第2話 魁斗の修行(地獄編)
重厚な黒塗りのビル。その最上階にある一室。
扉には銀のプレートで誇らしげに記されている。
【特級除霊師 神楽坂 冥 事務所】
「失礼します……!」
魁斗が緊張の面持ちで足を踏み入れた瞬間、鼻を突いたのは霊の匂いではなく、
放置されたカップ麺と使い古された呪符の混ざった饐えた臭いだった。
「……え?」
そこは、言葉を選ばずに言えば『魔窟』だった。
高級なペルシャ絨毯は見えない。代わりに、中身の入ったままのゴミ袋が山をなし、床には書き損じの呪符が雪のように降り積もっている。
キッチンに目を向ければ、洗っていない食器がバベルの塔のごとくそびえ立ち、あろうことかシンクの真ん中には血塗られた日本刀が「洗い物」の一部として突っ込まれていた。
「……ここ、ゴミ屋敷ですか?」
「違うわ。日常よ」
声の主は、山積みのクッションに埋もれていた。
冥だ。漆黒の隊服は脱ぎ捨てられ、今は異様に短いショートパンツに
「無駄死に」と書かれたTシャツ姿。
ポテチを咀嚼しながら、タブレットでアニメを観ている。
「いや終わってるでしょ師匠!! 特級除霊師のプライドどこ行ったんですか!!」
「……うるさい。修行を始めるわ」
冥がのそりと起き上がり、ポテチの粉がついた指を一寸の狂いもなく魁斗へ向けた。
「まずは基礎……『環境制御』」
「……はい! 除霊の呼吸法とかですか!?」
「掃除。片付け。洗濯。皿洗い。以上よ」
「ただの家事!!!」
「戦場は常に清潔であるべき。淀んだ空気は悪霊を招く。……まあ、ここは淀みすぎて一周回って誰も来ないけど」
「じゃあなんで汚いんですか!!!」
「やる人がいなかったから。……さあ、始めなさい。一箇所でも埃が残っていたら、あんたの首をこの刀の錆にしてあげる」
修行開始(ただの奴隷)
「はぁ……はぁ……死ぬ……!!」
数時間後、魁斗は四つん這いで雑巾がけをしていた。
事務所は異様に広く、しかもただの汚れではない。
呪力の残滓がこびりついた「霊的油汚れ」が壁一面を覆っている。
「遅い。その速度だと、悪霊に食べられる前に寿命が尽きるわね」
冥はソファでゴロゴロしながら、リモコンで魁斗を指し示す。
「言い訳は弱者の証明よ。……あ、そこのポテチの袋も捨てておいて」
「ブラック企業の王かあんたは!!」
キッチンでは、魁斗が食器と格闘していた。
「なんでフライパンに呪符が貼ってあるんですか!? 焦げ付き防止!?」
「油汚れ防止。……あと、たまに換気扇に棲みつく『煙の霊』を封印してる」
「食の安全がゼロだよこの家!!!」
脱衣所では、返り血のついた隊服を揉み洗いする。
「なんでこんなに血が……日常で返り血浴びる生活ってなんなんですか!!」
「仕事よ。安心しなさい、それは私のではないわ。……地獄に堕ちた連中のもの」
「もっと怖いわ!!」
しかし、奇妙なことが起こり始める。
魁斗が触れる場所、拭く場所、洗う場所から、次々と「重苦しさ」が消えていくのだ。
「……この汚れ、しつこいな。……消えろ!」
魁斗が雑巾を叩きつけた瞬間。
ピカッ。
雑巾が触れた一点だけが、物理的な清掃を超えて、「新品の状態」を通り越し「存在していなかった頃」の輝きを放った。
(……まただ)
ポテチを食べる手を止め、冥の鋭い眼光がその一瞬を捉える。
普通の掃除なら、汚れを「移動」させるだけだ。だが、魁斗の掃除は違う。
彼は、その場にある「汚れという概念」そのものを、世界から消去(浄化)している。
(こいつ、無意識に術式を上書きしている……。ただの掃除を『最高位の広域浄化』に変えているわね)
すべてが終わった時、事務所は一変していた。
ゴミ一つなく、空気は高山の山頂のように澄み渡り、壁は自発的に光を放っているかのように白い。
「終わった……もう一歩も動けねえ……」
魁斗は、かつて魔窟だった床に大の字になった。
冥は立ち上がり、周囲をゆっくりと見渡す。
その瞳に、一瞬だけ驚きが混じる。
(……呪符の残滓どころか、私が長年かけて染み込ませた殺気まで消えている。なんて図々しい浄化能力)
「……合格」
「え?」
「最低限、“使える”わね。家政婦として」
「除霊師として認めてくださいよ!!」
その時だった。
ピキッ……
魁斗の周囲の空間が、ガラスが割れるように歪んだ。
先ほど魁斗がまとめた山のようなゴミ袋。
それが一瞬、蜃気楼のように揺らぎ
最初からそこにゴミなど存在しなかったかのように、完全に消失した。
「ん? ゴミ袋、どこに置きましたっけ?」
(……まただ)
(こいつは“綺麗にした”んじゃない)
(“なかったことにした”)
頭をかく魁斗に、冥は冷たい、けれど底知れない興味を孕んだ笑みを向けた。
「……面白い。明日からは実戦よ。死ぬわよ?」
「だから軽く言うなって! ……でも、やっと修行っぽくなってきましたね!」
冥は、暗闇の中で静かに呟いた。
「……ええ。地獄を消せるあんたが、地獄の中でどう足掻くか。……たっぷり見せてもらうわ」




