で笑顔を作った。
「北野桃華です。よろしくお願いします」
「森本星羅です。よろしく、お願いします……」
必然見上げる形になったからか、にいっと不気味に上がる口角に悪いと思いつつも得体の知れない不気味さを抱いてしまう。声も小さいからなおさらだ。そのくせ目だけが爛々としているかのように大きく見開いている。
だからもう、愛想笑いをしながら会釈するだけで精一杯だった。
とりあえず来たからには戦力になってもらわないと困る。そう考えた私は机の奥深くにしまってあった一冊のマニュアルを取り出した。そうして中身をパラパラと確認してから、隣の森本さんに差し出す。
「これね、私が作った基本的な業務のマニュアル。大きく変わっている所は無いと思うけど、目を通しておいてね」
新人時代、もういなくなった先輩に毎日怒られながら作った自作のマニュアル。自分のためでもあったけど、いつか役に立つだろうとあの時思ってたこれがようやく日の目を見る時が来た。
「ありがとう、ございます」
小さく頭を下げ、相変わらずぼそぼそと言う森本さんにあまりいい印象は抱けない。でも職場の人達は友達ではない、働いてもらって自分の負担が減ればいいのだ。
「もちろんわからない事があったら、遠慮なく聞いて。とりあえず──」
だからどんな人であれ、仕事を覚えてもらう。他の人達は仲間意識が妙に強いみたいだけど、私はそうじゃない。機械的にこなしていくだけだ。
一瞬、電灯が妙な明滅をした。
寿命なのかもしれない。ただそれだけ。なのにどうしてか、森本さんが来たからかもしれないと私は奇妙な符合を見出そうとしていた。




