最終話~素顔~
夕暮れ時の喫茶店は混んでいたけど、私達は何とか待ち時間も無く奥の席に案内された。客層は様々で、女子高生からスーツのよれたサラリーマンまでいる。けれど共通して、自分達の世界に入り込んでいた。
「ご注文、お決まりでしょうか」
席についても無言の私達を無視するように、若い店員さんが声をかけてくれた。私がブレンドコーヒーを頼むと、森本さんも同じのをと告げる。
「かしこまりました」
店員さんが去ってもなお、私達の間にある緊張感は薄れない。何を言えばいいのか、何が正解なのか私にはわからないまま。だって森本さんと親しくないから。どんな話題が好みなのか、何が嫌いなのかわからないので言えない。
下手に地雷を踏みたくなかったから。
コーヒーが届いても、沈黙は守られていた。まだ湯気の立つそれを猫舌の私は飲めないので、必然的に手持ち無沙汰になる。森本さんも相変わらず黙ったまま。
「それで、話ってのは……」
我慢できず私がそう尋ねると、森本さんが静かに頭を下げた。
「まずはこちら、お返しします。トイレでぶつかった時、落とされたので」
そう言うなり、森本さんがバッグから私のスマホを取り出し、コトリとテーブルの上に置いた。あの時かと私は納得しつつ、馴染み深いスマホを手に取ると今度は大事そうに胸元へ引き寄せた。
「話って、このこと?」
スマホを返してくれたからか、若干心に余裕ができた。そのため、森本さんの大事な話がなんなのかちょっとだけ興味がわいてくる。だってもう、いざとなったら逃げられるのだから。
「あの……まずはいつもご迷惑をおかけしているみたいで、すみません」
開口一番、相変わらずの小さな声で謝られたため私は完全に虚を突かれた。どうして謝られるのか、さっぱりわからなかったから。
どう返していいのかわからず困惑していると、森本さんが小さく頭を下げた。
「そして、ありがとうございます」
今度は感謝され、さらに私は困惑する。きっとすごい顔をしているのだろう。眉の位置が定まらない。
「あの……意味がわからないんだけど……」
すると森本さんがテーブルと平行になるくらい頭を下げた。重たげな前髪が彼女の表情を完全に隠し、こちらから見ればまるで何らかの怪異のようだ。
「私、こんな人間なので……人付き合いが、本当に苦手で……。でも、北野さんはとても丁寧に仕事を教えてくれて」
「え、いや……それはまぁ、仕事の仲間だし。戦力になってもらった方が私も助かるから」
予想していなかった言葉に私もしどろもどろになる。けれど森本さんはピクリとも動かない。
「営業部ではそんなこと無かったものですから」
相変わらず表情は見えない。けれど、今まで抱いていた怖さは薄れていた。それは彼女としっかり向き合って話しているからだろうか。
「まぁ、こう言ったら何だけど……森本さん、営業には向いてなさそうだしね」
「はい、自分でもそう思います」
小さな笑いが彼女から聞こえる。やっぱりそれは不気味。でも今までほどじゃない。何なら少し楽しいのかなとも思える。
コーヒーを一口飲むと、少しばかり雨に濡れて冷えた身体が暖まるのを感じた。冷たかった指先にも血が巡り、ようやく一息つけたかのよう。森本さんはまだ頭を下げて続けている。よく見れば艶のある、綺麗な髪だ。
ゆっくりと私の心もほどけていくのがわかる。だからか、もう逃げ出そうという考えはどこかに消えていた。座り直した時、強張っていたお尻の筋肉が緩んだかのように深々と私は背もたれに体を預ける。
「それで、異動希望に経理を選んだって聞いたけど、元々経理がやりたかったの?」
「そういうわけじゃないんですけど……」
モゴモゴとうつむきながら発せられた言葉はかろうじてそれだけ聞こえた。よく聞こえなかったため、私は眉根を寄せながら少し顔を近付ける。
すると彼女ががばっと顔を上げた。その拍子に今まで彼女を覆っていた前髪が横に流れる。
はっきりと表れた彼女の顔。それは二十三歳という肌の若さもそうだったが、思っていたよりも目鼻立ちがはっきりしていて、有り体に言えば美人顔だった。前髪越しに見ていたギョロリとした目は羨ましいほどに大きく、二重もあいまって美しい。
そうして見えた森本さんの顔は怪異なんかではなく、ただ緊張し怯える若い女の子そのものだった。
「私、北野さんに近付きたくて」
「えっ? 私に?」
その顔を見てしまったからか、そう言われて思わずドキリと胸が疼いた。森本さんはその大きな目を爛々とさせ、私を見詰める。あの重たい前髪から覗いていたその目、今思えば細目だと見えなかっただろう。
ガヤガヤと賑やかな会話とコーヒーミルの音が響き渡る。視界の端から彩りが生まれ、灰色だった世界が賑やかになっていく。
その中で私は森本さんの口元に注目していた。薄く、でも綺麗な色をした唇に。
「あの私……北野さんがその……タイプと言うか好みで……それにこんな私にも優しく教えてくれて。そんな人、北野さんしかいなかったから」
言い進めるほどに顔が強張り、赤らんでいく。その顔がだんだんと可愛く見えて、何を言ったのか一瞬理解できなかった。そして一拍置いた後、意味が頭の中に浸透して思わず眉根が寄っていく。
「営業部にいた時から、ずっと気になっていました。ハイヒールで颯爽と歩く姿が、すごく素敵で……」
その眼差しが言葉よりも雄弁に語っているような気がした。ふわっと甘い匂いが漂ったのはきっと、近くの人がスイーツでも頼んだのだろう。だけどそれは今の私の心に強く反応し、閉ざしていた心が開いていく。
「え……もしかして森本さんって、そうなの?」
顔をこわばらせながら森本さんが小さくうなずく。私よりずっと背が高い美人顔が泣きそうな子犬のようになっている姿に胸がきゅうっと締まる。
あぁ、きっとこんな性格だろうから幾つもの報われない想いを抱いては捨ててきたのだろうな。私を睨む目、いつしか傍に立っている姿、その他色んなものが好意によるものだったのだろう。
思い違いをしていた……。
だからなのかあんなに怖かった森本さんが、どんどん人間味を帯びていく。そうして恐怖のフィルターが外れていくにつれ、もっと知りたくなった。
「いやでも……待って、整理させて。私が帰る時、ずっと後をつけてたよね?」
「少しでも、後ろ姿だけでも見ていたくて」
その気持ちがわかった途端、ほんの少しだけ可愛らしく思えた。いやでも、やっぱりあれは違うかもしれない……。
「いや、あれ怖いから。離れたとこにいたり、無言で傍に来るのは」
「すみません。一応声をかけていたつもりだったんですけど」
雑踏にかき消されていたのか、それとも私が怖くて聞こえなかっただけなのか。
「なんか妙に手が冷たかったことがあったけど」
「元々すごい冷え性なんですけど、緊張すると血流悪くなるのか……」
「たまに私の背後に立っていたのは?」
「話しかけたかったんですけど、緊張して何を話せばいいのかわからなくて」
私は大きくうなだれた。そうして目を閉じ、過去の森本さんを思い浮かべる。私が怖がって逃げていた森本さんが好意による緊張だとしたら、それも合点がいく。
まるで正反対のことなのに。
自分の人間不信から、ことさら怖がっていただけなのだろう。
「北野さん?」
うなだれ笑う私に、森本さんが不安そうに声をかける。私はやっと全部がまるっきりの思い違いだった事にバカバカしさを覚え、声を出して笑うしかなかった。
「森本さん、明日から今みたいに顔出すようにした方が良いよ。その方がみんなの誤解も解けるから」
「え……あっ」
森本さんは慌てて横に流れた前髪を寄せ集めようとする。私はその手をとっさに止めた。相変わらずすごく冷たい手。でも手の冷たい人は心が温かいともいう。
「それに、私も見たい。森本さんの顔、私のタイプなんだもの。それに、今思えば……色々してくれたもんね。コーヒーくれたり、スマホ拾ってくれたりさ」
カッと見開かれた目がすぐに落ちた。ふっと漏れた森本さんの吐息には温かさが確かに感じられる。私は頬のみならず耳まで赤くなった彼女にもう戻れないほどの恋の鼓動を感じていた。
彼女は私だ。少し前の、誰とも関われなかった私。そう思えば、少しだけ愛おしくなった。同情や自己愛ではなく、忘れかけていた恋心が私の中で再び火がともる。
「せっかくだから、もう少し話そうか。ご飯でも食べながら」
自然と生まれた笑みはきっと殻を破った証拠。
だってこの手、少しずつ温かくなってきているのだから。




